2012/10/31

旧約聖書を読む (19) 詩篇

全四巻。ダビデの詩が主だがそれ以外の作者もいて、「モーセの祈り」というのもある。

詩篇はよく引用される。イエスがよく引用し、十字架について息を引き取るときには第22篇を詠んでいたそうだ。

ざーっと走り読みしたが3時間近くかかった。

私が傑作だと思うのは第42篇である。

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、
いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を
見ることができるだろうか。
人々がひねもすわたしにむかって
「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は
わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

というか、これくらいしかいいな、と思うものはない。
ちなみにこれはダビデの作ではない。
あとはなんだか、「主よ主よ 」とほめたたえるか、逆に泣きつくようなものばかりだからだ。

詩篇ではところどころ、行の下の方に「セラ」と書いてある部分がある。
前からなんだろうと気になっていたが調べたら休符のようなものだそうだ。
「エデンの東(だと思う)」で、ジェームスディーンが聖書を朗読させられ、「セラ」までわざと読んで「そこは読まなくていい」と怒られるシーンを覚えている。


気になったのは「シオン」という言葉で、これまであまり出てこなかったような気がするのだがエルサレムのことだそうだ。

しかし、紀元前10世紀、日本では縄文時代にこのような詩を書いていたというのは驚異的なことなのではないか?それも王であり軍人であるダビデが。

旧約聖書を読む (18) ヨブ記

ヨブ記は有名で、苦労話をする時などに引き合いにだされたりする。先日、加山雄三が徹子の部屋でヨブ記に触れていた。

私もヨブ記はすでに何度か読んでいる。

ヨブ記というのは、「苦難に耐えて信仰を持ち続けた」あるいは「信仰を失いかけたが悔い改めた」という話だと思っている人が多いのではないだろうか。ヨブ記を読まず、「ヨブ記とはこういう話だよ」と人から聞いたらそういうものだと思ってしまうだろう。

しかし、読んでみるとそんな単純ではなく、簡単に感動できるような話ではない。まず、何の落ち度もないヨブに対し、サタンが苦難を与えることを許可するという神について疑問がわく。

ヨブを慰めるために友人たちがやってきて、七日の間黙っているのだが、とうとうヨブが「キレて」、口を開き、友人たちとヨブの対話が始まる。

だが、何が争点となっているのかがよくわからない。どちらも神を信じており、もっともなことを言っているように見える。エリパズ、ビルダデ、ゾパルという友人とヨブが対話した後に、エリフという若者がヨブとその友人たちに対して怒るのだが、彼が言うこともまた、4人とそれほど根本的に対立するようなことを言っているようには思えない。

そして最後に主が現れてヨブを諭し、ヨブは反省する。主はエリパズに対し、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである」という。

エリパズ達の何が正しくなかったのかはよくわからないのだが私の解釈するところでは、エリパズ達の示した神観は「神は悪い事をした人を罰する」というもので、それに対してヨブは「(自分のように)悪い事をしていない者が罰せられ、悪事を働く者がのさばる」といっていて、強いてあげればそこが争点である。

エリフについては主が怒らなかったので、間違ったことは言っていないようである。彼がヨブに対して言いたかったことは「自分に罪がないなどと言えるのか」といった事であろうか。

結局ヨブはこの苦難の前よりいっそう豊かになる。

ヨブの発言はサタンが「あなたをのろうでしょう」が言った通りになったようにもとれるが・・・
私は、自分がうまくいかないときなどに、ヨブの「のろい」の言葉を共感して読んでいた。


旧約聖書では、ほとんどの人が「主」のいう事を聞かない。バアルやアシラ像や「高いところ」を拝み、異民族と交わる。列王記などでは、どの王が正しくどの王が間違っていたかを断定しているが、それならその後は正しい道を歩めそうだがおそらくそうはなっていない。

聖書を読んでいると、神の命じることをしなかったものが滅び、神に従ったものが栄えている。安息の地に至りそしてそこに住んでからも、「徹底的に殺しつくさなかった」ということで主が怒ることがよくある。たとえばサムエル記上でサウルについて、「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」と言ったのは、「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ」と言ったときにサウルが羊や牛などを残したことについてである。

神の目的はイスラエルの子孫たちによる世界征服である、と言っても過言ではないだろう。だが、もしただ自分の選んだ民族を地上に増やしたいだけなら、アマレクだろうがペリシテだろうが、火を降らせたり洪水でも地震でもおこして、ソドムとゴモラにしたように滅ぼすことは可能に思える。

それをせずに、何度言っても裏切る人々を遠くから見守るようにしているのはなぜなのか。

神は選んだ人に語るのか。それなら、どういう人を選ぶのか。「正しい」人を選ぶのか。「正しい」人なら神はいらないのではないか。

何が「正しい」のか。神がやれと言った事が正しいのか。人が善悪を判断してはいけないのか。「それなら神はなぜ人間に自由意志をあたえたのか」と言えば、「神は人が自分で判断して行動することを願っている」と言うだろう。でも、それは結局人が善悪を判断することになるではないか?

人が自分が裸であることに気づきエデンの園から追い出されたのは、「善悪を知る木の実」を食べ「われわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった」からである。
それなのに人はその後、神のように善悪をわきまえないことで叱られて殺されたりしているのだ。

旧約聖書を読む (17) エステル記

エステルは美しい女性で、ペルシャ王の気まぐれから発したことで王妃となる。彼女を育てたモルデカイがペルシャの大臣の長たる者にたいし不敬な態度をとったので「ユダヤ人を滅ぼす」という詔が発せられるが、エステルが王にとりなしてその詔を取り消し、さらに、ユダヤ人保護条例のようなものを作らせる。それによってユダヤ人は堂々と敵対する民族を殺しまくる。

ここで、「ユダヤ人」という呼び方に気づいた。

「さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子で、ベニヤミンびとであった。」と書いてあるから、「イスラエルの民のうちのユダ族」という意味ではない。

エズラ記ですでに「ユダヤ人」という呼び方が登場しているが、歴代志までにはなかったのではないか?(確認してはいない)

多分この呼び方は外国人というか異民族がイスラエルの人々を呼ぶ呼び方である。ダビデ、ソロモンを生んだ部族で人数も多かったようだし、分裂したときも一部族で独立していたから、イスラエル民族の代表とみなされたのだと推測する。





旧約聖書を読む (16) ネヘミヤ記

ユダの地の総督であるネヘミヤによる記録。門と城壁の修理の記録。異民族の妨害とそれにたいする防御。ユダの地に戻ってきた人々の名前。モーセの律法の再確認、など。

旧約聖書を読む (15) エズラ記

ペルシャ王クロスがイスラエルの民に宮を再興することを命じた。
だが、捕囚からエルサレムに戻った人々は、異邦の女をめとる。
それを怒ったのがエズラであった。

短い書である。

ページ数での概算であるが、ここまでで旧約聖書のほぼ半分である。

旧約聖書を読む (14) 歴代志下

これはソロモン以降の、ユダ側の方のみを記録している。列王記とほとんど同じようだが、列王記になかったウジヤのことが書いてある。善き王だったヨシヤがエジプトと戦って死ぬが、エレミヤの哀歌はこれについて書かれているとある。

バビロンに連れ去られるが、70年たってペルシャ王クロスが「主の宮をユダにあるエルサレムに建てることを命じられた」と言うところで終わっている。どういうことだ?続きはエズラ記にあるようだ。

2012/10/30

旧約聖書を読む (13) 歴代志上

今までの復習と整理。メモしておいた系図と比べてみる。
レビ - コハテ - アムラム - モーセ 
が明らかになった(今までには書いてなかったと思う)。

第一章に「エジプトはルデびと、アナムびと、レハブびと、ナフトびと、パテロスびと、カスルびと、カフトルびとを生んだ」という記述がある。

これらは、創世記10章では「ミツライムからルデ族、アナミ族、レハビ族、ナフト族、パテロス族、カスル族、カフトリ族が出た。カフトリ族からペリシテ族が出た」となっている。
ミツライムはハムの子孫である。

ハムはノアの裸を見てのろわれた者である。イスラエルのひとびとを奴隷にして虐げていたエジプトのひとびと、そしてペリシテびとは、ハムの子孫ということなのか?

