2023/01/30

はだしのゲン

中沢啓治作・画

1973年から1987年にかけて、少年ジャンプ等で連載された。

後半は共産党機関紙とか日教組機関紙などの物騒なところで連載したようだ。


初めて読んだのは小学生、3年生くらいだっただろうか。

親戚のおばさんが貸してくれた4巻までを読んだ。

赤ちゃんの友子が死んでしまうあたりまで。


この漫画は非常に話題になっていた覚えがある。

何で話題になったのか?テレビではないと思う。

新聞かな?


映画化もされて、「涙の爆発」というのを、

学校の体育館で上映して観たような覚えがある。


私の世代ではだしのゲンを知らない人はまずいないのではないか。


私が読んだ以後もゲンは話が続いて、ヤクザとか闇市とかヒロポンとかが出てくるということは聞いていたが、ずっと読まずにいた。

ヤフオクで中公文庫のコミック版全7巻を入手して読んだ。


あしたのジョーとかでもあるように、セリフが手直しされているところがありそうなのでなるべく古い版を読もうかと思ったが場所を取るので文庫にした。

この作品はいかにも左翼的な反戦思想のもとに描かれたようなイメージがある。

実際、共産党や日教組の機関紙に連載されている。


だが私は初めて読んだ小学生の時もそうだったし、今回最後まで読んでもそうなのだが、この漫画がそんなに「左翼思想」が表現されたものだとは思わない。

特に父親、母親は反戦思想が強い。ゲンはそれほどでもないのだが、彼が天皇の戦争責任を言うシーンもある。

でも、それはあくまでも漫画の登場人物が言っているだけである。父親が戦争に反対して特高にとらえられたのは実話らしい。

戦後駐留した米兵も登場するが、ゲンたちがとんでもない悪人、鬼畜というイメージでおそるおそる近づくが実際は普通の人間でチューインガムを子供たちにくれるというシーンもある。



2023/01/02

社会契約論(LE CONTRAT SOCIAL)

Rousseau

LE CONTRAT SOCIAL

1762


岩波文庫

訳者 桑原武夫ら

1954/12/25 第一刷

2010/11/25 第80刷


「民主主義」「国民主権」ということが当たり前となりもはやそもそもそんなものが必要だったのか、現在の社会の姿はこれでいいのだろうか?と疑問すら抱くようになった。

社会契約論というものの存在とだいたいどういうことが書かれているかは学校の歴史などの授業で習った。社会契約論に関しては内容の抜粋などを読んだような覚えがあり、国と国民の関係は支配や隷属ではなく契約であるべきだ、という考えには納得していた。

社会契約論とエミールは同じ年に発表され、間もなくルソーに逮捕状が出る。

1762年の4月に社会契約論が、5月にエミールが刊行され、6月に逮捕状が出ている。

エミールも読んだが、どちらも、根本的な無神論ではないのだが、宗教特にキリスト教を否定するような発言が見られる。


改めて全部読んでみて知ったのは「特殊意志」「一般意志」という概念である。

「特殊意志」というのは一人の人間としての考え、主張のようなもので、「一般意志」はそれと対立する考えで、「市民としての意志」、今の言葉で言い換えれば「公共の利益」のようなものである。

あと、ルソーはジュネーヴで生まれ育っていて、共和国の人である。


民主主義は17世紀から18世紀にかけて革命が起きて世界に広まったようなイメージがあるが、民主制、民主政、民主政治と言ったものはローマとかギリシアの時代からある。


現在「民主主義」と呼ばれている機構は、ルソーの言う「民主政(démocratie)」とはだいぶことなる。


今回なるほどと思ったのは多数決について述べている、「少なくとも一度は全員一致があったことを前提とする」というところだ。

そもそも、「多数決」という制度を採用することに同意していなければ、自分の意見が少数派であったときに多数派に従うことはできない。

だが今の日本で、それがどのように同意されたのかはよくわからない。少なくとも国民全員が納得して決めたことではないだろう。


今、日本では選挙が行われて、当選した国民の一部の人々が国会議員とか県会議員とか市議会議員とかになって、国会、県議会、市議会を開催して法律などを決定していく。

議員達はたてまえは「代表」であり、ルソーの言うような一般意志を持った存在のようであるが、実際は違うだろう。選ばれた一つの特殊意志にすぎない。投票する人は一般意志を具現する人を選ぶのではなく、ある特殊意志がまたべつの特殊意志を選んでいるだけだ。

おそらく完全な、理想の「民主政」は、議員を選出するという意味での選挙をおこなわない。ルソーに言わせれば現代の日本は少数の特権階級者が政治を行う「貴族政」になるのではないだろうか。


今回この本を読もうと思ったのは、ルソーが秩序を破壊して人々に暴力革命を起こすように扇動するようなものだったのではないかと思ったからなのだが、読んでみるとそこまで過激なものではなかった。ただ当時としては、特にフランス国としては過激で秩序破壊を企てるものだと思われてもしかたのない内容だったようだ。

「一般意志」というような考えは私になかったものだ。民主主義によって決定されることは多数意見の落としどころであり妥協のようなものだと認識していた。

でも「意志」であって、もっと積極的なものである。「国民の総意」に近い。でも、総意でもない。総意というと全員が同じ特殊意志を持つような印象があるがそんなことは不可能で、そんなことが可能であったらそもそも政治も選挙も法律も必要ないだろう。

多分究極の民主政は選挙や多数決がなく、すべてのことが全員一致で結論づけられるまで議論を尽くす制度であろう。

多数決で少数意見を切り捨てている限りは結局ある特殊意志が通っているのに過ぎない。

でも私は、やっぱりそんな究極の民主政などまさに「神々の国」でもなければ不可能だし、「一般意志」などという崇高な理念は現実にはあり得ないと思う。