2012/12/26

イマヌエル・スエデンボルグ 「結婚愛」

やっと読み終わった。なかなかの難物だった。もちろん結婚について書かれているのであるが、それがあまりにキリスト教にとって重要なものであるため、単に結婚とはこういうものだ、こうあるべきだ、という話にはとどまらない。「真の結婚愛とは何か」ということなら、多くの人がだいたい理想は描けるのではないだろうか。一人の相手を一生愛しぬき浮気をしない。スエデンボルグの言っていることも、それと大差はない。彼は特にひどく厳しいことを言っているわけではない。ただし、男と女の本性のような話については、もしそれを現在の日本で出版あるいは放送したらクレームが殺到するだろう。

この書は、哲学書ではない。物語でもない。なんというジャンルなのか、選別に困るが、報告書のようなものだ。彼は生きながらにして霊界に行った男である。それも、行ったことがある、などというものではなく、確か何十年間もの間、霊界とこの世を行ったり来たりして、霊界で見聞きしたことを書物に記録したのである。

そんな話は彼以外に聞いたことがない。丹波哲郎くらいか。でも丹波氏の言っていることはスウェーデンボルグとそっくりだし、名前も引用しているのでおそらく彼の影響を受けているのだろう。


イマヌエル・カントは、スウェーデンボルグの「霊界日記」を読んで、「こんなのデタラメだ。でもいちおうスジは通ってるね」という旨のことを述べたらしい。

私も同様である。彼のいう霊界のありよう、そこにあらわれる様々な人々、天使、信じられないほど美しいという男女など、そして彼がスパスパと結婚の状態や妾のこと愛人のこと娼婦のことなどを「こうだ!」と断定していくところにも、同意しかねるところがたくさんある。だが、おおむね言っていることにはスジが通っている。なんとなく、自分でも抱いている『人はこうあるべきだ』というもの、「常識」とかいうものに極めて近い。ただ、非常に倫理的に厳格であって、ここに書かれていることを読んで、「私の生き方、結婚のあり方は正しい」と喜べる人がどれ程いるだろうか?ほとんどの人が途中で怒り出すか、恥ずかしくなって読むに耐えないのではないだろうか?


私が本書を読むのに3週間もかかってしまったのも、そのように読むに耐えなくなってしまったからである。少しずつ、読んでいった。


先日読んだ「不安の概念」で期待したのはいわゆる「失楽園」というのがどういうことなのかということだったのだが、それに触れられてはいたが、結局聖書に書かれていること以上のことは何も言われていなかったが、スウェーデンボルグは「真相」を書いている。

引用しよう。

「楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。(353)」

ただ、私はこの説にも満足はしていない。もっともらしいが、本当にそれだけだろうか?と思う。



私がこの本を買った時は確か20代だった。買った当時はパラパラと読んだだけではあったが、なんとなく脅威というか敬意のようなものを抱いていた。

その後、私はあまり人には自慢できないような生活を送ってきた。くわしくは書けないが「私は天国へ行ける!」と胸を張って言えるような生活ではなかった。


若い頃は、私は世の中を憎んでいた。自然を美しいと思わなかった。食事も空腹だから食べるだけで、微妙な味わいなどを気にしなかった。

歳をとるにつれて、花がきれいだなとか、夕焼けがきれいだなとか思うようになった。食べ物も、食べることそのものが楽しいというか、おいしいものを食べることが快感であると感じるようになった。それは別に悪いことではないが、私は「堕落」のように思えてならない。

先日聖書を通読したときも、「黙示録」を読んでも何も感じなかった。腹立たしささえ感じるほどであった。初めて読んだころは、よくわからないなりに何かを感じていた。それが、今ではまったく反応しない。平たく言えば、「霊的な感覚がわからなくなった」という感じだ。本書にも、古代の人々は表象を何かの表象として理解していたがその能力が失われて表象そのものを崇拝するようになり偶像崇拝が生まれたということが書かれている。


でも、そんなのは私だけではないだろう。今まで生きてきて、「霊界」などというものを信じている人なんかほとんどいなかった。そんなことは話題にすらならない。「神」も同様で、否定する人はたくさんいたが、「俺は神を信じている」と言った人は一人か二人くらいしかいない。

2012/12/19

森鴎外 「阿部一族」

「結婚愛」が難航している。

合間に読んだ。

これも殉死の話である。ある大名が死に、その家臣たちが殉死する。鷹まで井戸に飛び込む。「阿部」というのは、殉死を許されなかった男であるが、許されていないにもかかわらず殉死する。

