2020/05/21

google翻訳で訳してみた  「あれか、これか」 3 

vexel-driften
約束手形操作

Forsøg til en social Klogskabslære.
社会的知識理論の試み。

(ここにアリストファネスのギリシア語の詩の引用が入るが省略)

At gaae ud fra en Grundsætning paastaae erfarne Folk skal være meget forstandigt;

経験豊富な人々の前提を想定することは非常に賢明でなければなりません。


jeg føier dem og gaaer ud fra den Grundsætning, at alle Mennesker ere kjedsommelige.

私はそれらを養って、すべての人々が退屈だと思います。


Eller skulde der være Nogen, der vilde være kjedsommelig nok til at sige mig imod heri?

それとも、これに対して私に言うのに十分退屈な誰かがいますか?


Denne Grundsætning har nu i allerhøieste Grad den frastødende Kraft, man altid fordrer hos det Negative, der egentlig er Bevægelses-Principet;

この原理は現在、最高の度合いで、ネガティブに常に要求される反発力を持っています。これは実際には運動の原理です。


den er ikke bløt frastødende men uendeligt afskrækkende, og Den, der har denne Grundsætning bagved sig, maa nødvendigviis have en uendelig Fart til at gjøre Opdagelser med.

それは柔らかく反発的ではないが、限りなく説得力があり、そしてこの原則を後ろに持っている彼は、発見するために必然的に無限の速度を持たなければならない。


Naar nemlig min Sætning er sand,

私の文が真実であるとき、


saa behøver man blot i samme Grad som man vil dæmpe eller fremskynde sin impetus,

次に、推進力を弱めたり加速させたりしたいのと同じ程度に、


mere eller mindre tempereret at overveie med sig selv, hvor fordærvelig Kjedsommelighed er for Mennesket,

多かれ少なかれ、退屈が人間にとってどれほど傷つきやすいかを自分自身で考えるように和らげられました、


og vil man næsten med Fare for Locomotivet drive Bevægelsens Hurtighed til det Høieste,

機関車の危険性がほとんどあるので、移動速度を最高にします


saa behøver man blot at sige til sig selv:

それからあなたは自分自身に言う必要があります:


Kjedsommelighed er en Rod til alt Ondt.

退屈はすべての悪の根です。


Det er besynderligt nok, at Kjedsommelighed, der selv er et saa roligt og adstadigt Væsen, kan have en saadan Kraft til at sætte i Bevægelse.

奇妙なことに、とても穏やかでのんびりした退屈は、そのような力を発揮することができます。


Det er en aldeles magisk Virkning, Kjedsommeligheden udøver, kun at denne Virkning ikke er tiltrækkende men frastødende.

それは退屈が及ぼす完全に魔法の効果であり、この効果は魅力的ではなく反発的であるだけです。

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基本的な語の英訳

jeg = I

ikke = not

en = one

er = be動詞

og = and

eller = or




2020/05/17

Συμπαρανεκρωμενοι 「あれか、これか」 2

いろいろ検索していたらついに「あれか、これか」のデンマーク語の原文を見つけた。

Google Playで 1076円で買えた。

デンマーク語なんかもちろん読めないが、今は瞬時に翻訳ができる。



これは「最も不幸な者」というタイトルの部分を翻訳してみたものである。

原文は「DEN ULYKKELIGSTE」であるが、選択して右クリックで翻訳すると「最悪」となる。

Συμπαρανεκρωμενοι というギリシア語のキーワードがある。

カタカナで書くと「シュムパラネクローメノイ」

キルケゴールの造語らしいが日本語にすると「ともに死んだ者たち」というような意味だそうである。

訳注に「ルキアノスとへブル書とプルータルコスにある類似の意味の語にならってこの語を作った」とある。

であれば、その類似の語とは何か知りたくなる。

iPhoneのyouversionという聖書アプリを持っているが、このアプリは聖書を各国語で読める。

ざっと見て「死者」と関係ありそうな語をギリシア語で確認してみたが下記に「νεκρωμένον」という語が見つかった。

「Γι’ αυτό, και από έναν, μάλιστα νεκρωμένον, γεννήθηκαν σαν τα αστέρια τού ουρανού κατά το πλήθος, σαν την άμμο που είναι κοντά στην άκρη τής θάλασσας, η οποία δεν μπορεί να απαριθμηθεί.」
ΠΡΟΣ ΕΒΡΑΙΟΥΣ 11:12 FPB

「このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生まれてきたのである。」
(1955年 口語訳)


ギリシア語といってもキルケゴールが読んでいた聖書のギリシア語は現代ギリシア語とは違うかもしれない。

「ネクロ」というのが死者の意味だというのは聞いたことがある。

ネクロマンサーとか、ゲームのキャラクターでネクロとか見たことがある。

「συμπαρα」は「ともに」というような意味の副詞らしい。

(参考)

あとは「μενοι」
「μένοι」だと「滞在」という意味で
「μενοι」だと「メニュー」という意味らしいが、
なんか動詞の活用語尾っぽい感じもする。


「古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反射
ー断片的詩論ー」
に、「シュムパラネクローメノイに対する講演」と書いてあって、

