2024/01/04

ダーウィン「種の起源」

岩波文庫(Kindle版)

Charles Darwin
ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE (1859)

八杉龍一訳(1963~1971)


私は酔っぱらうと「進化論」を否定したくなる。ツイッターに書いたり、ブログに書いたり、喋って動画に撮ったりする。しかし、自分が撮った動画を見ていて、そもそも自分が否定している「進化論」が、本当に自分が思っているような考えなのか、確認せねばなるまいと思った。

最初の章を読み始めて、今まで読んだことのない文体だと感じた。翻訳文が、普通は漢字で書くところがひらがなになっている箇所が多いのに違和感を感じてなかなか読めなかった。最初に、栽培する植物は自然状態よりも変種が多い、みたいな話から始まった。なかなか自分が持っているイメージの進化論が語られないので、目次をざっと見て、最後の方にある第十四章「要約と結論」から読んだ。

そこに書かれていたのは、自分が思っていた、学校で教わったりした「進化論」の内容とほぼ同じだった。しかし、思っていたよりダーウィンの論調は穏やかというか緻密というか飛躍や暴論がなく、非常に多くの実例、根拠が示されていて、読んでいて疑問を感じたり反感を抱くことはほとんどなかった。

そして驚いたのが、私がよく思ったりしゃべったりする「進化論に対する疑問」というものが、ほとんどすべて、すでに想定されてそれに対する回答が示されていたことだ。十四章に続く「付録 自然選択説にむけられた種々の異論」においては、特にマイヴァートという動物学者の異論がたくさん紹介されていて、それらがほとんど自分が抱く疑問を網羅していた。

要約と結論、そして異論に対する回答を読んだ後、各章をざっと読み返した。ひとつわかったのは、ダーウィンの言う「進化」というのは、特に動植物が意図して特定の方向に変化していったのではなく、ほとんど偶然に発生した微細な差異が、その環境で生存し生き残るのにふさわしいものが自然によって「選択」され、長い年月を経てそれが蓄積して現在あるような姿になったということである。その「選択」はその生物にとって必要で有用であるものに対してだけでなく、不要で使用しなくなったものが「退化」することについても作用するのだった。

だがやはり、私は進化論に対して否定的な思いが強い。わたしには生物が今あるような姿になったのにはある「意志」のようなものが働いているとしか思えない。ダーウィンがしきりに言う「人間が栽培する植物において自然状態より変種が多く発生し交配によって変種が生まれていく」というのはまさに、生物の「進化」が外部の目的を持った意志のようなものの働きによって起こることを示しているように思えてならない。別に「創造」といっても、個々の生物をそれぞれ神が粘土をこねて箱庭に置くように造ったというわけではない。私は、ダーウィンの言う長い年月を経て繰り返される自然選択というものは、神が意図した創造が長い年月を経て完成した、ともいえるのではないかと思うのだ。

あらためて創世記も読み直してみた。そして気づいたのが、何度も繰り返される「種類に従って」創造されたという記述である。まるで、後に進化論が提唱されるのを予期して、そうではないのだとあらかじめ念を押しているかのように見えた。もしかして、進化論が発表されたあとに付け加えられた記述ではないかとさえ思ったが、King James Versionを読んでも

And God made the beast of the earth after his kind, and cattle after their kind, and every thing that creepeth upon the earth after his kind: and God saw that it was good.

というように、after his(their) kind と繰り返し書かれていた。


私だって子供のころに、いったんは「神が創造したなんて昔の無知な科学が未発達な時代の人々の誤った考えなのだ、天動説と同じように」と納得した。

しかし、ある時から私は進化論も、天動説も、絶対王政や貴族政治から民主主義になったことも、本当に正しかったのだろうかと、疑問を持つようになったのだ。

多様な生物が偶然あるいは環境に適応しようとして発生した変化が積み重なって自然にできあがったと考えるのが不思議で驚くべきことなのは、神が創造したと考えるのがそうであるのと同じくらいではないだろうか?