2024/04/09

大藪春彦 「野獣死すべし」(1958)

大藪春彦の名前は知っていた。主に角川映画の原作者として。でも映画も小説も、ほとんど内容を知らない。高校の同級生に大藪春彦の小説が好きだという男がいて、『俺は読んだことないなあ』と思ったがそれでも読まずにいた。

映画『TATTOOあり』を観て、銀行立てこもり事件を起こした男(こういう時に「犯人」と呼ぶのがどうもしっくりこない)が大藪春彦の小説が好きだったらしいと聞き、いったいどんな小説なのかと思って「野獣死すべし」を読んでみた。kindleで。

「野獣死すべし」と「野獣死すべし 復讐編」という2作品が収められているが最初の方だけ読んだ。

なんともつかみどころがないというか実感が湧かないというか。銃を撃ったり人を殺したりしたことはない。殴ったことも子供のころのケンカくらいしかない。戦争の経験も、人が殺されるのを見たことも、マンガや映画でしかない。大藪春彦はかなり壮絶な幼少期を送ったようだが、ここに描かれているのどこまでが実体験でどこまでが読んだ小説の影響でどこまでが想像、空想なのだろうかと思いながら読んでいた。自分の経験したことしか書けないとか言ったそうだが、本当だとしたらとんでもない犯罪者になってしまう。

中学生の時、平井和正のウルフガイシリーズというのがおもしろくて何作か読んだ。それと似たような世界を感じるが、もっと残酷で暗くて、不可解である。ウルフガイシリーズはSFのような、娯楽的なものだったが、大藪春彦の世界はそんなものではない。半分くらい読んでも感心したりなるほどと思うことすら全くと言っていいほどない。

でも、三島由紀夫は公言はしなかったが大藪春彦の愛読者であったとか、江戸川乱歩に絶賛されたとか、タダモノではないのだろう。

でも、私にはさっぱりわからない世界である.......

タイトルの「野獣死すべし」がよくわからなかったのだが、おそらく「人間とは言えないケダモノのような奴は生きる価値がないから死んでいい」みたいな意味だ。そして The Beast Must Die という小説があるそうなのだがそこからとったのではないか。

まあ、私に言わせればこの主人公こそ「野獣」だが....

1958(昭和33)年というのは思ったより昔の作品だった。
文体自体にはあまり違和感を感じないが、こういう文体が当時は斬新で皆がマネをしたから今私が読んでも違和感を感じなくなっているのかもしれない......

2024/04/08

TATTOO<刺青>あり (1982)

高橋伴明監督、宇崎竜童主演。

1979(昭和54)年におきた銀行立てこもり事件を題材としているが、事件そのものでなく事件にいたるまでの主人公を描いており、猟銃を持って銀行に乗り込むところまでは描かれているがその後立てこもり射殺されるまでは描かれていない。

この事件があった時私は小学生だったが、人質を裸にしたとか人質により人質の耳を切り落とさせたとか、最後射殺されたとか、報道された犯人のいでたちの異様さとか、ちょっと変わった名前とか、よく覚えている。

犯人(Aとする)の生い立ちなどについてはかなり詳しく判明しているようで、本も出ている。15歳の時に強盗殺人を犯したが少年であることから比較的短期間の服役で出所し20歳で観察処分を終えている。

水商売やヒモなどで生計を立てていたようだが極貧ということもなく、金遣いは荒いがそこそこの暮らしをしていたようだ。また、知性も教養もない欲望におもむくままに生きていた人間のようなイメージだったが、読書家であったり借金の返済には義理堅く几帳面だったりと、粗暴なだけの人間ではなかったようである。

銀行強盗を思い立ったのはカネに困ったということだけではなく、30歳までにデカいことをやってやるという意識もあったのだという。

どこまで本当だかわらないが、暴力団組長暗殺未遂を犯して惨殺されたBの愛人だった女がBの死後、Aの愛人となっていたのだという。

映画ではその女性をモデルとしたと思われる女性(関根恵子)が登場するが、一時愛人のような関係にはなるが、別れた後Bの女になっていて、その時にはその女はAに心はなかったという風に描かれている。

