小学校6年生の頃、近所の図書館で宮沢賢治全集を借りて全部読んだ。大人になってからも宮沢賢治の作品は思い出したように読んでいる。私にとって宮沢賢治はただの作家でも童話作者でも詩人でもない、特別な存在である。
「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の作品の中でも知名度が高い方だろう。おそらく、松本零士の「銀河鉄道999」のせいだ。私も、999を知った後で宮沢賢治を知った。
しかし、全集を読んだ私に言わせてもらうと、「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の作品としては少し異色である。そして、そんなに傑作だとも思わない。
風の又三郎とか、よだかの星とか、ツェねずみとか、どんぐりと山猫とか、もう内容もうろ覚えだがそういう小品みたいなものの方が楽しく読めるし宮沢賢治らしいと思う。「注文の多い料理店」も有名だが、これは本当に彼が書いたのかと思うくらい、これも異色である。
ただ、「銀河鉄道の夜」には他の作品にない壮大さというか、不気味と言ってもいいくらいの神秘的なものがあって、自分の心の中にも理解不能のままずっと残っている。
改めて読んでみた。
この作品のメインの部分、「銀河鉄道」に乗って小旅行をする部分は夢である。そう明記されている。
他人の幸せのためなら自分はどうなってもいいと話す二人だが、その話の通りに主人公ジョバンニの友人カムパネルラはいじめっ子と言えるようなザネリが溺れたのを助けて亡くなってしまう。
登場人物の名前がこのような西洋人の名前になっているのも珍しいことだ。
小旅行は夢なので幻想的で非現実的な風景が描かれる。初めて読んだ時もその後何度か読み直した時もいつも面食らって、映像を想像することもできないところも多い。
明らかにキリスト教のイメージが反映している。それは聖書の内容であるとかイエスの言葉とかではなく、あくまでもキリスト教に伴うイメージ、雰囲気といったものにすぎない。でも、誰かの幸せのために自分はどうなっても構わないという考えはやや過激ではあるがキリスト教の考えである。
彼の宗教的なバックボーンというか信仰していたのは仏教、法華経とかであり、私は詳しくないが仏教には自分の身を犠牲にしてまで他人の幸せを願う考えはあまりないのではないだろうか?
「銀河鉄道の夜」は子供向けのほのぼのしたメルヘンなどではなく、心が苦しくなり身につまされ、不気味さも持ち合わせた、やっぱり難解な異色作である。