Mr.Childrenのアルバムで聴いたのは、
Versus
Atomic Heart
深海
シフクノオト
iPhoneにはいっていたのはシフクノオトのみである。
シフクノオトは、店でCDを買った。
ミスチルはイノセントワールドで一躍有名になったが、
私はこの曲がヒットしたときは冷ややかに見ていた。
カラオケのあるキャバクラのような店によく言っていたのだが、
そこで女の子たちがみなミスチルミスチル、特にOverを歌ってほしいというので
VersusとAtomic Heartを買って覚えた。
そのうちミスチルが好きになってきて、
深海は発売直後に買った。
シフクノオトは、なんとなく買ったのであるが、
最近になっていいと思うようになりよく聴いていた。
そして、ほかのアルバムも聴いてみようと思い、
It's wonderful worldを買った。
そして聴いたことはあったが今は持っていない深海も、
傑作と推す人が多いので買った。
深海はあらためて聴きなおしてみるとピンクフロイド臭がすごかった。
It's a wonderful worldはまあまあかな。
2018/10/20
2018/10/06
ギターの試奏
ギターを買うことにした。とにかく買う。
昨日店に行って、候補を三つほど決めてきた。
これから試奏して比べてどれにするか決める。
店でギターの試奏をすると、緊張や恥ずかしさでなかなか冷静な判断ができないので、
事前にどういうところをチェックするかを確認しておく。
まずはアンプなしで弾く。
開放弦を弾く。
ドレミファソラシドを弾く。低いポジション、高いポジションで。
Cコード、Aコード、Gコード、Eコードなどを弾く。
弦の高さを確認する。調節できるが、基本の高さがある。
ネックの反りとかはそんなに見ない。
アンプにつなぐ。
クリーン重視。
最近はほとんど歪ませない。
クリーンが気持ちよければ後はどうにでもなる。
トーンとボリュームのツマミをまわしてみる。
ヨレてないかチェック。epiphoneカジノで見逃したところだ。
まあ、サラっと、やるだけ。
よくアホみたいに弾きまくってる人がいるが、
そもそもギターというものは同じ型番が何台もあって選べるわけではない。
というか、普通1本しかない。違う型番では個体のよさかどうかが比較できない。
けっこうな値段だから、そうホイホイ買えるものでもないし、
こだわってたらいつまでも買えない。
昨日店に行って、候補を三つほど決めてきた。
これから試奏して比べてどれにするか決める。
店でギターの試奏をすると、緊張や恥ずかしさでなかなか冷静な判断ができないので、
事前にどういうところをチェックするかを確認しておく。
まずはアンプなしで弾く。
開放弦を弾く。
ドレミファソラシドを弾く。低いポジション、高いポジションで。
Cコード、Aコード、Gコード、Eコードなどを弾く。
弦の高さを確認する。調節できるが、基本の高さがある。
ネックの反りとかはそんなに見ない。
アンプにつなぐ。
クリーン重視。
最近はほとんど歪ませない。
クリーンが気持ちよければ後はどうにでもなる。
トーンとボリュームのツマミをまわしてみる。
ヨレてないかチェック。epiphoneカジノで見逃したところだ。
まあ、サラっと、やるだけ。
よくアホみたいに弾きまくってる人がいるが、
そもそもギターというものは同じ型番が何台もあって選べるわけではない。
というか、普通1本しかない。違う型番では個体のよさかどうかが比較できない。
けっこうな値段だから、そうホイホイ買えるものでもないし、
こだわってたらいつまでも買えない。
アナログレコード
BSでソニーのデジタルオーディオ開発秘話のような番組をやっていた。
いろいろな苦労話があったなかで、それまでのアナログレコードとデジタル録音の違いについての話が当然でてきた。
デジタル録音は可聴範囲外の音をカットしてしまう、ということがよく言われるが、
よく考えてみると本当に可聴範囲外なのであればカットしてもわからないはずである。
デジタル録音が開発されたばかりの頃にそれまでのアナログ録音と比較して驚いた人が登場した。
松任谷正隆である。
彼は、今までに聞いたことのないたとえを使った。
「きれいに盛り付けた料理がバラバラになったようだ」
とにかく、アナログのほうがよかった、という点では多くのミュージシャンと共通している。
イアンギランはCD化されたディープパープルのアルバムを聴いて涙を流したそうである。
感動してではなく、あまりにひどい音質だったから。
デジタル録音を聴いて悪い意味で驚いた松任谷正隆は、アナログ録音にこだわることをせず、これが新しい技術なのだからと自分の音作りをデジタルに合うように工夫したそうである。
といっても現在流通しているCDに録音されている音楽はデジタル録音に適したミックスやマスタリングをすることによってよい音質になったというわけではなく、デジタル録音自体が技術的に改善されたそうだ。