言うまでもないことかもしれないが、殉死とは切腹である。これまた言うまでもないことかもしれないが、切腹とは腹を切り、その後介錯人によって刀で首を落とすことを言う。

ある人によると、江戸時代の切腹はほとんど形骸化していて、腹を切るのはほんのちょっと或いはあてるフリをするのみで事実上刀で首をはねることになっていたらしい。

想像するだけで身震いするようなことであるが、本作品ではどうしても殉死したい人たちが登場する。『死ぬのは嫌だがそういう風習があるから仕方なく死ぬ』というものではない。皆、『お願いですから死なせてください』と、生前に殿様にお願いする程である。

許可されなかったのに、いわば勝手に殉死した阿部については、やはり正当な殉死とみなされず、家督相続で差別的な待遇をうける。そして殿様の一周忌で阿部の息子が抗議と受け取れる「髻を切って供える」という事をし、後日縛り首にされる。残った阿部一族は篭城するが、討手が来て滅ぼされる。

この作品には、死ぬことの葛藤がほとんど見られない。みな、死を恐れないことを競い合うようにしている。殉死の場面もあっさりと描かれている。

現代の我々には、まったく理解できない世界である。わたしは時代劇とか時代小説というものをほとんど見たり読んだりしない。「殉死」など正気の沙汰ではないと思う。だが、現代でも日本では1年に3万人もの自殺者がいるという。走っている電車に飛び込んで死ぬ者さえいる。その死は「殉死」ではなく、自分で勝手に死んだ、いわゆる「犬死」がほとんどであろう。そもそも現代で「殉死」が讃えられることがない。

しかし、命こそ捨てないまでも、人生を会社にささげているような人はいる。身も心もぼろぼろにして会社に忠誠を誓っている人たちを、私はたくさん見てきた。そんなことは馬鹿げている、ただの金儲けじゃないか、と思っていた。その考えは今でも同じだ。

でも、人は自分自身が幸福であれば、衣食住が満たされていれば幸福なのか、と言われるとそうではないだろう。人間には「意地」というものがある。最近すっかりきかなくなった言葉であるが。「意地」のためには寝食も忘れるどころか、その欲望が消え去る。食べなくてもいいのではなく、食べたくなくなる。「意地でも食べない」と思う。そういう経験なら現代の我々にもあるだろう。

私は自殺者に対して、安易に弱虫だとか卑怯だとか、迷惑をかけるなどということはできない。彼らも恐怖や自分の幸福を捨てて、意地を貫いたのかもしれないからだ。

2012/12/17

Deep Purple "Perfect Strangers"

このアルバムは私が高校生の頃再結成したDeep Purpleのアルバムで、周囲の友人達が騒いでいたような記憶があるが、私はこのアルバムの記憶がほとんどない。

Deep Purple自体は、その頃友人達が絶賛していたので Machine Headは聴いていたが、フーンという程度であまり良さはわからなかった。

ただ、同じく絶賛されていた Led Zeppelinよりは親しみやすかった。

その後 Deep PurpleもLed Zeppelinもめぼしいアルバムはほとんど聴いた。

Deep PurpleはⅠ期が好きだ。特に無題の3rdアルバムが。


iPodでシャッフルにしていて、たまにDeep Purpleがかかって、お、いいな、と思うことはあるが、そんなに聴きこむようなことはなかった。



ところが最近、やはりiPodのシャッフル演奏で聴いた「Knocking at your back door」がすごくいいなと思えて何度か聴いているうちに、この曲が入っている「Perfect Strangers」を聴いてみたくなった。

そして何度か聴くうちに、「これは傑作じゃないか?」と思い始めた。

amazonのレビューなどを見るとやはり傑作とされているようだ。

やっぱり、Ⅱ期のメンバー、リッチー、イアン・ギラン、イアン・ペイス、ジョン・ロード、ロジャー・グローバーが一番いいのかな。


2012/12/05

イマヌエル・スエデンボルグ 「結婚愛」を読む

The Delights of Wisdom pertaining to Conjugial Love の翻訳
静思社  昭和41年初版、昭和56年四版 柳瀬芳意 訳
原文はラテン語 Delicioe Sapientioe de Amore Conjugiali 1768年にアムステルダムで出版

