平野 啓一郎、田中 慎弥、柴崎 友香の三氏によるトークショー。
無料だったので予約して観にいってきた。
来場者はけっこうたくさんいて、会場も予想していたよりも広かった。
この三氏の中で作品を読んだことがあるのは平野氏だけだ。
平野氏はtwitterをfollowしていて、彼についてはどういう人間か、自分なりに把握できている。
彼が芥川賞をとってからずっと、気になっていた。それは三島由紀夫、森鴎外、キリスト教といった、現代ではあまり注目されない世界に関わっている人だったからだ。
twitterのツイートを読んでいても、常識があるというか、冷静というか、理性的というか、とにかく非凡な人だなあと思う。
私は読書法については常々迷いがあるというか、苦労している。
「本を読め」というのは多くの人が言うことであるが、「読書」が意味するものはあまりに広い。
私にとって読書とはいわゆる純文学作品、古典とか名作とされているものを読むことである。
金儲けとか出世とか時間を有効に使うとか、そういったハウツーものとか、単に情報収集としての読書、あるいは教養としての読書というのは、私には興味のないものだ。
このブログで記録している読書録にも、そういう類の本は一切ない。
このセミナーのことを知って、おそらく私が求めている読書についての話をしてくれるだろうと思った。
セミナーは平野君が仕切り役となって進行していった。こういうことをできるのが彼である。
子供の頃の読書体験から、学校の国語の授業のこと、自分が作家になっていく過程などが語られた。
「読書法」というよりは、作家にとっての読書とはどのようなものであるか、というようなことが多く語られた。
印象に残ったのは、田中氏の、「読むように書く」という言葉である。
田中氏は、小説を書くときにあまり計画を立てずに、ひとつの文を書いたら、その文につながる文を書いていくのだという。
また、小説にはテーマとかメッセージとかいうものがあるのではなく、小説そのものが伝えたいことである、ということも言っていた。
セミナーの終わりに、来場者からの質問に答える場面があった。
ある人が、「読書していて読めなくなったらどうすればいいか?」という質問をした。
田中氏は、「わからないものはわからないまま読めばよい」というようなことを言った。
私はこのことにも納得した。
読書というと、著者の書いたことに感動して新しい世界を知って、自分が成長する、というもののようにみなされているところがあるが、そんな作品ばかりではない。それは、自分の読解力がないこともあるし、本当に駄作であることもある。
私はなるべく既に評価の固まった、古典とか傑作とかいうものを読むようにしているが、それでも、本当に感動することはまれである。
感動しないのに、わからないのに読む意味はないと思うかもしれないが、わたしは、傑作と言われている作品を読んだが全然おもしろくない、と感じることも非常に貴重な経験だと思う。