太宰治 「斜陽」


「桜桃」、「老ハイデルベルヒ」、「ヴィヨンの妻」を青空文庫で
「斜陽」を集英社文庫で。

やっぱり太宰とは「『斜陽』を書いた人」ということになるのだろう。
「人間失格」が確か新潮文庫でもっとも売れている作品らしい。最近「こころ」を抜いてトップになったらしい。
しかし「失格」はちょっとやりすぎだ。何でも正直に言えばいいってもんじゃないだろう。
かくいう私も「斜陽」よりも「失格」の方をよく読んだのだが。

まず女性が語るという形式がいやなのと、その女性にまったく共感できないのが苦痛である。あ、と言うとか、スープの飲み方とか、貴族だとか爵位だとか、上品とかげびてるとか。蛇がどうしたボヤがどうしたとか。
本当の貴族だとかいうママにも、まったく魅力を感じないし。
直治が出てきて、ようやく一息つける。彼の気持ちはわかる。でも、わざわざ小説にするような事でもないと思う。

初めて読んだのが高校3年だったが、こんなオトナの汚い世界を理解できるはずもない。20年たって読み返してみて、読めていなかったところ、誤解していたところがかなりあった。

まず、一番大事な直治の遺書と、最後のしづこの手紙。しづこじゃない、かず子。
直治がけなしている「洋画家」とは上原のことである。上原のことをいっているんだろうとは思っても私は、画家だから違う、本当に画家のことを言っているのだと思った。上原の知り合いの画家がちらっと出てくるが彼のことかなと思ったりした。しかし「フィクションにして書く」という断りがある。
その奥さん「スガちゃん」。これも誰だろうと後ろに戻ってみたがそんな人はでてこない。上原の奥さんのことである。

こういう回りくどい言い方をさせたのは、この作品が実話すれすれだからだろう。
これは最近あらためて調べて知って驚いたというがあきれたのは、
その実話であるというのが、過去の事実を打ち明けたというのではなく、執筆と同時進行、下手をすると事実が小説を追っかけていることだ。

昭和22年2月、太田静子を訪ね、斜陽の1・2章を書く。
7月から10月、「斜陽」が連載され、11月に静子が子を生む。
作中の最後の手紙の日付が昭和22年2月。そのときに子ができたようですといっているから、もはやこれは私小説どころか、まさに「仮名を使う程度のごまかし」をほどこされただけのドキュメンタリーだ。

やはり作家と言っても、何もないところからすべてを作るのではなく、経験とか、古典とか、人の日記という素材を加工しているのだ。
これは文学に限らず、絵画でも音楽でも、ソフトウェアでも同じことだ。

高校生当時に読んだときほどではないにしても、やはり私は太宰の文体に異様な、嫌悪に近いものを感じる。
彼の作品を読む動機の主要な要素が、週刊誌のスキャンダルを読むような低級な好奇心であるのは間違いない。

初めて太宰の作品を読んだのは、確か中学生のとき、図書館で、御伽草子を立ち読みしたのだが、そのときははっきりと嫌悪を感じて棚に戻した。
私は当時は非常に潔癖であり、夏目漱石ですらふざけていて嫌いなくらいだった。
国語の授業で鴎外の最期の一句を読んだのだが、教科書に漱石の文章も載せられていて、両者を比較して見ましょうというような事が書いてあり、確か我輩は猫であるだったか、そして先生がどっちが好きですかと聞いてごく少数の鴎外派だったのを覚えている。

これは触れねばならない。
MCについて。マイ・チエホフ、マイ・チャイルド、マイ・コメディアン。
これは、なんというか、気持ち悪いというか、サブいというか。
これは太田静子が実際やったことなのだろうか?
マイ・コメディアンは太宰の案かもしれないが。
私はこういう言葉遊びが大嫌いです。
ましてやそれを手紙に書くなんて、ぞっとする。

映画 「ボヘミアンラプソディ」

私はクイーンが嫌いでiPodの中にも1曲も入っていないし、 今までレコードやCDもほとんど聴いたことがない。 ベスト盤か何かを借りたことはあったかもしれないが、 まったく興味を持てなかった。 彼らの曲はテレビCMその他で嫌というほど聞かされていて、 ボヘミアンラプソディ...