2012/09/12

調号から主音を判定する


メモがてら。

調号から何調なのかを知る方法。


ハ長調において、各音の間隔は以下のようになっている。

C(全)D(全)E(半)F(全)G(全)A(全)B(半)C


調が変わってもこの間隔は同じである。
その調名の音(主音)の前の音との間隔は半音である。
ただし、半音の間隔はもうひとつある。ハ長調の場合はEとFの間隔がそうである。
主音を判定するには、全音間隔が3回続いたあとの半音間隔の後の音を探せばよい。

バカ正直に判定するなら、実際に#をつけてみて「C,D,E,F#,G,A,B,C,D,E,F#,G...で、全全全半となっているところの後は・・・Gか。」となる。


が、調号を見ただけで判定できる方法を知った。


まず、#の付いた音は主音でない、ということがわかる。

#がつくという事は、半音あがるということである。
半音あがるということは、ついた音とその前の音との間隔は必ず全音になる。
もともと全音だった場合は、その前の音にも#がつく。そうしないと間隔が全+半になってしまうからだ。


調号の#を書く順番は「ファドソレラミシ」と決まっているそうである。
なぜ「ドレミファソラシ」の順番と違うのかは不明。後で調べる。
そして、一番最後(右)に#がついている音の全音上の音が、調音なのである!

これは楽典に決まりごととして書いてあることなので
ちょっと楽器を習った人などには常識かもしれないが私にとっては大発見だった。


Fのところに一個だけついている場合は、Gとなる。
FとCについている場合は、Dとなる。
FCGDAEと、6個付いている場合は、F#。


これでもう調号なんか怖くない。

「ファドソレラミシ」の順番で#を付けるというのは、この判定ができるようにとの理由かもしれない。



ちなみに私はギターを少々弾く。教則本も途中までやって、訥々とであるが楽譜を見ながら弾いたこともあるので、ごく基本的な譜面の読み方はわかる。

だが、私がギターを弾くのはポップスや歌謡曲のコードをジャンジャカジャンとやるのが主なので、楽譜の調号を見るような機会は少ない。
カポタストという便利なものもあって、それをつけるだけでハ長調と同じ弾き方をして移調ができる。


だが最近iPadでgaragebandをいじるようになり、キーボードを弾くようになった。
iPadの画面の中の狭いキーボードであるが、感度や精度がすばらしいので楽器として十分成立する。

ギターの場合はフレットが半音間隔でならんでいるので、移調するには平行移動すればよいが、キーボードの場合はご存知のように白黒白黒白白黒白黒白黒白(白)となっているから、運指はただ平行移動するだけではすまない。ここが戸惑うところである。

でも、ギターで覚えたコードの概念というものは、キーボードを弾くときにも役に立つ。
そして、キーボードでコードを弾いていると、コードの意味があらためてわかってきて新鮮である。

2012/09/01

読書の目的

プレジデントという雑誌がありますね。

読んでませんよ、もちろん。

でも、電車の吊広告とか、売店で表紙を見たときにちょっと読んでみようかなと買ってみることがあります。

ちょっと高いですけどね。雑誌にしては。600円くらいでしたっけ?


読みたくなるのが、「稼ぐ人が読む本」みたいな特集です。

なんどもやるので、多分これをやると売れるんでしょうね。


でも、読んでみると参考にならないんですよね。

おもしろくない。

なんか、「読書」というものに求めるものが、私と全然違うんです。


その中で、ある人が対談だかインタビューをしている記事があって、その中にイヤな言葉を見つけた。

これは直接読んだのではなく、読んだ人がブログかなんかで紹介していたのを読んだのである。

それは、「社会的に成功しない人はファンタジーに逃げる」というような発言である。


私は以前から、自分の読む本に「ビジネス書」というものが皆無であることが気になっていた。

先日、感動した本を列挙したが、古典ばかりである。


お金儲けに役立つような本は一冊もない。


この、私がイヤな気持ちになった言葉を発言した人のことは、私は前から嫌いだった。

まあまあの有名人であるが、特に何をなしたというわけでもなく、有名な会社の社長だったくらいで、今も何をやっているのかよくわからない。

なんで嫌いになったかというと、やはり読書に関する発言で、「本を読むと金持ちになれる」というような発言をしていたのを聞いたからだ。

正確な内容は覚えていない。なんせ、嫌いな人の言った、不快にさせられた発言だからね。


それでさっきもまた、「読書=成功のため」というような発言を聞いたので、ついにここに書き付ける気になったのである。



「社会的に成功しないとファンタジーに逃げる」というのが、まるで私の事を言っているようでムカっとくると同時にドキっとしたのだ。


ちょっとモノを食べて、新聞を読んでアップルとサムソンの訴訟についての記事などを読みながら考えていたのだが、やっぱり、「読書とは芸術鑑賞である」ということに落ち着いた。


「読書が好き」「本が好き」「読書しろ」「本を読め」と言う人は多い。
しかし、文字が印刷されたものを束ねたものなら何でも読む、という人は読書家なのでも本が好きなのではなく、正確には「活字中毒」である。


私も新聞を読む。雑誌を読む。電化製品などの取り扱い説明書を読む。駅の構内の案内文などを読む。仕事でメールとかさまざまな文書を読む。全部活字である。紙に印刷された文字である。でもそれを読書とはいわない。「文字で書かれている情報の収集」でしかない。