Bの事件が起きたのは1978年7月で、この立てこもり事件が起きたのは1979年1月である。

映画では、新聞か何かでAがBの事件を知り、それにも触発されたように思わせるシーンもある。

私はAの事件もBの事件も知っていたが、こんなに短い間に、ほとんど同時といっていいくらいに、起きていて、しかもその二人に共通の愛人がいたというのは驚きだった。

あと、関根恵子はこの映画を撮った後に高橋伴明と結婚していたというのも驚きだった。彼らが夫婦であることも夫が映画監督であることも知っていたが、この映画の縁だったとは。

それから、この映画が作られたのが1982年で「竜二」が1983年である。背景となる街並みや画質がいい感じに鮮明過ぎないところなどが竜二と似た雰囲気がある。竜二はこの映画に影響を受けているのでは?とさえ思った。まあ、これは「ATGっぽさ」なのかもしれないが、私はほかにATGの映画をほとんど知らないので何とも言えない。

2024/03/24

アンナ・カレーニナ(第一編)

ずっと読みたいと思っていたが、ようやく読み進められた。

とりあえず第一編を読んだ。

新潮文庫の木村浩訳を読んでいたのだが、出張で長時間移動があった時に読もうと思っていたが文庫本を持ってくるのを忘れ、駅の本屋で買おうと思ったがなかったのでKindle版の米川正夫訳を買って、それ以来そちらを読んでいる。

訳文にも良しあしやクセがあるだろうが、木村訳から米川訳に切り替わって違和感をおぼえることはほとんどなかった。

なんとなく、木村訳の方がよかったような気もするが、本当になんとなくだ。どうしてそう思ったのかというと、kindle版を読むようになって内容が頭に入ってきにくくなったからだ。第一編の終わりの方になって、なんでこんな事になったのか、トルストイはなんでこんな場面を描いているのかと感じ始めた。

私はロシア語は読めないが、聞いた話だがトルストイの文体というのはクセがなく平明であるらしい。なので、翻訳者が変わってもニュアンスが変わるようなことが少ないのではないかと思う。

米川正夫の翻訳は、ドストエフスキーで読んでいる。カラマーゾフは岩波文庫の米川正夫訳で読んだと思う。

さて、アンナ・カレーニナについてだが、これは「不倫」の話である。まず、ある男(オブロンスキー)の不倫により家庭が崩壊しかかっている話から始まる。が、オブロンスキーは主人公というほどの重要人物ではなく、題名となっている「アンナ」の兄であり、その他の重要人物の友人であったり知人であったりする、きっかけとなるような人物である。

普段はしないのだが、今回は本作の概要をウィキペディアなどでざっと調べた。それによると、この作品はアンナの不倫が中心となっているようである。冒頭で語られるオブロンスキーの不倫は、それにくらべたらまだ小さな、取るに足らないちょっとしたもめごとにすぎない。そもそもアンナは兄の不倫の話を聞いて兄の元に駆け付け、兄の妻と話をし、仲裁のようなことをする。しかし、そのアンナが不倫をし、自殺までしてしまうようなのだ。

オブロンスキーの不倫は深刻でない代わりにまったく感情や欲望に流されただけの不倫である。第一編ではまだアンナの「不倫」はそのきっかけのような部分しか語られていないが、たんなる欲望に流されただけのものでないだろうことは察せされる。

たくさんの登場人物がいること、長編であること、その描写が客観的で話の展開も自然で無理がないところなどは戦争と平和を読んだ時にも感じたのだがNHKテレビの「大河ドラマ」のようだと思うのだが、これも以前にも述べたが大河ドラマの方がトルストイをマネしているのだと思う。

トルストイはドストエフスキーと同時代の長編作家でありよく比較される。私の印象では、トルストイの方がまじめで常識的、ドストエフスキーは過激で激情家であり、トルストイは退屈、ドストエフスキーの方が刺激的でおもしろい、という感じで捉えられているように思うが、実際はトルストイもなかなかの過激な人物だと思う。

それは、クロイツェル・ソナタを読んだときに感じた。

トルストイも、放蕩におぼれたり金儲けに失敗したりという経験をしている。まあ作家になるような人間はだいたいろくでもない青年期を送っている場合が多い。しかしよく言われる「放蕩」って何をさすのだろう。


