ツルゲーネフは父と子、初恋、ルーヂンを読んだことがあって、どれも印象に残っている。
よく考えてみると、私が読んだ小説や詩のなかでロシア人の作品の占めるウェイトはかなり多く、日本人に次ぐというか、ほとんど日本かロシアか、みたいになっている。
地下生活者の手記、カラマーゾフの兄弟、罪と罰、白痴、戦争と平和、クロイツェルソナタ、大尉の娘、オネーギン、どん底、など、外国の作品で心に残っているのはロシアばかりだ。
ロシア以外だと、サリンジャー、トーマス・マン、シェークスピア、ゲーテくらいだろうか。
猟人日記は今岩波文庫のラインナップにない。
たまに本屋に行くと岩波文庫の棚をながめるが猟人日記があったためしがない。
なので、amazonかヤフオクか忘れたが古本を買った。
今持っているのは1958年1刷、1998年15刷(上巻)、12刷(下巻)のものである。
けっこう前に買ったはずだ。
初めて買ったのは30代の頃だったと思うが、その時も中古だったのだが買ったら両方上巻だか下巻で読む気をなくした。
そして最近といっても数年前に買いなおした。
いつも、なんで猟人日記が(新品で)売っていないのかと不思議だった。
読んでもいないのだが名前はよく聞くし、不朽の名作のようなものだと思っている。
太宰治の斜陽に、主人公と女が猟人日記について話、主人公が「あれはちょっとうまいね」とかいうシーンがある。
初めて斜陽を読んだのは高校生の時だったが、その時からいつか猟人日記を読んでみようと思っていたが、もう30数年が経ってしまった。
最初の二三篇を読みかけたことがあるのだが、どうも頭に入ってこず、やめてしまった。
今回、なんとしても読んでやろうと思い、最初の「ホーリとカリーヌイチ」を読んだ。1回読んで、やっぱり何が言いたいのかよくわからない。何も頭にも心にも残らない。すぐにもう一度読んだ。ようやく情景がうっすらと頭の中に浮かんできた。食べ物を用意するところとか、納屋で寝るところとか。
ウィキペディアに、アレクサンドル2世が読んで農奴制廃止を決意したと書いてあるが、農奴制を描いてはいるが批判的に描いているとまでは言えないように感じた。
ドストエフスキーやトルストイの作品を読んでいても主人と召使みたいな関係はよく出てくる。古い映画を見てもでてくる。子供の頃に読んだ童話にも出てくる。私はそういうものを読んでも昔はそういうことがあったのだなと思うだけで農奴制という悪しきしきたりなどとは感じなかった。
今では会社員が正規社員と非正規社員に分かれて、実質奴隷のような状態で働かされているのを見て、奴隷という存在は社会に必要なのではないかと思ったりする。
最初の一文。
「ボルホフ郡からジーズドラ郡へ渡ったことのあるものは、オリョール県の人たちとカルーガ県の人たちの気質に、際立った相違のあることにきっと驚いたことであろう。」
今回読み直してみて、あらためてここで戸惑う。
ボルホフ郡とオリョール県、ジーズドラ郡とカルーガ県の関係は?
普通「郡」は「県」の中にある。オリョール県とカルーガ県の県境にあるのがボルホフ郡とジーズドラ郡で、ボルホフ郡からジーズドラ県へ「渡る」(この言い方も現代日本ではわかりにくいが川を渡るのだろうか?)ということは、オリョール県を出てカルーガ県へ入るということなのか。
ウィキペディアで調べるとそのようである。
オリョール州ボルホフ市、カルーガ州ジズドラ市、川沿いにある市である。
どこで見たか読んだかわからないのだが、山本周五郎の青べか物語や季節のない街は、猟人日記に影響されたものだという話を聞いたことがある。