2013/04/29

J.D.サリンジャー 野崎孝訳 「ライ麦畑でつかまえて」

白水uブックス。 上半分が青で、下半分がクリーム色で、ピカソの書いた子供の落書きみたいな犬だかなんだかわからない顔の描いてある表紙の本。

これは私が高校生、高校3年だったと思う、の頃に読んで、大変感動したものである。

感動したので友人に貸したのだがその友人はあまりおもしろくなかったらしく、なかなか読まなかったのだがそのうち彼とは疎遠になってしまった。

今回読んだのは、数年前に古本屋で見かけて懐かしいなと買っておいたものである。


サリンジャーの作品は全集を買っていくつか読んだことがあるが、「ライ麦」はちょっと異色で、文体が極端に口語的なようだ。そのため訳者も非常に苦労したらしい。


「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルはすごくゴロがよいが、「The cather in the rye」という原題とは少しイメージが変わる。


私はこのタイトルを見たときに、女の子が自分の好きな男の子にむかってあたしを捕まえて、捕まえてごらん、というような意味なのかと思った。


だが、実際は主人公は少年であり、捕まえて欲しいのではなく自分が捕まえたい、という意味だった。

そして捕まえるのは自分の好きな女の子ではなく、落ちこぼれそうな子供達であった。


主人公のホールデン・コールフィールドは、自分の周囲の人間、学校の同級生とか、教師とか、街で出会った人々などに悪態をつきっぱなしなのだが、その悪態のつき方がユーモアがあって、愛情があって、読んでいて心が和む。本気で人を憎んだり否定したりしていないのだ。


久しぶりに読んでみて、文体に違和感や古臭さを感じるところもあったのだが、やっぱり名訳だと思う。

最近、村上春樹が翻訳を出したが、タイトルは「キャッチャーインザライ」だった。「つかまえて」を超えるタイトルが見つからなかったのだろう。

読んでないのだが、野崎訳に満足できなかったらもう原文を読めばいいと思う。


サリンジャーがなくなったニュースは聞いたのだが、野崎さんはもっとだいぶ前に、1995年に亡くなっていた。

2013/04/19

プラトン 「饗宴」

岩波文庫、久保勉訳。

古本屋の店頭で100円で売られていたものだがきれいで読んだ形跡がない。

「饗宴」は非常に有名で、高校生くらいの時に必読図書だとどこかに書いてあったか誰かにすすめられたかしたものであるが、読んだことはなかった。読みかけたことはあるがやめてしまった。

ただ、この中に、「人間はもともと男女が一体だったがそれが切断されてお互いを求め合うようになった」という話だけは知っていた。


私はソクラテスものが好きで、古本屋の100円コーナーなどで見つけては読んでいる。「国家」は気合を入れて新品を読んで、感動したというか恐ろしくなったのを覚えている。


「饗宴」は、ソクラテスを含む何人かが「エロス」について語り合う内容であるが、その様子はそのまま描写されるのではなく、そこに同席した者が思い出して語るというまだるっこしい形式になっている。そういう形式をとった理由については、「序説」というのが40ページくらいあって書かれているのだが途中まで読んでやめて、本編を読んだ。


居合わせた者達が「エロスを賛美しよう」ということになって、順番に語っていく。「エロス」というのは神の名前としてである。有名な、男女が一体だった話をするのはアリストファネスである。これは歴史の教科書に出てくるあのアリストファネスのようである。あらためて聴くと馬鹿げた話で、喜劇作家だからか、と思わせる。ちなみにその昔の人間の姿には男女がくっついたものだけでなく、男同士、女同士がくっついたものもあり、同性がくっついていたものは同性を求めるということも語られている。


ソクラテス以外は皆無条件にエロスを賛美するのだがソクラテスだけは少し違って、「エロスそのものが美しく善いものだ」という考えに疑問を呈する。そして、ディオティマという婦人に聞いた話として、エロス賛美というか、愛、美、善の本質についての話がされる。