「シュムパラネクローメノイ」達に語り掛ける形式となっており、
ときどき「シュムパラネクローメノイ諸君」と、呼びかけるところがある。

そして第一部上巻の最後は「最も不幸な者」は彼らへの熱狂的挨拶ということになっている。

この語は以下のように複数の綴りで書かれている

Συμπαρανεχρωμενοι
συμπαρανεκρωμεvot
Συμπαηανεκρωμενοι

編集時の誤植なのか本人の間違いなのか意図したものなのかは不明。

「あれかこれか」の後半は、前半で書いたものに自分自身で批判するような内容となっているらしい。楽しみだ。

まだ前半の半分だけど。

キェルケゴールは母国語以外にドイツ語、ラテン語、ギリシア語、イタリア語くらいは読めたようだ。

多分ラテン語とギリシア語は神学を学ぶ者には必修だったのではないだろうか。

ドイツ語は日本人にとっての英語以上、たぶん第2公用語くらいの位置付け、大学では必須というかドイツ語の講義とかもたくさんあったのでは。

そして、モーツァルトはイタリア語を読み書きできたらしく、イタリア語で書いた手紙も残っているそうだ。
ドン・ジョバンニの台本はイタリア人の作家が書いたそうだが、イタリア語がわからなければ、曲は付けられないだろう。

2020/05/09

「あれか、これか」

白水社のキルケゴールの著作中の最初の4冊である。

キルケゴールは正確には「キェルケゴール」というべきだと思うのだが、

実際私が若いころノートに書いていたときは常に「キェルケゴール」と書いていたのだが、めんどくさいし、所詮カタカナ読みだし、キルケゴールと書くのが一般的なようだし、そもそも「著作集」自体「キルケゴール」としている。

この白水社のキルケゴール著作集は何かにつけ見かける本で、父の本棚にも何冊かあったし、図書館で手に取って開いてみたり、借りたこともあったと思う。

しかし、まともに読めたためしがない。

キルケゴールについては岩波文庫の「死に至る病」を高校生のとき古本屋で手に入れなんだかわからないところはありながらも何か興奮を覚えつつ読んで、自分の中ではキルケゴールは友達のような存在にしていた。

なぜ私がキルケゴールに、「死に至る病」に感動したのか。

それは多分、他の哲学者たちがほとんど神を、キリスト教を否定しているあるいは否定しようとやっきになっているのに対し、彼はそれに立ち向かうように、神を弁護しているようで、しかもそれが職務であるかのようにふるまっているところだったのだと思う。

私の読んだ翻訳の文章がどれだけ原文のニュアンスを伝えているかわからないが、彼の文章は私が知っている神を弁護する人たちのような柔らかいものではなかった。

神について語ることは子供向けのおとぎ話のような語り方でなくてもできるのだと初めて知ったのだった。


「あれか、これか」は実質デビュー作のようなもので、彼について書かれているものを読むとだいたい代表作として挙げられている。

なんどか読もうとして読めなかったのであるが、今度はたとえわからなくても読み通してみるという覚悟で臨むことにした。

第一部上、第一部下、第二部上、第二部下とあり、
さらにそれぞれにはほとんど独立した複数の文章が含まれている。

まだ第一部の上も読み終えていない。

第一部の上では、モーツァルトの「ドン・ジュアン(ドン・ジョバンニ)」について頻繁に言及されており、途中はほとんど「ドン・ジョバンニ論」といってよいような内容となっている。

なぜ、「ドン・ジョバンニ」なのか。なぜバッハのマタイ受難曲ではなかったのか。ヘンデルのメサイアではなかったのか。なぜ女たらしの罰当たりの人間の物語に注目したのか。そしてなぜモリエールの戯曲のドンジュアンではなくモーツァルトのオペラの「ドン・ジョバンニ」なのか。

そして「あれか、これか」とはどういう意味か。

「Aを選択するならBは捨てなければならずどっちも取るなんて許されない」という意味か。

「享楽的に生きるか、求道的に生きるか」なんて意味ではまさかないだろう。


それにしてもよくわからない文章だ。
よくわからないところがたくさんあるというより、時々意味が分かるところがちらほら見つかる、という感じだ。

難解であったり前提知識が足りないとかもあるのだろうが、さすがにこれは、翻訳に問題があるのではと疑わざるを得ない。

これはドイツ語訳をデンマーク語の原文を参照しながら翻訳したものだと書いてあった。
ドイツ語訳を参照しながらデンマーク語を訳したのではない。

あまりの意味のわからなさに、「何でこんなにわからないのだろうか」と逆に不思議になった。

もしかしてわざとわからないように書いているのか。

もしかして訳者はもちろんキルケゴール本人もわかっていないのではないか。

これがヘーゲル哲学なのか。わからないようにわからないように書くのがヘーゲル流なのか?

言葉の通常の意味を裏切るように疑ってかかり言葉では表せないものを表そうとしているのだろうか?