名前の羅列だけでなく、歴史、特にダビデに関する記録が語られる。これは今まで読んだことのないこともあれば、同じことを書いているところもある。

というわけで走り読みした。

そして、もしかして天地を創造した神とイスラエルの民を率いた神は別のものではないかなどと考えていた。

ダビデが生きたのは紀元前1,000年頃だ。インドにアーリヤ人が進出したり、中国では西周の時代、ギリシアにドーリア人が侵入、などの時代。日本は・・・まだ縄文時代か?要するに読み方も不祥なYHVHは、創造主である神のワンランク下というか、神を社長とするなら部長、イスラエル担当というか、そういう存在だったのではないかと。ギリシアやインドや中国などにはそれぞれ担当がいて、人々はそれらをそれぞれ「神」だと思っていたのではないかと。聖書にも時々、あきらかに人間ではない天使のような人が現れる。そしてそれを見た人は「神を見た」とか「主を見た」などという。おそらく、神というものはある程度の階層を持っている。そして確かに神は唯一なのだが、それをささえる天使を神としてしまうことがあったのではないかと・・・。






旧約聖書を読む (12) 列王紀下


イスラエル民族の衰退の歴史。イスラエル王はほとんど皆偶像崇拝をおこなう。
ユダの王は比較的まともである。読んでいくうちに別人で同じ名前が出てきて、特にイスラエルとユダの両方にヨラムがいたりして、どっちがどっちだっけと混乱するがそんなこともどうでもいいくらいイスラエルもユダも衰退していく。ユダはマナセ王がやってはいけないことをことごとくやり、どうやらこれが決定的となったらしい。そのあとにヨシヤという「ヨシヤのように心をつくし、精神をつくし、力をつくしてモーセのすべての律法にしたがい、主に寄り頼んだ王はヨシヤの先にはなく、またその後にも彼のような者は起こらなかった」と書かれるくらいの王が登場するがもう遅かったようで、バビロンに征服され民は連れ去られる。


エリヤはつむじ風に乗って昇天する。

預言者ヨナとイザヤが登場する。


ごちゃごちゃしたので、マタイによる福音書に載っている系図(ダビデ以降)と、列王記の記述をくらべて見た。

ダビデ、ソロモン、レハベアム、アビヤム、アサ、ヨシャパテ、ヨラム(列王記上22章)

ここまではよいが、列王記だとこの後、

アハジヤ、ヨアシ、アマジヤ、アザリヤ(列王記下15章)

となっている。そして、次がヨタムなのだが、それが「ウジヤの子」となっている。
だが、「アザリヤの子ウジヤが王になった」という記述がない。

ヨタム以降は一致していて、
ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤ(列王記下22章)

次が「マタイ伝」ではエコニヤとなっているが、
列王記ではエリアキム(エホヤキム)、エリヤキンとなっている。

歴代志との食い違いもあるらしい。

ちなみにアモンは家来に殺されている。王を殺した者たちも殺されているが。


それにしても、どうして皆バアルだのアシラだのを拝んでしまうのだろうか?
どんな魅力があるのだろうか。不思議でならない。


(追記)
「列王記」じゃなくて「列王紀」でした。タイトルを修正。

旧約聖書を読む (11) 列王紀上

ダビデが死んでその子ソロモンが王となる。
宮を建てるなど、栄耀栄華を極めたといったところ。

ただし彼も女癖が悪かった。
なんと、「妻700人、そばめ300人」とある。
何かの間違いじゃないだろうか?

そしてイスラエル民族は「南北分裂」するのであるが、
「イスラエルは皆ヤラベアムの帰ってきたのを聞き、人をつかわして彼を集会に招き、イスラエルの全家の上に王とした。ユダの部族のほかはダビデの家に従う者がなかった。」
とあるので、半分に分かれたのではない。

そしてイスラエルの王はみな偶像崇拝をおこなって主を離れる。
アハブという王が登場する。「白鯨」にでてくるエイハブはここからとったのだろう。
彼は非常に悪い王である。

彼が王となった頃に、エリヤが登場する。
だんだん人間臭くなってきた聖書に現れる久しぶりの大物預言者で、奇蹟をおこなう。
死んだ子供をよみがえらせたり、主の名を呼んで捧げ物の牛に火をつけたりする。


「旧約聖書の王歴代誌」
創元社、ジョン・ロジャーソン著、高橋正男監修

という本を持っている。しばらく前に買って、ほとんど読んでいなかったのだが、
今回は旧約聖書を読むかたわら、参考にしている。
この本は絵や写真などがたくさん載っていておもしろい。
そしてこの本の中で、フラウィウス・ヨセフスが紹介されていた。
西暦37年に生まれたと言うから、イエスが死んだすぐ後に生まれた人だ。
この人が書いた「ユダヤ古代誌」は聖書とセットで、ある意味聖書よりも、非常によく読まれているとのことである。

聖書はたしかに「歴史書」というには信憑性が低いというか客観的でないところがある。
「ユダヤ古代誌」でその辺を補おうというのだろう。
これも読まないとダメか・・・と、ちょっとうんざりした。

(追記)
「列王記」じゃなくて「列王紀」でした。タイトルを修正。

私と聖書

「旧約聖書を読む」シリーズはちょっと休憩。

ここで、私はなぜ聖書を読むのかということを整理してみたい。

つまり、私と聖書にどういう関係があるのか。

アダムとエバとか、大洪水とか、アブラハムとか、イスラエルとか、ヨセフとか、モーセとか、サムソンとかダビデとかソロモンとか・・・

まず、聖書はクリスチャンあるいはユダヤ教徒が読むものだ、という考えの人がいるかもしれない。
だが、小説とか映画とかで聖書の中のエピソードを題材にしたり、聖句を引用したり、イエスを始め聖書の登場人物について言及することは多い。

クリスチャンでなくても、聖書にかいてあることに感動することはある。

多分、クリスチャンであっても、聖書はクリスチャンだけのものだと考えている人はほとんどいないだろう。


私が聖書を読もうというきっかけになったのは多分、太宰治である。

それからキェルケゴールの死に至る病を読んで、非常に感動したことを覚えている。

その頃読んでいたのは新約聖書である。

高校生だった。

同級生達は大学へ進学することを当然として、授業をそっちのけで受験勉強をしていた。

私も、親や兄弟がそうしたように大学へいくのは当然だと思いながら、その意義がどうしてもわからなかった。

浪人して予備校に通い、何とか大学には入学するが、ほとんど行かずに辞めてしまう。


旧約聖書を最初に読んだのは、その浪人して大学生になった頃だ。

私は「伝道」されたのである。


私は当時、少し異常な精神状態だった。

一番の重荷は受験勉強だったかもしれないが、それだけでなく、私は本当に真っ暗闇のなかでどこへ進んでいいのかわからなかった。

学業も、受験勉強にも興味が持てなかった。

太宰治やキェルケゴールやカントを読んだのもこの頃だ。



旧約聖書は伝道されたことをきっかけに読むようになった。

私を伝道した人は、ある新宗教の信者だった。

私は聖書を読んでいたし、伝道される前から神を信じていた。

当時ノートに自分の思うことを書き連ねていたのだが、「私は神を信じているのではなく感じている」と書いたことをよく覚えている。それは本当に実感で、私はなんだかものすごく高揚していると同時に底知れなく悲しいような気分を味わっていた。

その新宗教の「教義」は、世間的には異端と言ってもいいくらいの独特なものであったが、私はそれがごく正当で、当たり前すぎると思うくらいだった。いわゆる「保守的」な思想だった。


私が神を信じているとか聖書を読んでいるとか言うと、彼らは喜ぶと同時に驚いていた。

私は彼らの聖書の解釈を検証するようなつもりで聖書を読み始めた。

信者達は、その新宗教の解釈を信じていて、聖書そのものはあまり重視していなかった。

聖書を読んでいると教義で触れられていないことや、疑問を感じることがあったのだが、「聖書がすべてではない」ということについては私も彼らと同じ考えだった。「神は感じるものである」。


そのときも、私は今と同じように、「私と聖書に何の関係があるのか」ということを考えた。

私は選ばれている、救われた、という意識もあった。それはその新宗教の信者達も同様である。いや、私のように意識があったどころではなく、確信していた。


彼らは聖書を読み解釈するだけでなく、日常生活について、戒律ではないが禁欲的な考えを持っていた。

私は未成年なのに酒やタバコを覚えていたが、彼らと出会ってそれらをやめた。


そして私も自分がされたように伝道をするようになった。半信半疑のままで。

それはとても苦しかった。私は非常に積極的で多くの人に話しかけて信者の人たちからもほめられたのだが、半信半疑なので最後の最後でいつも「信者」を獲得することができなかった。

結局私はその新宗教から離れた。

関わっていたのは1年余りであった。


そのとき、自分で旧約聖書を読んだのは、今回読み終えたサムエル記までだった。


離れた後も私は保守的な考えを持ち続けた。それは信仰ではなかったが、「神を感じている」という感覚、「俺は選ばれているんだ、普通じゃないんだ」という感覚をずっと持ち続けた。


その後聖書は折に触れて読んでいた。あまりいい意味ではなく、「わが避けどころ」であった。


最近は、聖書から遠ざかっていた。仕事のこと、自分の人生のこと、日本のこと、経済とか社会のありかたを考えるようになり、神のことは考えなくなっていた。


今回読んだのも、別になにか啓示のようなものがあったわけでもなく、以前のように「神を感じている」などという意識もあまりなかった。

「そういえば俺は神を信じてたっけ」
と、思い出したような感じだ。


そしてサムエル記まで読んで、伝道された頃の事を思い出し、再び、「俺はなんで聖書を読むのか」「わたしと何のかかわりがあるのですか」という疑問を持った。

そもそも、聖書そのものが形骸化したものだという考えがある。

これは大衆に受け入れられるためにわかりやすく、事実と象徴と神話などを織り交ぜて創られたものではないかということがまずあって、

仮に聖書は本当に神聖なものであって、全部をそのまま神の言葉として受け取るべきであったとしても、それは私には縁のないものだという考えがある。

それは、別に自分の日ごろのおこないがよくないとか、酒飲みだとか、その他ここにも書けないような「不品行」をしているとかいうことではなくて、自分は選ばれていないとかいうことでもなくて、それらもあるが、