松任谷正隆は改善されたCDとアナログレコードを聴き比べて、まったく区別がつかなかったそうだ。
(あるいはCDのほうがよかったといったかもしれないがよく覚えていない)
今私は音楽を聴くときはほとんどがiPhoneでCDからインポートしたものを聴いている。
スピーカーで聴くことはほとんどない。
いろいろな苦労話があったなかで、それまでのアナログレコードとデジタル録音の違いについての話が当然でてきた。
デジタル録音は可聴範囲外の音をカットしてしまう、ということがよく言われるが、
よく考えてみると本当に可聴範囲外なのであればカットしてもわからないはずである。
デジタル録音が開発されたばかりの頃にそれまでのアナログ録音と比較して驚いた人が登場した。
松任谷正隆である。
彼は、今までに聞いたことのないたとえを使った。
「きれいに盛り付けた料理がバラバラになったようだ」
とにかく、アナログのほうがよかった、という点では多くのミュージシャンと共通している。
イアンギランはCD化されたディープパープルのアルバムを聴いて涙を流したそうである。
感動してではなく、あまりにひどい音質だったから。
デジタル録音を聴いて悪い意味で驚いた松任谷正隆は、アナログ録音にこだわることをせず、これが新しい技術なのだからと自分の音作りをデジタルに合うように工夫したそうである。
といっても現在流通しているCDに録音されている音楽はデジタル録音に適したミックスやマスタリングをすることによってよい音質になったというわけではなく、デジタル録音自体が技術的に改善されたそうだ。
松任谷正隆は改善されたCDとアナログレコードを聴き比べて、まったく区別がつかなかったそうだ。
(あるいはCDのほうがよかったといったかもしれないがよく覚えていない)
今私は音楽を聴くときはほとんどがiPhoneでCDからインポートしたものを聴いている。
スピーカーで聴くことはほとんどない。
松本人志の映画
11/5、NHK BSプレミアムで「松本人志大文化祭」という番組があって、ほぼ全部見た。私はダウンタウンが大好きで、彼らが出る番組はほとんど見てきた。そして今回、彼が撮った最初の映画である「大日本人」も放送された。今回の「文化祭」で、私が一番見たかったものは「大日本人」であった。私はもちろん彼が発表した3本の作品は全部映画館で観ている。私は3本とも楽しんだが、映画監督としての松本人志の評価は今ひとつのようである。
「大日本人」は、その映像を思い出しただけで楽しくなるというか、ワクワクするものがある。この作品は彼の感覚が素直に表現されていた。だが、2作目以降はどうも考えすぎと言うか狙いすぎというか、感覚でなく考えて作ったという印象がある。考えすぎというのは、「大日本人」にもないことはない。テレビのバラエティ、マンガ、ゲーム的な構成をひきずっていて、映画として見るには興ざめなところがある。
私はおもしろいものを見たいのであり、いい映画を見たいのではないが、でも、映画である必要がないものを映画にすることはやはりよくない。松本氏は、大日本人を作るときに「映画を撮りたい」という思いが強すぎたのではないだろうか。なにか表現したいものがあって、それには映画がふさわしかったから映画を撮った、というのではなく、「お笑いで成功したから映画もやってみたい、映画に挑戦したい」という動機で撮ったのではないか。
「それはすばらしい事じゃないか、それの何が悪いのか?」と言われるかもしれないが、私はその動機は間違っていると思う。よく比較される北野監督の作品も私は好きで全部見ているが、北野氏は映画では映画でしかできないものを撮っている。松本氏は、テレビでやったことを映画にアレンジしたようなところがある。
「さや侍」は、3本の中で一番映画らしかった。が、松本らしさがなかった。評価が今ひとつだった2作品の反省からかわかりやすいストーリーや感動を前面に出す映画にして、松本氏本人も「好評だった」と言っていた。わたしは映画館で「さや侍」を見て楽しんだことは楽しんだが、何か居心地の悪さというか気持ち悪さを感じた。その前の2作品は映画館で3回ずつ見たのだが、「さや侍」は1回しか見なかった。
松本氏は「オチ」にこだわり過ぎではないだろうか?「笑い」というのはオチで生まれるものではない。漫才のオチも、落語のさげも、単に形式的に終わらせるだけで、笑いのピークはその前にある。だからオチやサゲはちょっと棒読み風にさらっとやるのが普通である。ときどき、どんでん返しのような、凝ったオチの漫才を見ることがあるが、そういう漫才はその場では沸いても後になるとあまり面白くなく、また見たいとも思わない。
私は漫才とかコントも好きで、5分前後の短い「ネタ」を動画としてPCに保存して何度も繰り返し見ているものが何本かあるが、すべて「オチ」などたいしたものではない。というか、どれも「オチがイマイチだな」と感じるものばかりだ。しかし、最近思い始めたのは、傑作なのにオチが弱いのではなく、オチが強すぎないから傑作なのではないか、ということである。オチとか、起承転結などというものは形式にすぎず、ある程度のカタチがあればよいのであって、形式ばかりにこだわって、その複雑さとか意外さが前面にだされると、興ざめするのである。