訳注によるとこのディオティマという人物は創作だろうということである。しかし、どうしてこうまだるっこしいことをするのだろう、プラトンは。


ソクラテスによると、愛するというのは対象を所有し生殖することによって滅ぶべき者が永遠を手にすることであるという。さらに、それは肉体的なことにとどまらないという。

そしてソクラテスが語り終えた後にアルキビヤデスという若者がやってきて、ソクラテス賛美を語る。その時に、彼はソクラテスと一緒に寝たが何もされなかった、ということを語る。

ソクラテスものを読んでいると少年愛の話が出てくる。アルキビヤデスが何もされなかったというくらいだから、この少年愛には肉体的な行為が伴っていたのだろう。


私はいつも、この少年愛に引っかかる。生殖を目的とした愛よりも、生殖以上のものを目的とした愛の方が高尚である、という考えはわからなくもないが、生殖しないのにその肉体を愛するのはやっぱりただの倒錯としか思えない。


そしてもうひとつ、ソクラテスがただの哲学者、思索者でないのは、「神々」への強烈な「信仰」があることである。それは単なる社会慣習としてのものにとどまらず、下から上への一方的なものでもなく、交流があったようにうかがえる。

キリスト教とはもちろん違う。むしろそれと対立する偶像崇拝である。でも、ソクラテスだけでなく、当時のギリシアの人々は本当に強烈なインスピレーションを得られていたようである。ギリシアでは民主制が実現した。天動説もすでに唱えられていた。文学や彫刻作品は今でも古典とされていて、こうして私がプラトンの書いたものを読んでなるほどと思っている。


文字通り、当時のギリシアは「神懸かっていた」。ただしその神は非常に人間味のあるものであったという。私は「神」という存在が人間の創作品だという考えには同意しない。唯一神が存在すると思っている。ギリシア神話の神々は人間の作り出した創作物であり、偶像だといってかんたんに片付けられるものでもない。

本作品中でエロスは「神霊(ダイモーン)」として、神々と人間のあいだの伝達役のようなものして存在するというところがある。

ダイモーンというのは何かのたとえではなくて、実際に存在するのではないだろうか?ギリシア人達はそれを偶然のせいか環境のせいか知らないが、知覚できたのではないだろうか?

・・・俗に言う、天使である。

2013/04/16

ランボオ 「地獄の季節」「飾画」

岩波文庫の小林秀雄訳。

高校生のときに一度読んだはずだがほとんど記憶がない。

久しぶりに読んでみたが、やっぱり、意味がわからない。

これは散文なので、韻文の詩よりは少し内容が把握できる。でも、やっぱり非常におぼろである。


文体が古めかしく小難しいのは小林秀雄の訳文のせいだろうか?

でも、これは19歳の頃に書かれた物である。少年が書いたと言ってもいい。


一人称が「俺」になっているのだが、日本語の「俺」は少し悪すぎるというか、フォーマルでなさすぎるイメージがある。

フランス語では je であって、英語の I もそうだが、それはおそらく非常に透明というか軽い言葉であるはずだ。それを「私」「僕」「わたし」「ぼく」「俺」などと訳すのは訳者の受ける印象によるだろう。

金子光晴訳の「イリュミナシオン」も持っているが金子は全部「僕」にしているようである。



よくわからないのだが、少なくともランボーは世界を手放しで美しい世界だとは見なしていない。それどころか、何があったか知らないが、自分も、フランスも、何もかもがくだらなく醜く無意味に見え絶望していたようである。まだ十代だったのに。

彼がいくら天才だったとしても、私には小林秀雄の文体は堅苦しく老人くさく思える。

でも、1938年から今まで、改版をしながらも読み継がれていることからしてやはり名訳なのだろう。

もしくは、誰もわからないからなんとなく独特の雰囲気のあるこの訳を読んでわかったような気になっているだけなのかもしれない。

「地獄の季節」の表題だが「飾画(Les Illuminations)」も収められている。こちらの方が分量は多い。

全然意味がわからない。並べられる言葉がなじみがなさすぎて何のイメージも湧かない。「飾画」からして、わからない。「イリュミナシオン」だと、イルミネーションを連想する。