やっぱり、自分に対しては神は語られない、ということである。

私が神だと思っているのは神でないかもしれない。

聖書を読んでいても、主が語るのはごく一部の人である。

そしてその神は、ごく一部の限られた人々のための神である。

自分が契約した民以外は滅ぼしつくす恐ろしい神である。



私はアンモンびととかアマレクびととかペリシテびとのような、無割礼の、ことごとく滅ぼしつくされるべき人間なのかもしれない、というか、明らかにそうである。


でも、そんなことを言ったら世界中のほとんどの人がそうだ。


そして、今では聖書は書店に売っていて、誰もが読んで、引用して、「聖書を読むと欧米社会がわかる」などと言ったりしている。


でも、聖書はそんな一般教養のための書では絶対にない。

また、聖書を読むことで生きる喜びや目的が見つかることもない。

どちらかというと「罪」を痛感して、特に旧約聖書を読んでいると自分はいつ神に撃たれてもおかしくないと思う。

私だけでなく、現代人はほとんどそう感じるのではないだろうか。



そうなると、頼りはやはり、イエスである。

イエスは、やっぱりとんでもない不良で、反抗するもので、異端で、律法を破り聖書を否定する存在なのではないのか。

彼も、「旧約聖書(当時は旧約などという言葉はなかったが)」を読んで、暗い気持ちになったのではないだろうか。「こんなものを読んで何になるのか」と。


イスラエルの神は、やっぱりイスラエル民族のための神である。

イスラエル民族が安息を得られるように導く存在である。

そうであれば、やっぱり私には関係がない。



そして、イエスはそんな神を否定したのではないか。

一民族の安息のために異民族を殺戮しまくる神など、異民族にはもちろん、自分にさえ必要がないと。

そして彼はそれを思い知らせるために、聖書に書いてあることを本当に実現したらどういうことになるのかを体現した。

人間には絶対無理なことを、やってみせた。

そうしたら、自分を神であると言わざるをえなくなった。


その結果、死刑になった。

つまり、イスラエルの人々が守り続けた律法、ささげ物などは、それが完璧におこなわれてしまったら意味がなくなるようなものなのである。

その理想は実現しないから意味があったのである。

そんなものは、葬ってしまえ!


というわけで、イエスは自分を十字架につけることで本当に葬ってしまった。


聖書というのは、それを否定することでしか意味を持たない。

無視ではない、否定である。克服すべきものである。

「神はいない」とか、「罪などない」と言ってあざわらうだけでは済まない。


イエスは、否定すべきものを完全に肯定してその自分を否定させることによって、人々に否定させた。

彼が十字架についた意味はそういうものだとしか、今の私には考えられない。


旧約聖書を読む (10) サムエル記下

ダビデがイスラエルの王となる。ペリシテびとを征服し、イスラエルの全地を治めるが、ここがイスラエル民族のピーク、つまりここから衰退が始まる。

衰退することとなったきっかけは、ダビデがヘテびとの妻と寝てはらませその夫を殺したことである。この後内紛(?)が起きる。なんだか暗い話で走り読みした。

そして最後、主が「イスラエルとユダを数えよ」と言ってダビデが数えるのだが、なぜかその後に「罪を犯しました」と言い、主もイスラエルに疫病を下す。何がいけなかったのだろう?

ダビデは祭壇をきずき、災いが止む。


ダビデという人は非常に謙虚で、足なえを大切にしたり心の優しい人でもあったようだが、女癖が悪かったのか。めかけが10人もいた。


私が今回旧約聖書を読んでいる目的のひとつに、イエスの先祖を確認するということがある。
イエスの系図が新約聖書に記されているが、今回初めて気づいたのだが、マタイによる福音書の1章の系図と、ルカによる福音書の3章の系図が、大幅に違うのだ。「旧約聖書の記録と異なる部分がある」程度のことは聞いたことがあったが、そんなものではなく、ダビデ以降が全然違うのである。

調べてみると、「ルカの方の系図にあるヨセフの父ヘリはマリヤの父であり、これはマリヤの系図だ」という説があるようだが、私はこれを受け入れられない。

系図などどうでもいいとはパウロも言っている。
だが創世記から読んでくると血統は非常に重視されているし、イエスがダビデの直系つまりアブラハムの直系であるか否かということは非常に重要なことである。

私は「一方は母方の系図」だという説を信じるくらいなら、「血統などどうでもいいということを、あえて全然違う系図を示すことによってほのめかした」と考える。

今は、イエスはイスラエル民族でなかったかもしれないとすら考えている。

2012/10/29

旧約聖書を読む (9) サムエル記上

サムエルはさばきづかさというより祭司である。
ひとびとが王を求め、サウルがサムエルに油を注がれ王となる。ところがサウルはアマレクびとと戦ったときに、徹底的に殺しつくさなかったことで、サムエルの口を通して主から「王にしたことを悔いる」と言われる。その頃ダビデが登場し、有名なゴリアテとの戦いなどで名をあらわし、「サウルは千を殺しダビデは万を殺した」と歌われるなどして、サウルはダビデに嫉妬し殺そうとする。サウルがダビデを追い回し、ダビデが逃げる。ダビデはサウルを殺せるチャンスがあったのだがそれをせず、とうとうサウルは泣いてダビデに謝る。だがサウルはペリシテ人に攻められ、息子達が殺されたときに自害する。

死んだサムエルがサウルに頼まれて口寄せの女に呼び出される場面がある。
読み落としでなければ、今まで死んだ人間が語ることなどなかった。聖書は主や神の使いが登場し語ったり食事をしたり戦ったりするが、死んだ人間がよみがえったり語ったりすることはほとんどない。というか、私はイエスとこの場面以外に知らない。

また、サムエル記はずいぶん人間的というか、「物語」っぽくなっている。ダビデについても、「血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人」などという、人間的なことが書かれている。

アマレクびととかペリシテびととかとの小競り合いがつづいてイライラしてくる・・・。

旧約聖書を読む (8) ルツ記

非常に短い書である。4章しかない。

ルツというのは女性、モアブの女である。
夫に先立たれ、同じように夫に先立たれたしゅうとめと一緒にベツレヘムへ行き、
ボアズという親戚の妻となり、オベデという子を産む。
オベデはダビデの祖父にあたる。

聖書では女は現代から見ると差別としか言えない扱いをされているが、
この書では女しかも外国人が主人公になっていてしかも非常に立派な人だと書いてある。

ルツの夫とその兄弟とその夫の父が死んだため、「死んだ者の名が・・・断絶しないようにするためです」とある。

ボアズはルツをめとると同時にエリメレク(しゅうとの夫にあたる)の「地所をあがなう」。このことを「嗣業を伝える」と言っている。

ただ、ルツはボアズに嫁ぐのだからエリメレクの土地はボアズに引き継がれて残るのはボアズの嗣業であり、ボアズの子孫だから「死んだ者の名」どうこうはあまり意味がないように思うのだが・・・


話は変わるが、ルツが「落穂を拾う」場面がある。私は「落穂拾い」というのは、農家が収穫時にこぼした穂を回収する行為で、ルツは収穫を手伝っていると思ったのだがそうではなく、それは拾った物は自分の物にすることができる、ということなのだった。

ボアズは収穫のさいにわざと落としてルツに拾わせまでする。

落穂のことについてはモーセの律法でも言及されていた。
これが外国では義務のようになっているチップの起源だろうか?


私はチップをあげるのも、もらうのもなんだか嫌なのだが・・・。

旧約聖書を読む (7) 士師記

「士師記」は「ししき」と読む。英語だと Judges 。

約束の地に入ったイスラエル民族は案の定主を離れて偶像崇拝を始める。
ただ主は見捨てることなく、「さばきづかさ」を起こして治めさせる。

さばきづかさというのは、モーセやヨシュアほどの権力というかカリスマ性はなかったようである。

彼らが治めて落ち着き、死ぬとまた偶像に走るということが繰り返される。
そのひとりが有名なサムソンである。

「サムソンとデリラ」という映画がある・・・と思ったら映画ではなくてオペラのようだ。
どっちにしても見ていない。

サムソンは人間離れした力持ちだったが、妻であるデリラはペリシテびとに利用されてサムソンの力の秘密が髪の毛にあることを聞き出し、サムソンは髪を剃られ捕らえられ両目をえぐられる。しかし再び髪の毛が生え始めて、ある日ペリシテびとたちの前で「戯れ事」をさせられることになったときに、その家の中柱を倒して自分とともに3千人程のペリシテびとを殺す。


最後の方で、ベニヤミンびとの住むギベアで彼らが起こしたみだらな事から猟奇的な殺人事件が起こり、それをきっかけに内紛となってベニヤミン族が滅びそうになるがなんとか持ちこたえる。



旧約聖書のヘブライ語と英語の対訳が読めるサイトを見つけた。
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt0.htm
朗読も聞ける。


例の出エジプトの6:2-3 の箇所を引用する。
ב  וַיְדַבֵּר אֱלֹהִים, אֶל-מֹשֶׁה; וַיֹּאמֶר אֵלָיו, אֲנִי יְהוָה.2 And God spoke unto Moses, and said unto him: 'I am the LORD;
ג  וָאֵרָא, אֶל-אַבְרָהָם אֶל-יִצְחָק וְאֶל-יַעֲקֹב--בְּאֵל שַׁדָּי; וּשְׁמִי יְהוָה, לֹא נוֹדַעְתִּי לָהֶם.3 and I appeared unto Abraham, unto Isaac, and unto Jacob, as God Almighty, but by My name YHWH I made Me not known to them.


יְהוָה が YHWH である。


下記は創世記の冒頭。

אֱלֹהִים が「神」である。

א  בְּרֵאשִׁית, בָּרָא אֱלֹהִים, אֵת הַשָּׁמַיִם, וְאֵת הָאָרֶץ.1 In the beginning God created the
heaven and the earth.








