先日ある飲食店で、「飛んでイスタンブール」がかかっていた。
流行ったのは私が小学生高学年の頃である。
歌詞の意味はさっぱりわからなかった。
「イスタンブール」を知らない。
それが地名であることすら知らない。
今になってあらためて聴いてみると、もう固有名詞はどんなものかはわかっている。
そして、これもおかしな詩だなと思った。
「いつか忘れていった こんなジタンの空箱
ひねり捨てるだけで あきらめきれるひと」
ジタンとはタバコの銘柄の名前である。
日本人にはあまりなじみのない名前だ。
その人がそのタバコを吸っていたのだろう。
「いつか忘れていった」とあるから、別れた人のことなのだろう。
歌手は女性だし、おそらく女が男を思い出して語っているのだろう。
この詩も、「いわんとしていることはなんとなくわかるが文法的におかしい」
類の詩である。
詩とはそういうものだと考えている人がいるかもしれないが、
私は絶対にそうだとは思わない。
支離滅裂になんとなく雰囲気がいい言葉をならべてごまかすのが詩ではない。
「いつか忘れていった」のだから、それははっきり憶えていないのである。
「こんなジタンの空箱」とあるが、ここで「ジタン」というちょっとめずらしい固有名詞が登場するので惑わされてしまうが、
「ジタンの空箱」という、特定の箱が示されている。
それも、誰もが吸うタバコではない。
となると、その印象は強烈で、誰のものでいつのことかもはっきり覚えているはずだ。
「ひねり捨てるだけで あきらめきれるひと」
これは女が、男がおいていったタバコの空き箱をひねり捨てて、
それだけで忘れられるような、特別な思い入れもない、そんなに深くない関係だったのだろう。
だが、「いつか忘れていった」とあるから、
その関係は少なくとも一夜だけではない。
空き箱を忘れたことが「いつか」ということは、結構長い間関係を持ったはずである。
簡単にあきらめ、忘れられるといいながら未練を断ち切れない、という詩なのだろう。
だが、基本的な事実関係がしっかりしていないので、信憑性も、現実感も、必然性も、
切迫感もない。
たぶん、作詞者もそれはわかっていて、あえてあいまいに、意味が不明瞭になるように書いたのだろう。
「おいでイスタンブール」
「飛んでイスタンブール」
意味はないのだ。
彼女がイスタンブールにいるのか、かつていったことがあるのか、
それすらもはっきりしない。
誰が飛ぶのか。飛んでくれと頼んでいるのか。
ただごろがよかっただけなのか。
2014/01/20
2014/01/13
Tilda Winston
Tilda Winstonはブロークン・フラワーズにも、リミッツオブコントロールにも出ていた。
「リミッツ・・・」はなんとなく思い出したが、「ブロークン・・・」はどこだったかな・・・
「リミッツ・・・」はなんとなく思い出したが、「ブロークン・・・」はどこだったかな・・・
Only lovers left alive
ジム・ジャームッシュの新作が2013年12月に公開されていたのを、年が明けてから知って見に行った。
有楽町のTOHOシネマズシャンテで見た。
日曜日の14:25からの回だったが、客はけっこう入っていた。6、7割はうまっていただろうか。
吸血鬼の話である。
タンジールの街並みが美しい。
主人公(と私はとらえた)のイヴ(tilda winston)が美しい。
何歳だろう?と思って観終わったあと調べたら50を過ぎていた。
名前はなんとなく聞いたことがあるような気がするが、知らない女優だった。
主人公はおそらくアダムなのだろうが、この人物がちょっと透明すぎた。
アダムとイヴはどちらもものしずかな常識人で、映画は静かに落ち着いて、悪く言えば退屈に進んでいくのだが、妹のエヴァが登場して雰囲気が変わる。
エヴァはまだ子供の無邪気な女の子である。
この3人ともう一人、年老いた吸血鬼が登場するのだが、彼らが吸血鬼であることの描写や説明はほとんど最低限に抑えられている。
血を飲んだ後に口をあけて恍惚の表情になるときに歯が見える。
中盤くらいになって、私はジャームッシュの映画にはあまり急激なストーリー展開などなく、いつのまにか終わってしまうんだろうなと思っていた。
終わって映画館を出るときには駄作だな、と思った。
これは「リミットオブコントロール」の時と同じだ。