2024/01/04

ダーウィン「種の起源」

岩波文庫(Kindle版)

Charles Darwin
ON THE ORIGIN OF SPECIES BY MEANS OF NATURAL SELECTION OR THE PRESERVATION OF FAVOURED RACES IN THE STRUGGLE FOR LIFE (1859)

八杉龍一訳(1963~1971)


私は酔っぱらうと「進化論」を否定したくなる。ツイッターに書いたり、ブログに書いたり、喋って動画に撮ったりする。しかし、自分が撮った動画を見ていて、そもそも自分が否定している「進化論」が、本当に自分が思っているような考えなのか、確認せねばなるまいと思った。

最初の章を読み始めて、今まで読んだことのない文体だと感じた。翻訳文が、普通は漢字で書くところがひらがなになっている箇所が多いのに違和感を感じてなかなか読めなかった。最初に、栽培する植物は自然状態よりも変種が多い、みたいな話から始まった。なかなか自分が持っているイメージの進化論が語られないので、目次をざっと見て、最後の方にある第十四章「要約と結論」から読んだ。

そこに書かれていたのは、自分が思っていた、学校で教わったりした「進化論」の内容とほぼ同じだった。しかし、思っていたよりダーウィンの論調は穏やかというか緻密というか飛躍や暴論がなく、非常に多くの実例、根拠が示されていて、読んでいて疑問を感じたり反感を抱くことはほとんどなかった。

そして驚いたのが、私がよく思ったりしゃべったりする「進化論に対する疑問」というものが、ほとんどすべて、すでに想定されてそれに対する回答が示されていたことだ。十四章に続く「付録 自然選択説にむけられた種々の異論」においては、特にマイヴァートという動物学者の異論がたくさん紹介されていて、それらがほとんど自分が抱く疑問を網羅していた。

要約と結論、そして異論に対する回答を読んだ後、各章をざっと読み返した。ひとつわかったのは、ダーウィンの言う「進化」というのは、特に動植物が意図して特定の方向に変化していったのではなく、ほとんど偶然に発生した微細な差異が、その環境で生存し生き残るのにふさわしいものが自然によって「選択」され、長い年月を経てそれが蓄積して現在あるような姿になったということである。その「選択」はその生物にとって必要で有用であるものに対してだけでなく、不要で使用しなくなったものが「退化」することについても作用するのだった。

だがやはり、私は進化論に対して否定的な思いが強い。わたしには生物が今あるような姿になったのにはある「意志」のようなものが働いているとしか思えない。ダーウィンがしきりに言う「人間が栽培する植物において自然状態より変種が多く発生し交配によって変種が生まれていく」というのはまさに、生物の「進化」が外部の目的を持った意志のようなものの働きによって起こることを示しているように思えてならない。別に「創造」といっても、個々の生物をそれぞれ神が粘土をこねて箱庭に置くように造ったというわけではない。私は、ダーウィンの言う長い年月を経て繰り返される自然選択というものは、神が意図した創造が長い年月を経て完成した、ともいえるのではないかと思うのだ。

あらためて創世記も読み直してみた。そして気づいたのが、何度も繰り返される「種類に従って」創造されたという記述である。まるで、後に進化論が提唱されるのを予期して、そうではないのだとあらかじめ念を押しているかのように見えた。もしかして、進化論が発表されたあとに付け加えられた記述ではないかとさえ思ったが、King James Versionを読んでも

And God made the beast of the earth after his kind, and cattle after their kind, and every thing that creepeth upon the earth after his kind: and God saw that it was good.

というように、after his(their) kind と繰り返し書かれていた。


私だって子供のころに、いったんは「神が創造したなんて昔の無知な科学が未発達な時代の人々の誤った考えなのだ、天動説と同じように」と納得した。

しかし、ある時から私は進化論も、天動説も、絶対王政や貴族政治から民主主義になったことも、本当に正しかったのだろうかと、疑問を持つようになったのだ。

多様な生物が偶然あるいは環境に適応しようとして発生した変化が積み重なって自然にできあがったと考えるのが不思議で驚くべきことなのは、神が創造したと考えるのがそうであるのと同じくらいではないだろうか?