638ページ、1行48文字、1頁19行、58万1856字、原稿用紙にして1455枚

「戦争と平和」の1/3くらいである。かなり昔に買ったものである。10年以上前であるのは間違いない。「天界と地獄」も買ってあるが、両方、ほとんど読んでいない。「結婚愛」は、「天界と地獄」よりも厚い。知名度は低い。というか、この本について言及されているのを、読んだことも聞いたことも一度たりともない。

次に読むもの

「戦争と平和」は、読んでおきたいとは思ったが多分読めないだろうと思っていた本だった。よくおぼえているのは、浪人して予備校に通っていたとき、世界史の講師が「『戦争と平和』は読んでない、だって西村京太郎の方がおもしろいんだもん」と言っていたことだ。世界史を教える人ですら読んでいないものだから、読めなくても仕方がないか、と思っていた。


「魔の山」を読み、聖書を読んだ勢いで、もう読めないものなどない、と思って「戦争と平和」を読んだ。

長編とか、膨大な量のものを読むコツは、細部にこだわらないことだ。一行や二行、意味のわからない箇所があってもとまらずに読み進む。

さて、次は何を読もうか。

ずっと翻訳ものばかり読んできたので、純粋な日本語が読みたくなっている。「細雪」「暗夜行路」も、いつかは読まねばなるまいと思っている。

その前に、「阿部一族」を読んでおこうかと思っている。

でも、「戦争と平和」を読んでしまうと、「アンナ・カレーニナ」をどうしても読みたくなる。

想像だが、「アンナ・カレーニナ」は、おそらく公爵令嬢マリヤのような女性を主人公とした悲劇ではないだろうか。

ただトルストイの長編を続けるのはアレなので、やっぱり日本語の長編を読みたい。


2012/12/04

「戦争と平和」 (17) エピローグ 第二編

エピローグの第二編はすべて、トルストイの演説というか論説というか、歴史についてのムズカシイ話である。エピローグ第一編で「物語」は終わっていた。

このようなトルストイの論説文のようなものは、第三巻あたりからちょくちょくはさまれ、四巻ではだいぶ量が増えていたのだがいい足りなかったらしく、エピローグの一編を使って語られている。

彼は歴史の描き方に疑問を呈する。ほとんど、今まで書かれた歴史というものを全否定するかのような言い分である。特に、「偉人」とか「英雄」と呼ばれる人が歴史を先導して人々を動かしていったかのような歴史の叙述法を否定している。

それが、ナポレオンの描き方に現れている。ただ、彼はロシア人であるからロシア側からの視点で描かれているし、特に後半ではナポレオンに対する個人的な嫌悪感のようなものも混ざっているように感じた。

私は学校の授業で習うような歴史も、NHKの大河ドラマのようなものも、司馬遼太郎の小説などの「歴史もの」も、興味がなく、反感すら覚える。それはトルストイが言うような「いわゆる偉人に大きな意義を認めない」という立場に似ている。明治維新でも、秀吉の天下統一でも、第二次大戦でもなんでも、坂本竜馬だとか、ヒトラーだとか、スターリンだとか、チャーチル、ルーズベルトなどの一部の人間が将棋でもさす様に人々を動かし、大衆は何も知らずそれらのリーダーに導かれるままに生きていた、というような歴史の描写には疑問を抱く。


アンドレイ公爵とかニコライ・ロストフなどは架空の人物であるが、実際にそのような人々は存在しただろう。彼らは貴族で、裕福で教育もあって、優秀な人物も、ナポレオンなどよりよっぽど頭脳明晰で人格者な人間もいたであろう。それはあのときのロシアに限らず、日本だって、北朝鮮だってそうだろう。そういう人々ですら、歴史の記録には名前さえ出てこない。

「戦争と平和」では、一般的な歴史の叙述法をひっくり返したような描き方がされる。つまり、名も無き一兵士、一人の女、少年、などを中心に描かれ、ナポレオンはなんら特別の人間でもなく、噂ばかりが先行しているただの平凡な男にすぎない。

ただ、忘れそうになるがピエールは伯爵、アンドレイは公爵、ニコライ・ロストフも伯爵、現在の日本で4300万円相当の借金を親に肩代わりさせるような生活を送っている人々のことである。当時のロシアの公爵というものがどれほどのものなのかわからないが、「ごく平凡な一人の男」ではないだろう。


ところで、この作品は私が今まで読んだことのない「調和」、「平穏さ」を感じたのだが、それを実現させているのは「数学的」なものではないかと思った。それを思ったのは、「付録」のなかにある「はらの中で、アメリカへ行ったりすきな数学上の問題に移ったりできる」と書いているのを読んだときだ。作中にも、「歴史を微分する」というようなことがしばしば言われたり、父が娘のマリヤに数学の問題を解かせる、などというところもある。トルストイ自身がそういうことをしていたのではないだろうか?彼は数学が好きで得意だったのではないだろうか?それが彼の文体に調和を生み、明晰な印象を与えるのではないだろうか?