2012/10/28

旧約聖書を読む (6) ヨシュア記

ヨシュアと言えば、U2の Joshua Tree である。

私が初めて聖書を読んだ頃に大ヒットしていたアルバムだ。
Joshua Treeは植物の名前であることはわかったが、どうしてJoshuaの名がついているのかはわからない。また、U2の曲も歌詞をちゃんと知らない。

モーセの死後、ヨシュアがイスラエル民族を率いてヨルダン川を渡り、約束の地で異民族を撃破して約束の地を得る。

十二部族で土地をわけるのだが、その領土が言葉で説明されているが地名を知らないからさっぱり意味がわからない。インターネットで、"12 tribes"でイメージ検索するとたくさん地図が出てきた。

ついでにこの「約束の地」がどういう場所か、googleマップとか地図帳とかで見てみた。

ナイル川の流域および河口付近が緑色になっていて、その西のシナイ半島はほとんど茶色くて町もなにもない。ここが荒野と呼ばれる地域だろうか。シナイ半島の南端近くにシナイ山がある。

そしてその東に今のイスラエルがある場所があり、ここも緑色である。その東に南北に流れるヨルダン川があり、塩の海(死海)に注いでいる。ヨルダン川の東側が今のヨルダンであるがここも大部分は「荒野」のようだ。イスラエル民族はシナイ半島の南の方を通って、死海を東側から周ってヨルダン川を渡って「約束の地」に入った。その入ったところにあるのが、エリコという町である。

この町を攻め落とすときにイスラエル軍は町の周囲を1周することを六日繰り返し、七日目には7周した後にラッパを鳴らして叫んだら、石垣がくずれ落ち、町を攻め落とした。

Joshua Fit The Battle Of Jericho」という黒人霊歌に walls come tumblin' down という歌詞がある。

ヨシュアが110歳で死んだところで、ヨシュア記は終わる。

旧約聖書を読む (5) 申命記

モーセが120歳で死ぬ。

その前に、今までのことと、律法を語る。民法のようなものだ。
やや「人間的」に、穏健になったように感じる。

「パンのみにて生きるにあらず」という、もはや陳腐とさえ感じる言葉はイエスのものとされているが、原典は申命記8章ではないだろうか?(私の見落としでなければ)
8:3
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
ただ、この「マナ」は確かに天から降ってきたものであるがパンのようなおいしい食物である。単なるパンの代用品としか思えない。このことから、「人は食うだけのために生きているのではない」というような「高尚な」思想は出てこない。「やっぱり人は食べないと生きていけない悲しい生き物だ」となってしまわないか。それともこの「マナ」に関するエピソードは象徴であって文字通りに解釈してはいけないところなのか?


その他にも、「新約」っぽい言葉が見られる。
「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」
とか(今までにもあったかもしれないが)

エジプトを出て戦いもひと段落して落ち着いたのだろうか。


申命記を読みながら、私は「神は人間の作り出したものだ」説を吟味していた。

仮に、「神」が、それをエホバと呼ぶのかヤハウェなのかヤーヴェなのか知らないが、それが仮に、モーセの発明だったとしよう。一体何の為だろうか?なぜ血を食べることをそんなに禁じたのか?健康に悪かったからか?血をたべて病んだものがいて、厳禁としたのか?なぜ割礼をするのか?それも健康のためか?でも、「心の割礼」とまで言っている。わたしはこれについては自分なりに痛感できる解釈があるのだがここでは伏せよう。また、主の律法には、努力とか根拠とかいう考えがない。「がんばった人には報いる」ということがないのはもちろん、「功績をあげた人には報いる」という考えすらない。やるべきことをやらなかったら死ぬ、禁じられたことをやったら死ぬ、ということはある。

モーセが一民族あるいは部族を支配し教育していくために「神を造り」、本当は存在しない神を祭る祭壇を作り、それにささげ物をさせ、箱を作ってそこに律法を刻んだ石をいれて運ばせることの目的が見えない。あるいはモーセは狂人で、今で言う「統合失調症」か何かで、妄想を抱いていたというのだろうか。あるいは、後世の人がモーセと彼が率いる人々の快進撃について、「こういうことだとしたらおもしろいな」と、事実を脚色したのだろうか?


それでは、「神」は統治のためのものだろうか?人心を支配するための重しのようなものだろうか?神に逆らうと死ぬ、俺は神の代弁者だから俺にしたがわないと死ぬ、ということであろうか?牛や羊を捧げさせ、その血を抜き脂肪をや腎臓などを取り除くのは、モーセの嗜好によるものだったのだろうか?彼はイスラエルの民が貢ぐ牛肉や羊肉をこっそりおいしいおいしいと言って食べていたのだろうか?無神論者とはそういう想像をする人々である。


そして、イエスについても考えた。イエスは結局神を僭称するものとして死刑になった。それは確信犯だったのか。私はイエスは律法の形式主義を批判したために殺されたという、ごく穏当な見方をしていたが、もしかして彼は本当に単なる律法に違反して自分を神とした不届き物だったのではないだろうか。そして、これまた後世の誰かが「その不届き物を救世主ということにしたらおもしろい」と考えた創作物であると仮定してみたりもした。

でもやはり、そんな創作をする目的がわからないし、そんな創作物に2000年間も人々がだまされ続けるとも思えない。創作物だから本気にせず遊びで祈ったり懺悔したりしていたとも考えられない。

そんな考えを認めるくらいなら、「神は宇宙人だった」という説のほうがまだ信じられる。

私は宇宙人は存在しないと考えている。宇宙は人間、地球上に存在するわれわれ人類のために存在し、地球は人間のために存在している。だから、地球以外に人間(のようなもの)が存在する場所はない。そんなものを存在させる理由もない、と。


ボブ・ディランが、誰かに「聖書のどの書が好きですか」と聞かれて「レビ記と申命記」と答えた、というのをどこかで読んだことがある。Jokermanの歌詞にもそういうところがあって、私はそれを皮肉だと思っていたのだが、今回読み直してみて、レビ記と申命記は皮肉ではなく聖書の核心と言ってもよいし、おもしろいところでもあると感じた。


旧約聖書を読む (4) 民数記

モーセの率いるイスラエルの人々のうち、二十歳以上の男子の数が約60万人であった。

今回初めて、その多さを意識した。

成人男子だけで60万人であるから、その他を含めたら100万人を超えるか?
100万人というと仙台市くらいである。

仙台市民くらいの人々がエジプトからヨルダン川まで移動したのである。
現在のエジプトからエルサレムまでの距離は400kmくらいか。

少なくとも40年かかっている。

移動したのは人間だけではない。牛、羊、やぎなどもつれている。

2012/10/27

旧約聖書を読む (3) レビ記


Well, the Book of Leviticus and Deuteronomy
The law of the jungle and the sea are your only teachers 
Bob Dylan "Jokerman"

レビ記は、法律の条文みたいなものである。
ささげもののささげ方、食べてよいもの悪いもの、汚れたものとそうでないものの区別などが書いてある。ここでもやはり同じようなことが繰り返されていると思うと微妙に違っていたりする。
レビ記は「聖句」として引用されることもまずなく、とても退屈なようだが、そうでもない。以前読んだときにもレビ記はおもしろく読んだ記憶がある。



ささげ物については、燔祭、火祭、素祭、酬恩祭、揺祭、挙祭、愆祭など種類がありその手順が書かれている。これらが何であるかはその名前や前後の内容からだいた想像がつくが、英語でどういうのかを確認してみた。

英語の聖書は、iPadでYouVersionのBible Appを使った。このアプリは素晴らしくて、各国語のさまざまなバージョンの聖書が読める。今回参照したのはKing James Versionである。

燔祭 burnt offering
火祭 an offering made by fire
素祭 meat offering
酬恩祭 peace offering
揺祭 wave offering
挙祭 heave offering
愆祭 trespass offering
罪祭 sin offering

羊などのささげもののしかたは、それをほふり、血を塗り、脂肪と内臓(どこかも指定されている)を取ってそれは焼く。
何度も強調されるのは、「血を抜く」ということである。
血については、食べてよいものを記したところでも「食べてはいけない」と強く禁じられている。
その理由として、「肉の命は血にあるからである」「血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」「すべて肉の命はその血と一つだからである」とされている(17章)。

「畑のすみずみまで刈りつくすな」「刈り入れの落穂を拾うな」というところで、その理由が「貧しいものと寄留者とのために残しておけ」というところなども印象に残った。

子供の頃、「エンガチョ」というのがあった。犬の糞を踏んだとか、おしっこが手についたと人は「汚れたもの」とされ、指である形をつくるとその「汚れ」から身を守ることができるが、それをしていない人は汚れた人に触れるとその人も汚れてしまう、という「風習」である(そんなおおげさなものとは考えていなかったが)。

レビ記に書いてあるのも、それと似たようなものである。

「ささげ物」について、現代にもあると思ったのは、「始末書」である。始末書などというものは全く形式的なもので、ほとんど宗教的な儀式だ。不祥事を起こして謹慎するとか、減俸になるとか。

もっと言うと、トイレに行った後に「手を洗う」ということさえ、「儀式」にすぎないのではないだろうか。「パソコンのキーボードは便座と同じくらい汚い」というのが話題になったことがあるが、それはキーボードが思っている以上に汚いのではなく、トイレがそれほど汚くないとも言える。ただ水道の水でジャーっと流してタオルで拭く程度では、別にたいしてきれいになどはならない。


