弟子の中には名前がない。
ではマタイによる福音書のマタイは弟子の、取税人マタイ?
二つの福音書は内容がほぼ同じだがなぜ二つ、さらにルカとヨハネの福音書まであるのか?
複数の人によるひとつの出来事の叙述を示すことによって真実であることを証明する目的だろうか?
wikipediaによると、マルコはペテロの通訳であり弟子であった人だそうだ。
パウロはインテリでギリシア語が堪能だったようだが、ペテロはそうではなかった。
新約聖書が書かれた時期は不明だが、50年から70年頃とされているようだ。
「新約聖書はギリシャ語で書かれている」と言われていて私もそれを当然のことと思っていたが、なぜギリシャ語なのだろう?
弟子が書いたとしたら、彼らはギリシャ語を書けたのだろうか?
ローマの支配下にあったユダヤにおいて、ギリシャ語とはどういうものだったのだろうか?
今の日本でいう英語のようなものだろうか?
さて、新約聖書になって登場した新しい言葉をあげておく。
- バプテスマ
- 聖霊
- 神の国(天国)
バプテスマは洗礼と同じ意味のようだが、そんなものは旧約聖書では一切登場しなかった。いつ頃、どういう目的や意義があって始まったのだろうか。
初めて「バプテスマ」という言葉を知ったとき、なんの説明もなく誰もが知っていることのように書かれていたのでユダヤ教の恒例行事みたいなものだと思っていたが、そうではなかった。
聖霊も、よくわからない。
そして、天国。旧約聖書を読んでいたときにふと気づいたのだが、旧約の世界では「来世」という概念はない。死ぬことを天にのぼるなどという事はあっても、「死後天国へ行けるように神の戒めを守る」というような考えは一切ない。求めるものそして主の与えるものは土地であり食物であり家畜や奴隷を多くもつことが「祝福」であった。要は「現世利益」である。
「天国」はイエスが導入した概念だったのか?「天国は近づいた」と言うと、待ってました、みたいで、皆が待ち望んでいたかのようであるが・・・と考えたところで、待てよ、と気づいた。
イエスは「天国」のことを、「人がよいおこないをしたら死後に入れる所」という風に語ったことがあっただろうか?確かに「選ばれた人だけが入れる」所ではあるが、それが死んだ後に行くところだと言っているところがあったっけ?