私に言わせれば、いわゆる「ビジネス書」とか「自己啓発本」というものは、「文字で書かれた情報」でしかなく、文学とは全く別のものである。もうそれは、食べるものと着る物くらいに違うものである。私にとっては。どちらも必要なものではあるが。


子供の頃先生や親に言われた「本を読みなさい」という言葉は、「情報収集しなさい」という意味ではなかったはずだ。中にはそういう意味で言っていたオトナもいたかもしれないが、その人こそ、「本を読まなかった人」であろう。




高校生のとき、友人が「本を読めって言われたからこれを読んでるんだ」と言って私に見せたのは「気配りのすすめ」であった。
もう昔の話なので一応説明するが、これはNHKのアナウンサーが書いた本で当時ベストセラーになった本だ。もちろん小説ではない。私はさわりだけさらっと読んだような記憶がある。
私はそれを見て、心の中で『青木君、そうじゃないよ!』と叫んだ。



仕事をしていると、人の話を聞き、理解し、人に話をし、理解してもらい、文章を読み、書く機会がある。そういうときに、たまに「あなたは話すのが下手だ。もっと論理的に話せ。新聞を読め。本を読め。」という人がいる。けっこういる。

半分冗談で、「日本語を勉強しろ」などとも言う。


「読書」をすすめるのも、「読解力や論理的な思考を培うため」と考えている人が多い。そしてそれは「情報収集」のためであり、それは「金儲け」という目的のためである。


有名な小説とか映画を読んだり見たりしたときに「わからない」という人がいる。「わかった?」などと周囲の人に聞いたりする。

だが、芸術というものはわかるとかわからないとかいうものではない。「共感する」「感動する」「良さがわかる」という意味で「わかる」というならいいが、そうではなく、「なぜ彼はあの時自殺したのか」「なぜ彼女は何もいわなかったのか」などと、登場人物の行動の合目的性などを考えたりする。

そういう人は、言葉を理解したり映像を認識したり音を聞いてそれが銃声だとかガラスが割れる音であるとかを理解できないのではない。芸術を鑑賞するという行為に慣れていないのだ。

「読書する」というのは、「芸術鑑賞の訓練」のことを言う。

昔は芸術に触れる媒体が少なかったから「読書」と言っていたのに過ぎない。絵画や映画や演劇や音楽でもいいのである。


ただし、文学というのは言葉という、非常に身近な、誰でも自由に扱えるものを媒体としているから、それによる芸術というのは起源も古く、作家も鑑賞者も訓練を経ているので洗練されたものが多く、芸術として推奨されるのだろう。


芸術鑑賞としての読書にも、当然言葉を理解し論理的に考えることは必要である。が、それは本当にごく基本的な手段でしかない。


ある場所に行くときに電車に乗る技術のようなものでしかない。
電車の乗り方は子供はわからないが、1、2度オトナと一緒に乗ればわかる。
外国へ行くと多少事情が違うかもしれないがその辺の人に聞くなどすればわかる。

「読書をすると論理的思考力が培われる」というのは、「上野の美術館へ行くと常磐線の乗り方がうまくなる。切符が早く買える。回数券を使うと割安だ。」と言っているようなものだ。



話は「プレジデント」に戻る。
買って読んでみると、薦められている本に「芸術」はほとんどない。
「小説」自体が少ない。


司馬遼太郎の本を薦める人は多い。「坂の上の雲」とか。
私は司馬氏の本を一冊も読んだことがない。「竜馬がゆく」などを読んでみたことがあるが、
最後まで読めなかった。


私は「歴史小説」と言われるものが嫌いだ。「ノンフィクション」もあまり好きではない。

それは、結局言葉というものは、「語る」「書く」ということは主観である、と思うからだ。
歴史小説やノンフィクションを読んでいると、いかにも公正中立で客観的にしているようなフリをした語り手に対して、「お前は誰だよ?」といいたくなってしまうのである。


小説でも、そういう客観的な「語り手」が存在するものもある。
というか、多くがそうである。そういうものは私もちょっと苦手である。

小説でも、手記の形式をとったり、人が回想する形式をとるものがある。日記形式もある。
私は最近はそういう形式のことをちょっと気にするようになった。若い頃は、そんな形式はどうでもよくて、主人公が何をするか何を考えているのか何を言いたいのか何がしたかったのかなどを気にしていたが、最近は作者の意図とか狙いを気にする。

だが、それはあまりよくないことだ。
読書をするというのは、本をよく読むというのはそういうことだと思っている人が結構いる。
文学を研究する人はそういうことも必要かもしれないが、それでも、本来の、最後の目的ではない。
よく言われる「時代背景」などというものも、私は考慮する必要などないと思っている。

「この作品を本当に理解するには当時の時代背景を知る必要がある」
などと言われるが、私はそれは嘘だと思う。そういう人はその作品を読んでいるのではなく、その作品が歴史上どういう意味を持つのか、持ったと認識されているのか、ということを社会科学者のような立場で「調べている」だけなのだ。

なんどもいうが、読書は調査でも情報収集でもない。
芸術鑑賞なのである。