なぜささげ物のようなことが必要なのか。そしてその方法が細かく規定されているのか。
神(主)と何の関係があるのか。あらためて疑問に思ったが、それは言うまでもないことかもしれないが「罪」のためである。イスラエルの人々が主を、主でなければ小牛の偶像でも作って拝もうとするのは、否定しようのない「罪」の意識があるからである。「罪」については、もはや説明すらされない。それは、アダムとエバが「裸であることを恥ずかしい」と思ったように、否定するまでもなく、ありありと感じているものなのである。

誰が言ったというわけでもないが、レビ記にかかれているような戒律、何が汚れているとか、食べてはよいものと悪いものの区別とかについて、「科学が未発達だった時代に人々が経験などから戒律としてまとめた」と考える人がいる。「神」とか「宗教」そのものがそうだという人もいる。多分たくさん、特に日本人には、いるだろう。私はそうだとは思わない。通常の状態があり、何かをすると汚れたり悪くなったりするのではない。通常の状態がすでに汚れて悪く、そこから正常な状態にもどろうという考え方というか意識である。

ちなみにJBS(日本聖書協会)の聖書では「神」という言葉はあまり使われない。基本的に「主」である。「みだりに神の名を唱えるな」ということからそうしているのだろうか?ちなみに私はエホバの証人の聖書も持っているが、そこでは「主」はほぼ全部「エホバ」となっている。エホバの証人の人と話したことがあるが、彼らは神には固有の、アブラハムとかモーセとかと同じように名前があり、それが「エホバ」だと考えており、だからその名をきちんと呼ぼう、ということだそうである。

(追記)
ある本を読んで知ったのだが、「エホバ(YHWH)」という名はモーセに対して初めて明かされたそうだ。「ヤハウェ」などとも呼ばれる。
出エジプト記3章と6章にそのことが書いてある。

JBS聖書

3:13-14
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですが』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

6:2-3
神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。


新世界訳(エホバの証人)聖書

3:13-14
それでもモーセは[まことの]神に言った、「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って、『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても、『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば、わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。すると神はモーセに言われた、「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた、「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

6:2-3
そして神はモーセにさらに話してこう言われた。「わたしはエホバである。そしてわたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに対し常に全能の神として現れたが、わたしの名エホバに関しては自分を知らせなかった。

ここはエホバの証人聖書でないと意味がわからない箇所である。

私はエホバの証人の変わった信仰に興味を持っている。それは、輸血の拒否、誕生日を祝わない、乾杯をしない、人は本来不死であった、霊界は存在しない、などというものである。「興味を持っている」というのは、肯定的な意味である。つまり、彼らの言い分はもっともだ、と思っている。

旧約聖書を読む (2) 出エジプト記

Exodusである。

イスラエル民族が、ヘブルびとが、エジプトで過酷な労働を強いられ、モーセが彼らを率いてエジプトから逃げ出す。
どこへ?「カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所、乳と蜜の流れる地」である。
モーセは、「神が『わたしの民を去らせなさい、さもなくば・・・』と仰せられる」と、エジプトのパロに言った。
パロはなかなか聞き入れず、杖を蛇に変える、川の水を血に変える、疫病、イナゴの大群、暗闇などの「奇跡」を次々に見せられ、最終的には聞き入れる。
ただし、このときパロを「かたくなに」させていたのも主だったのである。
決定打は、「ういご殺し」だった。イスラエルの民とエジプトの民を区別するために、ほふった子羊の血を入り口の柱に塗らせた。
しかしパロはすぐに考えを変えて、イスラエルの民を追いかける。
そしてあの有名な紅海が割れるシーンである。(14章)
これは「強い東風によって海を退かせ」ている。
エジプトの民は海に飲み込まれる。

イスラエルの民はシナイの荒野に宿営する。
そしてモーセはシナイ山に登る。
そこで神がモーセに「おきて」を示す。いわゆる「十誡」である。
だが、その後細かいおきて、いわば「細則」が延々と語られる。

聖所、幕屋、祭壇の作り方、ささげ物(罪祭、火祭、灌祭など)に関するきまりで、なんだかさっき聞いたようなことだなと思うと微妙に違っていたりする。
やっと終わって、モーセが山を降りると、民は小牛の偶像を作ってそれを拝んでいた。
主が怒る。モーセはそれをなだめてなんとかおさまる。
が、モーセが怒ってその偶像を壊し、せっかく授かった板も割って、民同士で殺し合いまでさせる。
モーセは再度山に登り板をさずかる。また細則が延々と語られる。
とうとう幕屋が完成する。
ここまでで「出エジプト記」は終わり。


なにを持ってこいとか、血をどうしろとか、腎臓や脂肪はとりのぞけとか、色とりどりの糸がどうしたとか、うんざりするほど細かいことが延々と語られる。私はそれをいちおう読みながら、「いったいこれは何なのだろう」と考えていた。
どうしてこんなことが必要だったのだろう?こんなことは禁じている偶像と同じことではないのか?
なんのためにこんなことが必要だったのか?
「こんなことは意味のないことだ、くだらない」と言ってしまえばそれまでだが、いまだにそれが聖書として読み継がれているのだ(誰が出エジプト記を読んでいるか知らないが)。
箱舟のサイズ指定どころの話ではない。完全に圧倒されてしまった。
出エジプト記など二度と読みたくない、という気になる。

このようないけにえとか細かい戒律は、イエスが来たことによって(そして死んだことによって)われわれは「卒業」したことになっている。

でも、イエスは、パウロは、「モーセは間違っていた。彼のしたことは過ちである」とは言っていない。

確かパウロは「養育係」と言っていた。

それにしても、どういうことなのか、どういう意義が、意味があったのかがさっぱりわからない。

もっとも私はイエスが十字架について2000年程たってこの世に生まれた人間である。

すでに人類は救済されているらしいのだから、わからなくて当然かもしれない・・・





2012/10/26

旧約聖書を読む (1) 創世記

まず創世記を読んだ。

創世記は何回か、けっこう熟読して読んでいる。
ただしいつもそうなのだが、どうしても系図を書かずにはいられず、時間がかかる。
5時間半くらいかかった。

だが、創世記は読み物としてとてもおもしろい。
いろいろな小説や映画などの題材となったエピソードもたくさん出てくる。

天地創造(1章)
私がもっとも印象に残っているのは車田正美の「リングにかけろ」で、この部分を朗読しながらジーザス・クライストという名の世界チャンピオンに剣崎がメッタ打ちにされるシーンだ。

失楽園(2章)
これはあまりに有名であるが、もっとも身近なところでは郷ひろみ&樹木希林の「林檎殺人事件」がある。「アダムとイブが林檎を食べてから・・・・」というフレーズがあるが、アダムとエバ(日本聖書協会の1955年版ではこう表記される)が食べたのは「善悪を知る木の実」である。

このことにより、「裸が恥ずかしくなり」、「蛇が腹で這い歩くようになり(ということは足があったのか)」、「女の産みの苦しみが増し」、「(男は)額に汗してパンを食べる」ようになった。

カインとアベル(3章)
なぜカインがアベルを殺すほど憎んだのかはいまひとつよくわからない。「弟の番人でしょうか」というセリフはたしか、映画「エデンの東」でジェームスディーンが言っていた。

ノアの箱舟(6章~)
箱舟(と思われる痕跡)が見つかった、ということは過去に何度かあったようだ。何かの象徴のようにも思える話であるがリアリティを感じさせるのは箱舟のサイズまで指定されているところである。「箱舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キュビトにそれを仕上げ、・・・」。とりあえず30mm, 5mm, 3mmの直方体を描いてみるととても細長くて「船」という感じではない。「キュビト」を調べると50センチ前後ということで、換算してみると全長150メートル、幅25メートル、高さ15メートルくらいということになる。
このときにノアの家族以外の人類が滅び去ったとすると、「カインの末裔」は存在しないことになる。

バベルの塔(11章)
人が天に到達するような塔を建てようとしたのを見て、「主」が言葉を乱した。人間の言葉が多様なのは、それぞれ独自の発展をしたためだからではなく、通じないように乱されたのである。外国語の学習が困難なのも無理はない。

イシマエル(16章)
メルヴィルの「白鯨」の主人公というか語り手の名前がイシマエルである。私が読んだ翻訳では確か「イシュメイル」となっていた。

ソドムとゴモラ(18章)
この地でどんなことがおこなわれていたかという記述はほとんどないが、「み使い」がソドムを訪れたときに町の人々が「彼らを出しなさい」とロトに言い、ロトが「まだ男を知らない娘を差し出すから」というところで、なんとなく想像がつく。

イサク献祭(22章)
アブラハムの息子イサクを供え物として捧げよという神の試み」にアブラハムは従う。イサクを殺そうとしたその瞬間に神にとめられ、彼は祝福される。

「ジェイコブズ・ラダー」(28章)
「ジェイコブ」というのは「ヤコブ」のことである。「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は点に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。」とある。私はこの映画は見ていない。

イスラエル(32章)
イスラエルというのはヤコブの後の名前である。彼が旅路で神のみ使い(?)と「夜明けまで組打ち」してヤコブに勝てなかったということがあり、そのみ使いに「イスラエル」と名のるように言われる。「神と戦う」という意味である。ただ、戦うといっても戦争とか殺すとかいうことではなく、「組打ち」である。