おもしろいネタというのは大体その状況とか登場人物の個性(いわゆるキャラ)がおもしろい。雰囲気とか空気といってもよい。それが確立されれば、何を言っても面白くなる。形式はそういう世界を築くための手段にすぎず、形式=世界なのではない。おそらく、松本氏はそれをわかっていて、それをやってきた人だ。しかし、映画ではそれに失敗し、形式におぼれている。それは、やっぱり本業ではないからだ。テレビや舞台で成功したことを映画でやろうとしているからだ。
北野氏が映画を撮り出した頃はあまりテレビで面白くなくなった頃だった。トーク番組とか司会者とか、自身もあまりテレビの仕事に情熱を感じなくなっていたのではないだろうか。しかし松本氏はいまだにテレビ界で生き生きと活動していて全盛期と言ってもいい。映画なんかやる必要がない。今のところ彼が表現したいことに最も適しているのはテレなのだ。そしてそれでいいのである。
(2011年11月6日)
「大日本人」は、その映像を思い出しただけで楽しくなるというか、ワクワクするものがある。この作品は彼の感覚が素直に表現されていた。だが、2作目以降はどうも考えすぎと言うか狙いすぎというか、感覚でなく考えて作ったという印象がある。考えすぎというのは、「大日本人」にもないことはない。テレビのバラエティ、マンガ、ゲーム的な構成をひきずっていて、映画として見るには興ざめなところがある。
私はおもしろいものを見たいのであり、いい映画を見たいのではないが、でも、映画である必要がないものを映画にすることはやはりよくない。松本氏は、大日本人を作るときに「映画を撮りたい」という思いが強すぎたのではないだろうか。なにか表現したいものがあって、それには映画がふさわしかったから映画を撮った、というのではなく、「お笑いで成功したから映画もやってみたい、映画に挑戦したい」という動機で撮ったのではないか。
「それはすばらしい事じゃないか、それの何が悪いのか?」と言われるかもしれないが、私はその動機は間違っていると思う。よく比較される北野監督の作品も私は好きで全部見ているが、北野氏は映画では映画でしかできないものを撮っている。松本氏は、テレビでやったことを映画にアレンジしたようなところがある。
「さや侍」は、3本の中で一番映画らしかった。が、松本らしさがなかった。評価が今ひとつだった2作品の反省からかわかりやすいストーリーや感動を前面に出す映画にして、松本氏本人も「好評だった」と言っていた。わたしは映画館で「さや侍」を見て楽しんだことは楽しんだが、何か居心地の悪さというか気持ち悪さを感じた。その前の2作品は映画館で3回ずつ見たのだが、「さや侍」は1回しか見なかった。
松本氏は「オチ」にこだわり過ぎではないだろうか?「笑い」というのはオチで生まれるものではない。漫才のオチも、落語のさげも、単に形式的に終わらせるだけで、笑いのピークはその前にある。だからオチやサゲはちょっと棒読み風にさらっとやるのが普通である。ときどき、どんでん返しのような、凝ったオチの漫才を見ることがあるが、そういう漫才はその場では沸いても後になるとあまり面白くなく、また見たいとも思わない。
私は漫才とかコントも好きで、5分前後の短い「ネタ」を動画としてPCに保存して何度も繰り返し見ているものが何本かあるが、すべて「オチ」などたいしたものではない。というか、どれも「オチがイマイチだな」と感じるものばかりだ。しかし、最近思い始めたのは、傑作なのにオチが弱いのではなく、オチが強すぎないから傑作なのではないか、ということである。オチとか、起承転結などというものは形式にすぎず、ある程度のカタチがあればよいのであって、形式ばかりにこだわって、その複雑さとか意外さが前面にだされると、興ざめするのである。
おもしろいネタというのは大体その状況とか登場人物の個性(いわゆるキャラ)がおもしろい。雰囲気とか空気といってもよい。それが確立されれば、何を言っても面白くなる。形式はそういう世界を築くための手段にすぎず、形式=世界なのではない。おそらく、松本氏はそれをわかっていて、それをやってきた人だ。しかし、映画ではそれに失敗し、形式におぼれている。それは、やっぱり本業ではないからだ。テレビや舞台で成功したことを映画でやろうとしているからだ。
北野氏が映画を撮り出した頃はあまりテレビで面白くなくなった頃だった。トーク番組とか司会者とか、自身もあまりテレビの仕事に情熱を感じなくなっていたのではないだろうか。しかし松本氏はいまだにテレビ界で生き生きと活動していて全盛期と言ってもいい。映画なんかやる必要がない。今のところ彼が表現したいことに最も適しているのはテレなのだ。そしてそれでいいのである。
(2011年11月6日)
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