2020/07/26

パイドン

岩波文庫

プラトン著
岩田靖夫訳

1998年2月16日 第1刷発行
2019年8月6日 第25刷発行

「ー 魂の不死について ー」という副題がついている。

岩波文庫のプラトンの作品は若いころからちょこちょこ読んでいて、
国家、饗宴、ソクラテスの弁明、プロタゴラス、メノン、ゴルギアス、などを
読んでいるはずだ。


最近、人間は死ぬとどうなるのか、いわゆる霊魂不滅ということはどういうことなのか、といったことを考えたことがあって、霊魂不滅といえばソクラテスが語っていたのを前に読んだよな....

と思い、どれだっけなあと岩波文庫の本棚の前で探していたら「パイドン」が見つかった。副題にも書いてあるし、表紙にある概要みたいなのにもそのものずばりが書いてあった。

これだこれだ、と思い、開いてぱらぱらと見てみたが、内容についてはよく覚えていなかったので、まあ、もう一回読むか、と買って帰った。


ちょっと回りくどい前置きがあって本編が始まるのだが、その前置きを読んでいて、この霊魂不滅についての議論(というか主張)は、ソクラテスが刑死するその日になされたものであるということを知った。

自分がまさに死ぬという日に、しかも裁判でおそらく不当な判決により自ら毒を飲んで死ななければならないというその日に、霊魂が不滅であると、肉体が死んでも魂は永遠に生きる、という話をしたのを、そのまま受け取ってよいものだろうか?と思った。

霊魂がどんなもので、人は死ぬとどうなり、霊魂が不滅であることはどうやって証明できるかということについて、詳しく吟味することはしない。

私がよく覚えていなかったのも無理はなく、その話はどこかで聞かされたような、もはや陳腐とさえ言えるものだった。

私は最近自分で考えて、「霊魂が不滅」というのは、白っぽい透明なもやもやした「たましい」みたいなものが存在していて、それが体からスーッと抜け出て、天国あるいは地獄へ行くというようなことではなく、もっと比喩的な話なのではないか、と思ったのだ。

だが、ソクラテスの考えは比喩的なものなどではなく、霊魂というものは目には見えないが確実に存在しておりそれは肉体が滅んでも冥界(ハデス)で存在し続けるというものだった。
だから、死ぬことは怖くないしむしろ喜びであるとまで言うのだ。

子供のころは、なんとなくそういう話を信じていた。
信じていたというか、そんな話は吟味して本当なのかと考えることすらなかった。

やがて学校で勉強をし読書をし、知識と経験が増えていくにつれて、
人はそのようなことは忘れるか、バカバカしいと信じなくなるだろう。

だが私は、20代になるころに、なぜかそういう素朴な死生観があらためて真実だと思った時期があった。

シニカルで既成概念を否定するのがカッコいいというような周囲の姿勢にウンザリしていて、天真爛漫で無邪気な考えをするようになっていた。

だが、その後年月がすぎ、自分が知っている人が死んでいった。身近なところでは父の死を経験した。

そして、どんな人でも、その魂が死後も存在し続けているのを実感することはなかった。

自分が実感できないからというだけで存在を否定することはできないが、
どう考えても霊魂というものがどこかに存在しているなどとは思えないのだった。

だから、ソクラテスが語った霊魂とかハデスとかいうことも何かの比喩なのではないかと思ったのだ。

科学技術が未発達な時代の無知な人々の考えたことだ、などというつもりは全くない。

でも、どこまでがソクラテス自身の言葉なのかはわからない。

実は、もっと軽いノリで、これから死刑になる男が周囲の弟子たちに向かって、「心配すんなよ、俺の魂はハデスで永遠に生きるんだから、ガッハッハ!」
といって、弟子たちは「そうですよね、ソクラテス、死ぬことは悲しいことじゃないですよね」

と、漫才のようにボケと突っ込みを応酬しあって「やかましいわ」「もうええわ」と言いながらお互い涙を流していた、

なんてことだったりしないだろうか....

2020/07/23

クサンティッペ

「あれか、これか」の第二部上巻を読んでいる。

第二部は、第一部を書いたものに対する書簡という形式になっている。

第一部は読むのが苦痛だったのだが、第二部は私が求めていたキルケゴールの言葉が語られているように感じる。

ただ、やっぱりその中で自分の心や感覚に触れるところはほんの少しでしかない。


ちょっといいなと思った箇所があったので、google playで買った原文にコメントを付けようと思い、その個所を探すためにその近辺の目印になる語がないかと探すと、

クサンティッペ

という語があった。

googleで検索すると、ギリシア語だが、英語では xanthippe というつづりだとわかったので、

google playで検索したがヒットしなかった。

しかたなく、ザーッとページをめくって翻訳を表示しながらその個所を探していった。

そして、クサンティッペは "xantippe" とつづられていた。


そもそも、コメントを付けようと思ったのはクサンティッペについて語られたことではなかったのだが、「クサンティッペって何だろう?」と思い調べると、ソクラテスの妻の名前で、「悪妻」の代名詞として使われていることを知った。



2020/07/07

ランボー ラスト・ブラッド

youtubeとかtwitterで、何人かの人がいいと言っていたので観に行った。

ランボーは1と3を観た。

だいぶ前に、このブログで、ランボーはちょっと、みたいなことを書いたことがある。

そんなことは忘れて観に行った。


自分のではないが、孫のような少女がメキシコの悪党にさらわれて薬漬けにされ売春婦にされたことに対し怒って.... という話であることくらいを聞いた。


ベトナム戦争とかアフガンとかにくらべるとちょっとスケールが小さいというか、
プライベート的というか、そんなストーリーだ。


ストーリーは上に書いたものほぼそのままで、疑問を感じたりすることはほとんどなかった。

ただ、冒頭の、馬に乗って救助隊みたいなことをしているのが、ジョン・ランボーなのか、

今のというか、最近の話なのか、祖先の話なのか、などがちょっとわからなかった。


表札とか、墓碑とかに「R・Rambo」というのがちらほらでてきた。

「ランボーの名前ってジョン・ランボーだったよな....」


ロッキーやクリードでは、ちょっと気取ったところがあるのが鼻につくところがあるのだが、ランボーは武骨で、イッてるやつなのは気持ちよいところだ。

しかし、ランボーは病んでてイッてる奴だというのがわかってるから本作は受け止められたが、

ランボーを知らない若者などが見たら、単にメキシコのならず者に憤った正義感の強い屈強な老人の話ととらえられかねない。

観た直後はくだらねぇなと思ったのだが、

シンプルで飾りやひねりがなくて、いい映画だったかなと、今は感じる。