「ヨセフとその兄弟」(37章~)
トーマスマンの小説。これも読んでいないが、ヨセフのエピソードは波乱万丈かつ感動的である。ヨセフが死んだところで創世記が終わる。ただし、いかにもヨセフが主流の人物のように見えるが、イエス・キリストに連なるのはヨセフではなく、ユダの血統である。

オナニー(38章)
オナンという人がいた。兄が死に、子を残すために兄の妻と寝るのだが自分の子にならないという理由で「地に漏らし」、それにより「主」に殺される。これが「オナニー」の語源だそうだ。


・・・という感じでおもしろく読めるのが創世記だが、不可解なところもたくさんある。

たとえば「長男の不遇」である。カインの供え物が顧みられないのを始めとして、双子のエサウとヤコブでヤコブがほとんど詐欺みたいなやり方で長子権や父からの祝福を奪うところ、双子のペレヅとゼラで弟のペレヅが先に出てくるところ、ヤコブ(イスラエル)の12人の息子達で末っ子のヨセフが愛され祝福されるところなど。


エジプト人がまるで異民族のように書かれているが、彼らも大洪水を経たあと再スタートしたノアの家族の子孫のはずだ。やはり「のろわれよ」と言われたハムの子孫なのだろうか?
そもそも「カナンはのろわれよ」という理由もよくわからないが。ハムの子孫にはペリシテびとがいる。カナンびとは滅ぼされるソドムとゴモラに住んでいた。





旧約聖書を読む (0)

旧約聖書。

私が持っているのは日本聖書協会の1955年改訳版である。
1989年発行のもののようだ。


旧約聖書は折にふれてペラペラ読むのではなく集中的に読んだことが今までに3回くらいあるのだが、その時にとったメモを見ると列王記下で終わっている。

ヨブ、詩篇、箴言、伝道の書、イザヤ、エレミヤなどは有名なので先に読んだ。
あとの短いところが読んだか読んでないかあいまいである。

「聖書は全部読んだ」とは言えない。
「だいたい読んだ」というのと、「全部読んだ」というのでは大きく違う。

「全部通して読んだ」
と言いたい。

なので、読む。
「はじめに神は天と地とを創造された。」から始まって、
「彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」まで。


1行25文字、1ページ二段組で、1段24行だから、1ページ1200文字として、
全部で159万1200字、原稿用紙3978枚相当だ。
魔の山の1.5倍くらいある。

魔の山は丸四日くらいだったので、1週間だな。

魔の山 (完)

読み終わった。

7章では、ペーペルコルンという男が登場する。
彼はショーシャとともにベルクホーフに現れる。

ハンスは彼が立派な人物であるというのだが、何が立派なのかよくわからない。
そして彼は自殺し、ショーシャは再び去る。

この後は少し緊張感が失われているように感じる。

ヨーアヒムが死に、ショーシャも去った。

あとはセテムブリーニとナフタの論争くらいしか語るべきものはない・・・・
と思ったら、この二人の論争は決闘にまで発展してしまい、
セテムブリーニは虚空を撃ち、ナフタは自分の頭を撃ち抜く。

ナフタとセテムブリーニの論争は、よくわからないところもあったが一番興奮した場面だった。

終盤はなんだかどたばたして、音楽についての章やオカルト的な章などは、
無理やり突っ込んだ観がある。
三島由紀夫の豊穣の海の第四巻のような、「マンガみたい」な感じだ。

この作品は第一次大戦の勃発によって執筆が中断し、戦後完成させたものだそうだ。
そのせいもあるだろう。
前半の緊張感、抑制された雰囲気がだんだんなくなっていくのが少し興ざめした。

トーマス・マンは、ハンス・カストルプのような、悪い人間ではないが八方美人なお坊ちゃんなのではないかと思う。でも、誠実で、いい奴だ。

そしてこの小説を「教養小説」などと呼ぶことはやっぱりできない。
岩波文庫の解説にも、「アイロニーをもってその形式を踏襲した」などと書いてあった。

文学、政治、宗教、医学、生物学、数学、音楽、体育、オカルト・・・
たいした教養である・・・。

登山のような読書体験であった。

2012/10/25

魔の山 (6)

6章まで読んだ。

6章は半分に切った下巻の前半である。

6章の最後で、ヨーアヒムが死ぬ。
彼が死ぬことは5章の最後から、ちょくちょくほのめかされていた。

6章ではナフタという人物が登場し、セテムブリーニと論戦を繰り広げる。

ヨーアヒムはいったん退院していてほとんど出番がない。

本を読んで泣いたのは、小学生のとき以来である。

2012/10/24

サミュエル・ハンチントン 「文明の衝突と21世紀の日本」

「文明の衝突と21世紀の日本」
集英社新書

サミュエル・ハンチントン、鈴木主税訳


魔の山で使った読書法で、小説以外にもつかえるかなと思い、しばらく前に古本屋で買って読まずにいたこの本を読んだ。
「ハンチントン」という変わった名前と「文明の衝突」というわかりやすい言葉に興味を持って、「後でちょっと読んでみよう」と思いメモした記憶があるが、それから10年以上が過ぎていた。
ただしこの本は「文明の衝突」と、講演などからのいわばダイジェスト版である。
「魔の山」にくらべればこの本を読むのはハイキングのようなものだ。



この本では、「文明」という、歴史の教科書で最初の方にしか出てこない概念が国家間の対立や協調で重要になっているということを主張している。
それは、イデオロギーの対立であった冷戦の終結によって現れた現象であるという。
私は「国」というものを考えるときに、「政治体制」と「民族」くらいしか考えない。
日本は民主主義の単一民族、アメリカは民主主義の多民族、中国は共産主義の多民族、とか。
「宗教」というものは、社会に影響をあたえてはいるだろうがそれほど決定的ではないと考えていた。
ハンチントンは、「文明」というくくりをもってきた。「文明」というのは文化でも宗教でもないが、それらを含む。
私は共産主義はまだ死んでいないと思うのだが、ハンチントンはもう滅んだとみなしている。



彼の言う文明とは、「西欧、東方正教会、中華、日本、イスラム、ヒンドゥー、ラテンアメリカ」である。

意外というか新鮮だと感じたのは、「東方正教会」というくくりと、「日本」というくくりである。
東方正教会に含まれる主な国はロシアとギリシア(?)である。日本人からすると同じ「キリスト教」にくくられるように思うが、ルネサンスや宗教改革などの影響がない点で大きく違うそうだ。「プロテスタントとカトリック」というくくりでもない。それが、「宗教」「民族」というくくりでなく、「文明」というくくりの新しさである。

「日本」を、独自の文明としている。「儒教文明」「仏教文明」「東アジア」などのいずれのくくりでもなく、「日本文明」という独自の文明で、日本は孤立した国であるというのである。「ガラパゴス」のような揶揄された区別ではなく、むしろひとつの独立した文明として敬意をもって見られている。

西欧文明の中核国はもちろんアメリカである。「アメリカが冷戦後世界を一極支配している」という見方は誤りであると言う。アメリカは超大国ではあるが世界を支配などしておらず、他国からは脅威とともに敵意を持たれている。

ハンチントンが強調したもうひとつの点は、イスラムの復活である。イスラムが好戦的なのは人口爆発により若者の比率が高くなっていることが理由のひとつであるという。

日本はこれまで、日英同盟、三国軍事同盟、日米安保と、つねに当時の強大国に追随(bandwagoning)してきており、中国がさらに力を増せば中国に追従することも考えられるという。


「日本文明」か・・・。

そんなたいそうなものだろうか、日本とは。
日本文明は極めて排他的で宗教やイデオロギーをともなわないため、他の社会に伝達するものもなくしたがって交流も持つことができず孤立しているのだという。

それはいいとか悪いとかではなく、そのような特殊な文明であるとして、ハンチントンは認めているようだ。
私は日本という国に対する誇りはほとんどなく、その独自性はすべて欠点だとみなしてしまうところがあるのだが、本書を読んでもしかして日本は歴史上まれにみる高度な文明をもった国なのかという気にさせられた。


でも、この文明の分類の中でも、「国」として見ても、もっとも進歩し成熟し理想的な社会を築いているのはアメリカと日本だといってもいいのではないだろうか?