大作であったが、意外に読みやすかった。時間を測りながら読んでいたのだが約47.6時間かかった。

この作品中、もっとも魅力のある2人の人物、ニコライ・ロストフとマリヤは、トルストイの両親がモデルだというのを解説で知って、納得した。






「戦争と平和」 (16) エピローグ 第一編

ニコライとマリヤが無事結婚する。泣いてしまった。そしてピエールとナターシャも、幸せな家庭を築く。

さあ、最後、エピローグの第二編。

「戦争と平和」 (15) 第四巻 第四編

クトゥーゾフという、あまり評価されていない軍人をトルストイは誉める。ピエールがナターシャと再会する。ナターシャだとわからないくらいやせてしまっていたが、ピエールはナターシャに結婚を申し込む。しかしそれは直接ではなく、マリヤを介して伝えられる。そこで第四巻が終わり。

今度こそ平和が戻ってきて、ピエールのこころにも平穏が戻ってくる。

私は文学というのは人生、社会について懐疑や疑問を呈するものだと思っていた。そしてそういうものばかり読んできた。しかし戦争と平和は静かな調和した世界を提示している。

あとはエピローグを残すのみだ。ニコライはどうしたのか?マリヤと結婚するのか?

エピローグのある小説を読んで覚えているのは、「日本沈没」くらいだ。しかし、エピローグといっても二編あってけっこう長い。

「戦争と平和」 (14) 第四巻 第三編

フランス軍は退却しながら自滅していく。大きな戦闘はない。ピエールは捕虜として連れられていたがロシアのコザック軍に助けられる。プラトン・カタラーエフという善人の象徴のような男とであうが病気になって銃殺される。ニコライ・ロストフの弟にあたる、まだ少年といってもいいペーチャが、命令に背いて勝手に戦地に飛び出して頭に銃弾を受けて死んでしまう。

2012/12/03

「戦争と平和」 (13) 第四巻 第二編

フランス軍がモスクワから退却を始める。ロシア軍が反撃を開始したためである。なぜナポレオンの進撃がモスクワで停まったかについては、トルストイは明確な理由はないとしている。ナポレオンの判断のミスでもなく、彼が体調を崩したからでもなく、もっと大きな逆らうことのできない、運命とか、摂理とか、そういったものによるとしている。

今日の夕刊に、ナポレオンがモスクワを去るときに出したというクレムリンの爆破命令文が高額で落札されたという記事が載っていた。まさに、そのころのことである。

「戦争と平和」 (12) 第四巻 第一編

ピエールの妻エレンが急死する。エレンはただ美人だというだけでほとんど中身のない登場人物で、あっさり死んでしまった。そして、アンドレイ公爵も死ぬ。主人公はピエールであるというのが通説のようだが、私の感覚ではピエール、ニコライ、アンドレイの三人、あるいはマリヤを入れて四人が主人公だ。そしてこの中ではピエールはあまり人間的に魅力のない男である。私が気に入ったのは多血性のニコライ・ロストフである。アンドレイ公爵はボロジノ役の前に自分が死ぬのではないかという予感を抱き、その戦いで重傷を負う。婚約するも破棄されたナターシャに看病され、死の直前にはかけつけた妹のマリヤと子のニコールシカに会うことができたが、その時には彼の精神はすでに死人のようであった。

2012/12/02

「戦争と平和」 (11) 第三巻 第三編

モスクワがナポレオンの手中に落ちて、略奪や火災が起こり、人々が逃げ出す。ロストフ家も避難を始め、その途上で負傷したアンドレイ公爵と偶然出会う。ピエールはナポレオンを暗殺しようという考えを抱き始めるが、火災の中で子供を助けた後、放火犯の疑いでフランス軍に捕らえられる。

この作品は各編の最後に盛り上がるシーンがあって、退屈させない。計算ずくなのだろうか?