2013/07/17

田中慎弥 「図書準備室」

芥川賞受賞作の「共喰い」を読もうと思ったのだが立ち寄った本屋にはこれしかなかった。

「図書準備室」と「冷たい水の羊」の2作がおさめられている新潮文庫である。

デビュー2作目とデビュー作だそうだ。


とりあえず「図書準備室」を読んだ。

主人公が法事が終わった後親戚相手に延々と独白する。

その独白のなかである教師のことが語られる。

独白のテーマはなぜ主人公が働かないのかということなのだが、話をきいてもどうしてそれが理由になるのかはわからない。それはさておいても、主人公がその話をした動機がよくわからない。

戦争とかリンチの話が出てくるのだが、それらを非難するような様子でもない。


長い独白が終わると、いつの間にか話し相手は小さな女の子になっている。


不思議な作品である。

この作品は芥川賞の候補になったそうだ。




田中氏の作品はあまり読む気をそそられなかった。西村氏が「40過ぎて風俗に通うフリーター」で、田中氏は「工業高校を出て一度も働いたことのない30過ぎの男」、というように紹介されて、「またいわゆる『ダメ人間』か」と思ったからである。


だが、作品を読むとそのようなイメージはなくなり、どうやってこのような文体や語彙を身につけたのだろうと感心するばかりである。

二人の作品を読んだのは芥川賞がきっかけである。わたしは現代作家の作品をほとんど読むことがないが、芥川賞は新聞、テレビ、ネットでも非常に大きく報道され、数ある文学賞のなかでも最も権威があるとされているようなところがあるので、わたしも芥川賞受賞作くらいは読んでおこうか、と思う。

ただ、それでもすべての作品を読んだわけではない。作者の生い立ちとか、年齢などに興味を引かれて読むのである。



作家の人生とか生活というものと、作品は切り離して考えるべきであろうが、どうしても小説を読むとその作家がどうやって生きているのか、生きていたのかということは気になってしまう。やはり小説にはその人の生き方が反映される。それは、にじみ出るというよりは主張に近い。


もしその主張が、「戦争反対」であったり、「勤勉」であったり、「科学技術の発達こそが生活を改善させる」というものであったら、その人は小説家にはならなかっただろう。

しかし、そのような主張であったほうが、その人の人生は「まとも」なものになっただろう。


だから作家は非常識だったりまともな勤め人に向かないのだ、と考えることはできる。私もそういう作家に興味を持ってしまう。

だが、それは小説というか文学の本質とは別のものだと思う。文学とはたしかに健康で明朗で社会に貢献することを説くものではないが、それから逸脱していることをまるで自慢し競い合いでもするかのようなものでもない。


「いわゆるダメ人間の書く小説」というものはそういう理由で、あまり読みたくないし、読んでも得るものが少ない。


じゃあ、誰がどんなものを書けばよいのか。

それは難しい問題であるが、ひとついえるのは、自意識過剰でないものである。小説によって自分を主張したり自分を売ろうとしないようなものである。

歌うような小説である。歌というのは相手を感動させるためというよりは、自分が感動して自然に口をついて出るようなところがある。何のために歌うかとか、どうやったらいい歌が歌えるかなどを考えなくても歌える。そして歌詞はあまり重要でなく、時にはララララとかフフフンなどという無意味な音ですらいい場合がある。

小説でもそのようなものを好む。滅多に出会えないのだが。