「宗教もイデオロギーもない」という、日本文明のとっている立場が、もしかして人間の目指すべき姿なのではないか?と考えたくもなる。

私は日本ではなくアメリカが人類の理想だと思っている。
そして、二つの国には共通点がある。

それは、「神の国」であるということである

これは非常に危険な発言である。大統領や総理大臣が発言したら辞任するか戦争になりかねない。

でも、私はかなり前から、本気でそう思っている。
「神」という概念は古今東西、人々が持っている。その解釈の違いが宗派や文化や文明を生んで対立の火種にもなった。

私は、「神」という概念を肯定している。それは迷信でも民衆支配の道具でもなく、あきらかに存在しており、人はそれなしに生きていけない。多種多様な宗教と宗派における、「神」の解釈の違いというのは、受け入れるべき多様性ではなく、この神が正しくあの神が間違っているということでもなく、この神もあの神も尊いということでもなく、神は唯一であり、神の認識の正しさ、そして神に対する態度のとり方がもっとも適切なのが、アメリカと日本である、と考えているのだ。

日本には、「天皇」という存在がある。これはかつては「神」であったし、今でもほとんど「神」に近いのだが、建前はそうでなくなった。そしてそのことによって、日本はアメリカと同盟した。これは、実質上同じ神を共有したのである。一般的にはそこまでは認められていない。アメリカ人はキリスト教を信仰しており、聖書を読み、イエスを神あるいは神の子と信じている。日本人は聖書を読まない。イエスは一人の人間であると考え、その実在を疑う人さえいる。

だが、「神」という概念はイスラム教とキリスト教で違うのはもちろん、同じ宗派でも、同じ教会で並んで祈っている人でさえ異なるだろう。日本人は仏教徒だとか無宗教だとか多神教だとかいうが、その生活態度はある絶対的な善を信仰しているとしか思えないものがある。


本書を読んで、その考えを新たにした。
まあ、極論というか、妄想みたいなものである。
もちろん公に発言できることではない・・・。

2012/10/23

魔の山 (5)

五章まで、つまり上巻を、つまり、半分まで読み終わった。

五章は長く、ちょっと退屈しかけたが、最後の「ワルプルギスの夜」は圧巻だった。

ここが名場面であることは、前回読んだときにどこかで読んでいて、
楽しみにしていたのだが結局そこまでたどり着けなかった。

それまであいさつをするだけで有頂天になっていたくらいだったショーシャに、
愛の告白をしてしまう場面である。
その日はカーニヴァルで、ハンスは酒も飲んでいて、セテムブリーニを「君」呼ばわりし、
気が大きくなっていた。
さらに、彼女とやっと会話ができたと思ったら彼女は明日には去ることを告げられて、
大変な口説き文句を、フランス語でやってのける。


ただ、私が読んだ岩波文庫の翻訳では、フランス語の部分がカタカナになっていて、
それまでは徹底的に感情が抑制されていたのに、なんだか安っぽいといってもいい、
ロマンチックなやり取りになって、読んでいてちょっと恥ずかしくなり、
最後のセリフでは思わず笑ってしまった。

カタカナなのがなんだか滑稽で「キモい」感じになってしまっている。

ここを含めて、あちこち、原文はどうなっているのだろう?と思うところがある。
全部ドイツ語で読むのは無理だが、一応原文を入手しておきたいな・・・。


今ちょっと検索したらショーシャが戻ってくることを知ってしまった。
なかなかやるな、トーマス・マン・・・。

魔の山 (4)

四章まで読み終わった。

ハンスが病気であることが発覚するところまでである。

岩波文庫は上下の2冊に分かれているのだが、なかなか読めないので、
私は上下巻をそれぞれ半分ずつに分けた。カッターで切った。
上巻の半分は四章までである。

残り半分が五章だ。五章だけ他の章に比べて長い。



後で編集付記というものがあるのに気づいたのだが、
それによると岩波文庫はもともと4分冊だったのを、1988年に2分冊にしたそうだ。


というわけで、全体の約四分の一を読んだことになる。
内容的にも、「起承転結」の起の部分というところだろうか。


なかなかおもしろい。
おもしろいというのは、ファニーという意味である。
何度か笑った。セテムブリーニとか、ベーレンスの皮肉っぽい言い回しなどで。

主人公のハンスと従兄のヨーアヒムは、「かわいい」と言っていいくらいの無邪気な青年である。
翻訳の文体のせいもあるかもしれないが。

しかし、彼らを取り巻く人々の描写は冷酷というか、差別的とも言える。
まるで珍獣の展覧会のようである。


そのなかにマダム・ショーシャという女性がいて、ハンスが彼女に興味を持っていることが描かれる。ただそれは若い男子が女性を恋するというような単純なものではない。

まず、彼が少年の頃に興味をもった男子についてのエピソードが語られる。
そして、マダム・ショーシャはその男子に似ているのである。

「ベニスに死す」を読んでいるし、トーマス・マンがどういう人だったかというのも多少知っているから、この辺のくだりを読んだときには、ハハーン、そういうことか、と思ってしまう。

ただし、別に同性愛とかなんとかではなく、少年の頃に同性の友人を尊敬とか親しみ以上のあこがれのようなまなざしで見ることは私にも経験があり、それを同性愛だと言うのはちょっと違うと思う。


それから、この作品は「教養小説」というジャンルに分類されるらしい。
教養小説というのは、主人公の内面的な成長を描くというようなものらしい。

四章まででは、クロコフスキーの講演とセテムブリーニの文学、音楽、政治などについての話をハンスが聴くところが教養小説といわれるところなのだろう。

だが、私は少なくとも「魔の山」は、「ハンスの内面的成長を描く」などというものではないと思う。
私が本作をなんとしても読みきろうと思っているのは、「これは教養小説などではない」と言いたいが為であると言ってもよい。


小説の主人公というのは、平凡で無性格なのが好ましい。
また、何か強烈な目的意識や主義主張を持っていないほうがよい。

夏目漱石の小説の主人公も仕事もせず遺産で暮らしているような男ばかりである。

そのことを批判する意見も見るが、それは間違っている。


そもそも、しっかりとした目的意識があり、実務に専念できるような人間に文学など必要ないのである。
「いい大人になってもすることがない人間が作家になる」というようなことを、誰かは忘れたが有名な作家が言ったという。


セテムブリーニとかクロコフスキーのような登場人物が作中で演説のようなことをする。
ドストエフスキーの作品でも、作中で一個の論文を読み上げるようなセリフが出てくる。

こういうものは作者の主張そのものではない。

もし作者が主張したいことがあるなら、わざわざ作中人物に語らせずに、本人の名で直接語ればいいのである。
その前に、小説を書くことすら必要ない。


基本的に小説の題材になることは、批判の対象である。
もしそれが作者の理想であったり、目指すものであったりするなら、
それは小説という架空の世界でなく、実際に自分が行動して実現すべきなのである。


ただ、小説とは、文学とは、批判が目的なのでもない。
「人間はかくあるべし」という模範を示すものでもない。
だから、「教養小説」などというものは、私は認めない。

「魔の山」はおもしろい。
ファニーと言ったが、その要素もあるが、インタレスティングでもある。

芸術には、オチなどというものはない。
あったとしても、それはごく表面的な形式上のものにすぎない。


夏目漱石の「こころ」は、「過去の三角関係を苦にして自殺した男の話」だというのは、
ある意味正しいがほとんど無意味なことだ。
「人間も動物である」というようなものだ。

「魔の山」も、「ハンスの成長を描いた物語」などというものではない。




2012/10/22

小説が読めない

朝9時半ごろから20時ごろまで、昼と夕方の食事の時間以外はほぼずっと読んでいたが、
186ページしか読めなかった。

辞書を引いたりメモをしたり引用したりしたので普段より時間はかかっているが、
10時間くらいかけて186ページは遅いな・・・。

1時間に18ページ、1ページに3分以上かけていることになる。

最近本が読めないなと感じていて、今日は時間はかかったが久しぶりにある程度の量が読めたと喜んでいたのだが、最後の方はいつものように頭に入ってこなくなった。

単純に、アタマの持久力みたいなものが落ちたのだろうか。

簡単に言えば、「飽きた」という状態だ。

なんで飽きるのか。

何を言っているのかわからないなら、読めない。
知らない外国語の本が読めないように。

だが、読めるのに、読んでいるのに頭に入らないことがある。

外国語の翻訳というのもあるかもしれない。
しかも40年以上前に書かれたものだ。

「ざんねん」とか、時々変な言葉をひらがなで書いていたりしてイライラする。

意味がわからなくて、「誤訳じゃないか?」
と思うところもある。


人が書いたものであるから、書き手が不親切であったり、書き手がつたないということもあり得る。
翻訳であればその危険性は倍になる。

ただ、今読んでいるのはノーベル文学賞をとった作家の、20刷以上も発行され続けている本である。


「難しくて読めない」のだろうか。
語彙が足りないから理解できないのだろうか。


私が本を読む態度は、古い映画を見るような感じである。
フィルムについた汚れとか傷とか、音もこもっていたりして聞き取りづらいような映画を見るときは、
その汚れを気にしてはいられないし、一言聞き取れなかったとしても話の流れなどからだいたいこういう意味だろうと自分の頭の中で補完しつつ見る。

それは、誰でも多かれ少なかれしていることだろう。
何もかも作者の意図をすっかり理解できることのほうがまれだろう。


だが最近はその、「よくわからないことは飛ばす」という態度が行き過ぎてしまい、わかるわからないの前に最初からところどころ読み飛ばしてしまうことがある。

あと、読む前からその作品や作者についての先入観があって、最初から批判的になってしまうとか。

マルクスを読むときなどは、もうガチガチにガードを固めてしまう。


トーマス・マンの作品は、「トニオ・クレエゲル」と「ベニスに死す」を読んだ。
ベニスはおもしろかったのだが、トニオはつまらなかった。
反感さえ覚えた。

魔の山を初めて読んだときも、ハンスに反感をおぼえた。

ではなぜトーマス・マンを読もうとしているのか。
それは三島由紀夫と平野啓一郎が名前を出したからである。

あと、読んでみて、トーマス・マンとはこういう作家である、こういう作品を書く人である、
ということが自分なりにつかめないからである。


そもそも私は文学というもののよさがあまりよくわからない。

いいなと感じた小説はないこともないが、本当に「わかって」いるのかは怪しい。

単に文体が気に入ったとかだけなのかもしれない。

もしかして文学なんて文体だけなのかもしれない。
主人公が善行をするのがよい小説であるわけではない、というのは間違いない。

私は、芸術というのは意味がないほどよいものだ、という考えを年々強くしている。
ただ、一部の前衛芸術のようにまるっきり意味がないもの、というか、
あえて無意味にしているようなもの、それも芸術ではない。

