2024/03/24

アンナ・カレーニナ(第一編)

ずっと読みたいと思っていたが、ようやく読み進められた。

とりあえず第一編を読んだ。

新潮文庫の木村浩訳を読んでいたのだが、出張で長時間移動があった時に読もうと思っていたが文庫本を持ってくるのを忘れ、駅の本屋で買おうと思ったがなかったのでKindle版の米川正夫訳を買って、それ以来そちらを読んでいる。

訳文にも良しあしやクセがあるだろうが、木村訳から米川訳に切り替わって違和感をおぼえることはほとんどなかった。

なんとなく、木村訳の方がよかったような気もするが、本当になんとなくだ。どうしてそう思ったのかというと、kindle版を読むようになって内容が頭に入ってきにくくなったからだ。第一編の終わりの方になって、なんでこんな事になったのか、トルストイはなんでこんな場面を描いているのかと感じ始めた。

私はロシア語は読めないが、聞いた話だがトルストイの文体というのはクセがなく平明であるらしい。なので、翻訳者が変わってもニュアンスが変わるようなことが少ないのではないかと思う。

米川正夫の翻訳は、ドストエフスキーで読んでいる。カラマーゾフは岩波文庫の米川正夫訳で読んだと思う。

さて、アンナ・カレーニナについてだが、これは「不倫」の話である。まず、ある男(オブロンスキー)の不倫により家庭が崩壊しかかっている話から始まる。が、オブロンスキーは主人公というほどの重要人物ではなく、題名となっている「アンナ」の兄であり、その他の重要人物の友人であったり知人であったりする、きっかけとなるような人物である。

普段はしないのだが、今回は本作の概要をウィキペディアなどでざっと調べた。それによると、この作品はアンナの不倫が中心となっているようである。冒頭で語られるオブロンスキーの不倫は、それにくらべたらまだ小さな、取るに足らないちょっとしたもめごとにすぎない。そもそもアンナは兄の不倫の話を聞いて兄の元に駆け付け、兄の妻と話をし、仲裁のようなことをする。しかし、そのアンナが不倫をし、自殺までしてしまうようなのだ。

オブロンスキーの不倫は深刻でない代わりにまったく感情や欲望に流されただけの不倫である。第一編ではまだアンナの「不倫」はそのきっかけのような部分しか語られていないが、たんなる欲望に流されただけのものでないだろうことは察せされる。

たくさんの登場人物がいること、長編であること、その描写が客観的で話の展開も自然で無理がないところなどは戦争と平和を読んだ時にも感じたのだがNHKテレビの「大河ドラマ」のようだと思うのだが、これも以前にも述べたが大河ドラマの方がトルストイをマネしているのだと思う。

トルストイはドストエフスキーと同時代の長編作家でありよく比較される。私の印象では、トルストイの方がまじめで常識的、ドストエフスキーは過激で激情家であり、トルストイは退屈、ドストエフスキーの方が刺激的でおもしろい、という感じで捉えられているように思うが、実際はトルストイもなかなかの過激な人物だと思う。

それは、クロイツェル・ソナタを読んだときに感じた。

トルストイも、放蕩におぼれたり金儲けに失敗したりという経験をしている。まあ作家になるような人間はだいたいろくでもない青年期を送っている場合が多い。しかしよく言われる「放蕩」って何をさすのだろう。