2012/11/30

森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」

この作品は乃木大将の自決直後に、それをテーマにして書かれたものだときいて読んでみた。非常に短くて、買った帰りの電車の中で読んでしまったが、チンプンカンプンであった。家に帰って巻末の斎藤茂吉の解説も頼りにしてもう一度読んでみてようやくどんなことが書いてあるかがわかってきた。

乃木大将と弥五右衛門に共通しているのは、過去の自分の過ちを理由に殉死しているという事である。乃木氏の場合は西南戦争の時のことであるから30年以上も経過していることになる。乃木大将の殉死は世間を驚かし、その行為を批判したり正気の沙汰ではないという意見も多かったようである。鴎外はそれに対し、武士というのは、殉死というものはほとんど狂気のようであるが、けっしてそうではないと、弥五右衛門の例を示したのではないだろうか。

乃木大将の殉死については、夏目漱石のこころでも触れられており、こころの主人公の先生も過去のこと、これはいわゆる「三角関係」であるが、に罪悪感を感じ自殺する。夏目漱石も、乃木大将の死を批判する気はなかっただろう。むしろ感動してこころを書かせたのではないだろうか。だが、こころでは主人公は武士でなく、一般人どころかろくに仕事もしていない無為徒食の人間である。こころの先生の自殺と、乃木大将や弥五右衛門の殉死を同じようなものと見るのは無理がある。

夏目漱石は、武士道に賛同できなかった、少なくとも、明治の時代になって武士でもない一般人に殉死のような行為を理解するのは無理だ、私は殉死などできない、という思いがあったのではないだろうか。「こころ」では明治天皇の死と乃木大将の殉死について、自殺する先生にその事を言及させている。だが、先生は明治天皇に殉じたのではなかった。彼の死は、全く個人的な、自分の苦悩による自殺であって、自決とか殉死とは呼べるものではなかった。

夏目漱石は、「現代人に自決などできるものではない」という意識があったのではないだろうか。私から見ると、「こころ」は非常に遠まわしにかすかにではあるが、乃木大将の自決を批判している。

自決と言えばもう一人、三島由紀夫である。彼の行為は茶番であるとかそれこそ正気の沙汰ではないという批判が乃木大将よりも強く、ほとんど理解されなかったのではないか。しかし、彼の自決が世間に与えたショックは相当なものであったらしく、当時のことを振り返る人は皆そのニュースを知ったときの衝撃をよく覚えている。

三島の死は衝撃であると同時に不可解なものであったようだが、ほとんどの場合「自決」と言われる。「自殺」と呼ぶことは少ない。

私は殉死も自決も自殺も、ほめられたものではないと思うが、ばかげているとか卑怯だとか弱虫だとかいうこともできない。