2013/10/13

「R100」はなぜ受けなかったのか

R100の評判はかんばしくない。

ネットで検索するとほめている人は皆無である。


客の入りも悪いようで、私が観にいった劇場は地方の小さなところだが、
封切りから一週間たった三連休初日の土曜日18:10からの回で私を含めて3人しかいなかった。


この映画がなぜ受けなかったのか、よくなかったところ、疑問に感じたところなどを書いてみたい。


ある客がある映画を観るかどうかは、宣伝や試写を見た評論家のレビューなどから判断するのだろう。あとは監督や出演俳優の熱烈のファンであれば、どんな作品だろうと観にいく人もいるかもしれない。私がそうである。

だが、現在は松本人志の映画ならなんでも観たい、という人はほとんどいなくなってしまったようだ。過去三作で愛想が尽きたのだろうか?

私は松本監督は異色作を撮る人ではあっても、決して駄作を作る人ではないと思っているのだが、どうも、人々が映画に求めるものは私とは違うようで、納得感とか、胸のすくような感じ、石原慎太郎がよく言う「カタルシス」、登場人物に感情移入できること、泣いたり笑ったりできること、などであるらしい。



「R100」は私はおおいに楽しんでもう一回くらい観てみようと思っているが、『これは客がヒくだろうな』と思ったのは、女王様が寿司を叩き潰すシーンと、唾を吐きかけるシーンだ。どちらも1、2回ならSMだし、笑って済ますことができるが、執拗に繰り返される。ここは意図して繰り返されたのかもしれないが。


それから、『これはいらないんじゃないか』と思ったのが、中盤から現れる「R100」の製作スタッフのような人物達が登場し、映画についての諸設定が「自己批判」されるところ。これは大日本人で最後に「実写」シーンに切り替わったときのように、興ざめするというか、逃げじゃないかと思わせるようなところだ。ただ、もしこれがなかったら奇抜すぎて観客はついていけないかもしれない。


あとは、病気の妻とその父親の存在。私は途中で、主人公がM行為におぼれるのは病気の妻が苦しむのを代わってあげたいというような動機で、昏睡状態の妻は最後に目覚めるのではないかと思ったが、なんと妻も父親も女王様に丸呑みされてしまう。

終盤、Mだったはずの主人公が女王様達に戦いを挑み、虐げられた時にあらわれる喜びの表情が、戦っている最中に現れる。

そして女王様中の女王様、劇中では「CEO」とされる金髪白人の大女と二人きりで小屋に入っていく。その中で何がおこなわれたかはわからないが、小屋は光り輝いてベートーベンの歓喜の歌が流れる。

そして最後、主人公はお腹が大きくなる。裸になってお腹が大きくなった姿が映し出される。太ったのではなく、あきらかに妊娠した大きくなりかたである。そしてとなりにパンツ一枚の息子がいて笑っている。

息子が弟が欲しいと言われた、というシーンがあるのだが妻は病気で寝ていた。

その妻は女王様に食べられてしまい、主人公はおそらくCEOの子供を宿したのである。

CEOは女王様の中の女王様、つまりS中のSだ。ドMの主人公がドSの血を引く子供を宿したのである。

・・・

「ストーリー」というものを説明したら、こうなってしまう。

こんな内容だと聞いたら、バカらしくて観る気をなくすのも無理はないかもしれない。



この映画について、「主人公がどうしてこうなったのかが語られない」というようなことをメインにして批判しているブログを読んだのだが、私はこの映画について、そんなことは考える必要も説明する必要もないと思う。

ただのドMで、仕事は忙しいが退屈で、妻は病気で、楽しみがなくて変なクラブに入会したのだろう。



あと、地震が起きたのかと勘違いして起きていない、というシーンが3回くらいある。これについては「製作スタッフ」も指摘をして特に意味がないことが暴露される。


実際によくあることで、ある意味「あるある」的なおもしろさを狙ったのだろうか。それを三度も繰り返すことで、で、何もないのかよ!というものかもしれない。松本人志がふだんよくやっておもしろがっているように。



妻とその父が丸呑みされてしまうのも、観客に回復するのだろうかと期待させておきながらあっさりと裏切ってどうでもよくしてしまう。

主人公も息子も、自分の妻や母親が丸呑みされてしまったことを悲しみすらしない。

そんなことすらどうでもよく、ただ喜びというか快楽のみを追求する。


私が一番おもしろかったのは、その息子(嵐君という変わった名前である)がSMクラブとの戦いが始まって逃げている途中で車にひかれそうになり、その車の助手席の女性に「そんなところにいると引いちゃうわよ」と言われて、父譲りの例のCGによる恍惚の表情になるシーンである。


その助手席の女性は特に女王様ではない普通の女性で、それも、女優ですらないような、セリフもヘタクソないわゆる「素人」なところがまたおもしろかった。



私は「さや侍」の感動的な感じにはちょっと辟易したので、今回の映画の方が気持ちよく観ることができた。4作目にしてようやく、松本人志らしい、気負いのない作品ができたのではないだろうか。そうなったときに、それがヒットしなかったとしても、それはどうでもよいことだ。

松本氏も、吉本興業も、ファンですらそう思っているのではないだろうか。


興行収入がどうこうなどということには全く興味がない。ヒットすればそれは好きな人の作品だからうれしいことはうれしいが、売れたから成功などというのはいやらしい考えだ。

Mというのは、そういう世俗的な喜びに背を向けるものだ。松本人志は明らかにMである。ドMである。それは公言している。でも、その公言の仕方は単に性的な嗜好をカミングアウトしているようなものではなく、自分の生き方、ポリシーを表明しているようなところがある。

私もSかMかといわれればMだ。自ら苦しむようなことをして、「お前はMか」と言われることがよくある。だが、自分でもびっくりするくらいの加虐性が潜んでいることも自覚している。


この映画は、「真のMとは何か」を追求したものでもなく、「誰でもMとSの二面性を持っている」とか「Mだっていいじゃないか」などということを訴えているものでもない。


松本監督が考えている「SとM」というものは、世間一般で「あたしってM」「僕ドMです」「俺めっちゃS」などと言って喜んでいるものよりも、もっと高次な段階のものである。