エジソンが電球を発明したのは1879年で、ランボーが25歳のときだ。「イルミナシオン」が書かれた時期は不明だが1875年にはもう詩を書くのをやめていたそうだから、少なくとも現代の電飾のようなものではない。

「地獄」にくらべて、絶望感や反逆性のようなものは薄く、わたしがイメージする一般的な詩に近い。色を表す言葉がよく出てくる。しかし、やはり、ランボーの詩からしっかりとした情景を思い浮かべることはほとんど不可能である。




2013/04/11

映画 「ベニスに死す」

ルキノ・ビスコンティ監督の映画。観たことはなかったが何度もその作品と監督の名前は聞いていた。

原作は岩波文庫の翻訳を2回読んだ。感動するとか、好きな作品というわけではないが、なんだか不思議な、強い印象を持っている。

観たのは早稲田松竹という名画座である。

平日の名画座なのに、ほぼ満席であった。


原作と映画で大きく違うのは音楽である。小説で音楽の効果を使うことはほとんど不可能だが、映画にとって音楽はなくてはならないものである。

私が特に印象的だったのは、流しというか楽団というかチンドン屋のような連中である。彼らがおどけながら演奏するのに、皆がほとんど表情を変えず困ったような顔をしていたのがおもしろかった。


この映画を観ている間中、私の頭の中には「滑稽」という言葉が浮かんでいた。

主人公の行動は滑稽である。少年をつけまわしたり、化粧をしたりするのは原作通りだが、それが小説よりも映画では滑稽さを増していてほとんど見るに耐えないくらいだった。


私はこの映画を大傑作だと賞賛する気にはなれないが、原作の持つ不思議さは再現されていたように思う。

タッジオや、伝染病や、タッジオを追いかけ病気になる主人公は何かの象徴だろうか。


主人公は英語をしゃべり、タッジオの家族はイタリア語を話すがイタリア語のセリフは訳されない。原作でもたしか主人公はイタリア語がわからず少年の名前というか呼び名である「タッジオ(タッジウ)」だけを聞いていたからそれでよいのだろう。




2013/04/02

ボルヘス 「八岐の園」

岩波文庫の「伝奇集」におさめられている。
プロローグと八つの短い話で、映画のオムニバスのような形式である。

ボルヘスを読んだのは初めてだ。
twitterでよく目にする名前なので、読んでおこうとおもっていた。
最近流行っているのだろうか?

一年ほど前に一度買ってあったのだがパラパラとながめただけで読めずにブックオフへ売ってしまった。

先日ポオの詩論を買いにいったときにたまたま目に入ったのでついでに買った。

今までに読んだことのない作風である。

「メタ小説」とでもいうのだろうか。

ときどき、ハっとさせられるようなフレーズが出てくることはあるが、なんともとらえどころのない話である。

登場する人名や作品名は架空のものが含まれているようだが、実在するものも混じっている。

ときどき、全く意味がわからないような文も出てくる。誤訳じゃないか?と思うところがある。

それは翻訳ものにはつきものなので気にせずに読み進む。


ヴァレリーのムッシュー・テストについての言及が何度かあった。

あれと似た印象を受けるところもあった。


読み終えるまで戸惑い続けた。

私は小説でも映画でも、それらが描くものは架空であり想像されたものであるということを前提にして読んだり観たりする。

そのときには、それは架空ではあっても、当然本当に存在しているものとしてのめりこもうとする。

それはすべての芸術の大前提である。


ところが、本作品は、架空の登場人物が架空の存在を語っている。架空が存在してリアリティを得るのも大変なのに、さらにその中で架空の世界が登場するとわたしの想像力が追いつかない。


「伝奇集」というタイトルから予想していたのとは違うものであった。もっとストレートに不思議な話、奇妙な出来事が書かれていると思ったのだが、百科事典のなかの一項目についての話だったり、
架空と思われる作家や作品について語られたりしている。

一度読んだだけではよくわからない作品であった。