まったく支離滅裂だと、もちろんダメだ。
かといって、特定の思想を広める目的があったり、
人情や感情に訴えるものであってもダメなのだ。


たとえば自分の命をかえりみず人を助けるとか。
これは感動的なことでありもちろんそのこと自体を否定するのではないが、
芸術ではない。

つまり、「塩狩峠」は芸術ではないのである。

バッハの「マタイ受難曲」を全面的にすばらしいと言えないのも、イエスの磔を題材にしているからである。

聖書を芸術だと思って読んでいる人は、いるかもしれないが、けしからん読み方である。
もちろん私は芸術だと思って読んでいるわけではない。


そもそも、芸術は怪しからんものになりがちである。
怪しからん事をするのが芸術だ、みたいな考えの人もよく見る。

それは芸術が善行の奨励ではないということを示すための皮肉としてほのめかす程度ならいいのだが、反道徳を主義としているような人も違うと思う。


私はそんなことを考えながら読んでいる。
悩みながら、芸術そのもの、文学そのものを否定したくなることすらある。
「こんなもの読む価値はないのではないか」
という気持ちに頻繁におそわれる。

読書の補助

なかなか読めない本を読むために私がすること、したこと。

1.線を引く
2.書き込みをする。素朴な疑問でもなんでも。
3.段落に番号をふる。
4.訳注を切り離して随時参照する。切り離さないとめくるのが面倒で見なくなる。
5.登場人物の人名を記す。この紙も切り離してすぐ追記・参照できるようにする。
6.ノートにキーワードや気になった表現などを書き抜いていく。情景でわかりにくいものは図にしてみる。
7.読んだページ数とかかった時間を記録して読書速度を測る。


魔の山 (2)

3章の途中まで読んだ。

国語辞典で知らない言葉を確認しながら。

地名をgoogleマップで調べたり。

「ハルフェシュテフート通り」という地名が出てきたので検索したが見つからず。
ドイツ語で調べれば見つかるだろうがどう綴るかがわからない。

その後に出てきた「ウーレンホルスト」は訳注でUhlenhorstであることがわかり、
それを調べると近くに Harvestehude というのが見つかった。

家の間取りとか、食堂のテーブルの配置などを図にしてみたりする。
何度読んでもよくわからなかったりするけど・・・

「べんけい縞」のズボンというのが出てきて、イメージ検索で調べる。
「ほほける」とか。

言葉遣いがちょっと古めかしいのは、昭和37年の翻訳だから仕方ない・・・。
でも、昭和37年にしてはそんなに違和感はない。
おそらく「名訳」なのでしょう。

もしくは、翻訳しやすいきれいなドイツ語なのかな。



重要なキーワードは「時間」である。
前書きで著者が注意をうながしているし、随所で時間に触れられている。

セテムブリーニというイタリア人の「文学者」が魅力あるキャラクターだ。
この人物のことは挫折しながらもよく覚えている。

今先の方をぱらぱら見ていたが、最後の方までずっと出てくる重要なキャラクターのようだ。




魔の山 (1)

「魔の山」を読むことにした。

今わけあって時間があるのと、先日文字数を数えて恐れるほどのボリュームでないこともわかったからだ。

3、4回トライしているが挫折している。


そこで今回は、熟読することにした。
熟読といっても、書かれている内容を吟味するのではなく、知らない言葉は辞書を引いて調べ、人名が出てきたらそれをメモし、主人公との関係などを記録しておく。

気になる表現や、気に入った表現、意図がよくわからない表現などは抜書きする。


書かれている内容自体を熟考し吟味するときりがないので、とりあえず固有名詞とか、聞いたことのない言葉や、なんとなく想像はつくが正確に説明できない言葉等を調べる。

また、知っている言葉でも、自分が使うくらいに慣れ親しんでいない言葉は、書き出す。


これらのことを、紙のノートに書き付けておこなう。

今、前書きから第一章の「到着」という節(?)をこの方式で読んだ。
15ページくらいだが、1時間くらいかかった。
1ページあたり4分かかったことになる。

これくらい気合をいれて読めば、読みながら上の空になることはない。


このペースで全部読むと大変な時間がかかることになるが、
メンドクサイのは最初だからだ。


この読書は、単に「魔の山」を読むというだけでなく、
最近感じている読書力の低下を止め、読書法を再考する目的もある。



2012/10/16

魔の山の文字数

トーマス・マンが書いた、「魔の山」という小説がある。
私はこれを読んでみよう思って、岩波文庫を買った。
分厚い上に上下2巻あって、最初の3章くらいまで読んで挫折している。

何度かトライしたのだがだめで、あるとき上下巻をそれぞれ半分ずつに切って、
全4巻にしてある。

先日自分のツイートやブログの文字数を数えたが、「魔の山」はどれくらいなのだろうと思って数えてみた。

1行43文字、1ページ19行。全部で1257ページある。
文字数にすると約102万(1026969)字、原稿用紙に換算すると2568枚である。

先日数えた私が書き散らしたブログの文字数より少ない。
さらに、私の文章は実文字数だが、この文字数は1ページに改行も字下げもなしにぎっしり書いたとしての計算である。


私の読書のスピードは普通だと思う。だいたい、文庫本で1ページ1分くらいが目安である。
以前、自分の読むスピードはどれくらいなのだろうと、実際に読んで測ってみたことがある。読んだのは夏目漱石の「こころ」である。

新潮文庫で、41文字×18行、738文字であるから、分速700文字程度ということになる。
こころは非常に読みやすい文体であるから、速く読めたと思う。
その後、ときどき読んだページ数と時間から速度を測ってみたが、だいたい同じくらいである。
測っていないが、「魔の山」はもっと時間がかかるだろう。


でも、もし1分1ページで読むとすると、魔の山を全部読むには1257分あればよいことになる。
21時間くらいだ。一日3時間ずつ読めば1週間で読めることになる。

そんなものか。

2004年発行のものだから、もう最大8年くらいは経っていることになる・・・。


2012/10/15

広告

このブログに広告をのせた。google adsenseである。
理由は、カネである。1円でもいいからカネが欲しいのだ。
(実際は1万円単位で支払われるらしいが)

私はインターネットの広告が大嫌いだし、インターネットで何か検索してその結果表示される広告をクリックして何か買う人なんてバカじゃないのかと思っている。

しかし、googleはそれによって大成功したのであり、google以外でもインターネット上のサービスはすべて広告によって利益を得ていると言っても過言ではない。だから、実際に効果があるのであろう。

私のブログは宣伝をしていないどころか、誰にもこんなものを書いていることを教えたことはなく、知っている人に見られたら恥ずかしいので個人情報などを書かないように細心の注意を払っているくらいだ。

そんなブログでも、統計情報を見ると、一日に数件程度であるがアクセスがある。検索エンジンの検索結果に私のブログの記事も表示されるのである。

このブログはまだ書き始めたばかりだが、ここではないあるサイトに書いた文章は、あるキーワードで検索するとトップに表示される。そんなに特殊な言葉ではないので少し驚いた。

SEO(だっけ?)とかいう、「いかに検索結果の上位に表示するか」ということが研究され、それを商売にしている人さえいるらしいが、ある程度検索語を選択し組み合わせるなどすれば、自分が書いた文章などはかんたんにgoogleで検索することができる。

このことは便利というより恐ろしいことである。


というわけで、私のブログにアクセスした人が広告をクリックするかもしれないと思って、広告をのせた。また、自分が書いているようなくだらない無色透明なブログにどんな広告が表示されるのかも興味があった。

読者のみなさんには是非広告をクリックして商品を購入して頂きたい。

原稿用紙3750枚

twitterのアカウントを分析してくれるwhotwiというサイトで、私の今までツイートした文字数が50万字であることを知った。
50万字は400字詰め原稿用紙で1250枚になる。

twitter歴は約2年半である。

1日あたりにすると原稿用紙1枚ちょっとくらいで、たいしたことはないようだが、
それを2年半続ければ1250枚にもなるのである。継続は力なりである。

もっともツイートなんか、特に私は、思ったことを何も考えず推敲なども一切なく、「腹減った」だの「眠い」だののようなものばかりなのできわめて内容は薄い。

でも、それにしても、50万字ものツイートをしていたとは驚きだった。


私はtwitter以外に、自分のブログをいくつか書いている。
また、ブログではないが、自分のウェブサイトにいろいろと書き連ねたものもある。
その文字数を数えてみたら、150万字もあった。
原稿用紙で3750枚である。

こちらを記述した期間は、10年近い。
これも思いついたことをメモする感覚で書いているが、twitterよりはややかしこまって、考えて書いている。ただし、これも推敲は一切していない。

私のこの文字を書く行動は、特に何かの訓練とか、必要とかに迫られてやっているわけではない。アクセス数を増やそうと工夫もしていない。広告などは一切のせていない。
(そういえばこのブログに広告をのせた。これについては後で書く。)

日記とか、ライフログとかいわれるような役割もないことはないが、
目的は「記録」ではない。

私は考えながら書くというか、書くことによって考える。
書き終えてから、「俺はこんなことを考えていたのか」と驚くことすらある。

私は小説を書いてみたいと思ったことが何度かある。実際に原稿用紙に書いてみたこともあるが、10枚も書けなかったような記憶がある。
ところが、口からでまかせみたいな感じで書けば原稿用紙何千枚分もの文字が書けるのだ。