でも、吸血鬼がむやみに人に噛み付かず、病院から極秘に血液を譲ってもらってそれを飲んで暮らしている、というのはなかなかおもしろいなと、後から思った。
そういえば、序盤で木製の弾丸を作るのだが、結局最後まで使われることがなかったな・・・・
TOHOシネマズシャンテはちょっと場所がわかりにくくて少し迷った。
いつものことだが、予告が聴覚的にも視覚的にもうるさい。誰が観るか、というような映画ばかり。
それから、あらためて思ったのだがお尻が痛くなる。座っているうちにだんだんずり落ちてきて、姿勢を正すのだが、そのときにお尻が痛い。そして、姿勢を正すときに後ろの人に頭が邪魔じゃないかと気になる。
もう少しスクリーンを上にして、やや前面に傾け、椅子もそれに対応して少し後ろに倒すように設置したらいいんじゃないだろうか。寝転がるのに近い体勢となる。
有楽町のTOHOシネマズシャンテで見た。
日曜日の14:25からの回だったが、客はけっこう入っていた。6、7割はうまっていただろうか。
吸血鬼の話である。
タンジールの街並みが美しい。
主人公(と私はとらえた)のイヴ(tilda winston)が美しい。
何歳だろう?と思って観終わったあと調べたら50を過ぎていた。
名前はなんとなく聞いたことがあるような気がするが、知らない女優だった。
主人公はおそらくアダムなのだろうが、この人物がちょっと透明すぎた。
アダムとイヴはどちらもものしずかな常識人で、映画は静かに落ち着いて、悪く言えば退屈に進んでいくのだが、妹のエヴァが登場して雰囲気が変わる。
エヴァはまだ子供の無邪気な女の子である。
この3人ともう一人、年老いた吸血鬼が登場するのだが、彼らが吸血鬼であることの描写や説明はほとんど最低限に抑えられている。
血を飲んだ後に口をあけて恍惚の表情になるときに歯が見える。
中盤くらいになって、私はジャームッシュの映画にはあまり急激なストーリー展開などなく、いつのまにか終わってしまうんだろうなと思っていた。
終わって映画館を出るときには駄作だな、と思った。
これは「リミットオブコントロール」の時と同じだ。
でも、吸血鬼がむやみに人に噛み付かず、病院から極秘に血液を譲ってもらってそれを飲んで暮らしている、というのはなかなかおもしろいなと、後から思った。
そういえば、序盤で木製の弾丸を作るのだが、結局最後まで使われることがなかったな・・・・
TOHOシネマズシャンテはちょっと場所がわかりにくくて少し迷った。
いつものことだが、予告が聴覚的にも視覚的にもうるさい。誰が観るか、というような映画ばかり。
それから、あらためて思ったのだがお尻が痛くなる。座っているうちにだんだんずり落ちてきて、姿勢を正すのだが、そのときにお尻が痛い。そして、姿勢を正すときに後ろの人に頭が邪魔じゃないかと気になる。
もう少しスクリーンを上にして、やや前面に傾け、椅子もそれに対応して少し後ろに倒すように設置したらいいんじゃないだろうか。寝転がるのに近い体勢となる。
2014/01/09
ロック(笑)
「どんな音楽を聴きますか?」と言われたときに返答に困る。
iTunesにはいっている曲のジャンルの中で一番多いのは「Rock」で、1000曲くらいあった。
だが、私は「ロックが好きです」とは口が裂けても言えない。
そして私はボブディランとかザフーとかセックスピストルズとかを聴いているときに「ロックを聴いている」という意識はまったくない。
そもそも音楽にジャンルなどあるのだろうかというのが私の考えであり、ジャンルなどというものは無視している。
さらに、「ロック」に関しては、スピリッツというのか、メッセージ色とか、ポリシーとか、反骨精神、反逆、反体制みたいなものを帯びていなければならないとされているようなところがある。
「そんなのロックじゃない」「ロックってのはこういうもんだ」
などと、「ロック」のファンやアマチュアミュージシャンはよく言う。プロはあまり言わない。
「ロック」に関してのミュージシャンの発言で私が知っているものをあげる。
「ロックは死んだ。セックスピストルズは史上最高のロックバンドだった。」(ジョンライドン)
「俺はザ・フーは世界で唯一のロックとは何かがわかっているバンドじゃないかと思うことがある」(ピート・タウンゼント)
「ロックンロールに別の名前をつけるとしたら『チャック・ベリー』だ」(ジョン・レノン)
ロックンローラーは強い酒を飲まなきゃいけないとか、無鉄砲で後先考えないとか、大衆にこびないとか、そういったつまらないこだわりがまとわりつくのがいやなので、私は「ロック」というジャンルわけを好まないのだ。
だが、確実に「ロック」という音楽のジャンルは存在しているとも思う。
ロックは誰が始めたのか。ビルヘイリー&コメッツだとか、チャックベリーだとか、エルヴィスプレスリーだとか、ビートルズとかローリングストーンズだとか、諸説あるが、ブルースが源流であるのは間違いないだろう。
そしてブルースというのは私は「無調音楽」だと思っている。
ブルースの音階は長調でも短調でもない。
そして、ロックはブルースと何が違うのかというと、シャッフル性がなくなったものだと私は理解している。ブルースはタッタタッタタッタタッタという、ハネるリズムであったが、ロックではズッタンズッタンあるいはズタタタズタタタという、直線的というか平板的なリズムを特徴としている。
その生み出す世界はやはり無の世界、虚無の世界である。
2014/01/06
くちなしの花
今朝バスを待っているときに腕時計のバンドがゆるいので締めなおしていたら、「くちなしの花」を思い出した。
この詩はなんかおかしい。
「指輪がまわるほどやせる」というのはあまり聞かない。
かなりのやせ方だ。
さらに、それが「噂」になっているのである。
人がやつれたときに、「あの人やつれて指輪もまわるくらいらしいよ」と言うことはありえないだろう。
「すっかり頬がこけて・・・」
「白髪が増えて・・・」
他人が見て「やつれた」というのはその程度であって、「指輪がまわる」というのは自分自身を見つめているときにしかわからないことだ。
そしてもうひとつは、
「くちなしの花のような女性であった」
これはよい。
しかし、「くちなしの花はあの女性のようだった」というのはおかしい。
「くちなしの花のような女」というときの「花」は、もちろんその花の性質、つまり色とか形とかあるいは匂いなどを言うのであって、特定の花ひとつを指すのではない。
だから、たとえその女が過去の、別れた女であったとしても、くちなしの花に似ていたという事実は変わることがない、つまり過去形にはなりえない。
「やせてやつれて」くちなしの花のようではなくなってしまった、という場合であれば、
「おまえはくちなしの白い花のような女だったのに」などというべきである。
この歌の場合は、「くちなしの白い花を見ると、その花に似ていたおまえのことを思い出す。おまえはくちなしの花のような美しい女だった」ということがいいたいのであろうが、文法的にそうなっていない。
もちろん私もそんなことを気にして聴いていたわけではなく、
言いたいことはわかっていたが、
やっぱりこの詩はあまりよくない詩だと思う。
いまでは指輪もまわるほど
やせてやつれた おまえの噂
この詩はなんかおかしい。
「指輪がまわるほどやせる」というのはあまり聞かない。
かなりのやせ方だ。
さらに、それが「噂」になっているのである。
人がやつれたときに、「あの人やつれて指輪もまわるくらいらしいよ」と言うことはありえないだろう。
「すっかり頬がこけて・・・」
「白髪が増えて・・・」
他人が見て「やつれた」というのはその程度であって、「指輪がまわる」というのは自分自身を見つめているときにしかわからないことだ。
そしてもうひとつは、
くちなしの白い花
おまえのような花だった
「くちなしの花のような女性であった」
これはよい。
しかし、「くちなしの花はあの女性のようだった」というのはおかしい。
「くちなしの花のような女」というときの「花」は、もちろんその花の性質、つまり色とか形とかあるいは匂いなどを言うのであって、特定の花ひとつを指すのではない。
だから、たとえその女が過去の、別れた女であったとしても、くちなしの花に似ていたという事実は変わることがない、つまり過去形にはなりえない。
「やせてやつれて」くちなしの花のようではなくなってしまった、という場合であれば、
「おまえはくちなしの白い花のような女だったのに」などというべきである。
この歌の場合は、「くちなしの白い花を見ると、その花に似ていたおまえのことを思い出す。おまえはくちなしの花のような美しい女だった」ということがいいたいのであろうが、文法的にそうなっていない。
もちろん私もそんなことを気にして聴いていたわけではなく、
言いたいことはわかっていたが、
やっぱりこの詩はあまりよくない詩だと思う。
登録:
投稿 (Atom)