2023/10/10

PULP FICTION

1994年、クエンティン・タランティーノ監督・脚本。出演もしている。

当時非常に話題になった。劇場にはいかなかったが、DVDを借りて(もしかしてまだVHSテープだったかも)観た。話題になっているほどいい映画だとは思わなかったような覚えがある。

今回は最初Amazonプライムで見ようとしたのだが視聴期間の制限などがわずらわしいのでBluerayディスクを買った。

今回見返してみて、ややトリッキーであるのと、残酷なシーングロテスクなシーン薬物使用などのシーンが露骨すぎるのが気になりそれは初めて見た時も感じたことだったな、と思った。

特にコカインかヘロインか知らないが、女がオーバードーズして死にかけるシーンなどはただショッキングなだけでそこになんの感動もない。

主人公といえるような人物が何人か登場するが、やっぱりヴィンセント、ジョン・トラボルタがいいと思った。

サタデーナイトフィーバーで有名になった時からは風体もかわり、2枚目のいい男という感じではなくなっていたが、やっぱり話し方や表情は2枚目だった。


ジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が引用するエゼキエル25章17節については、私は読んだはずだがそんなところあったっけと記憶にもないし言ってること自体よく理解できなかったのだが、調べたらほぼでたらめの内容だった。


映画のセリフではなく、聖書の本来の内容を引用する。(25-15~17)


15主なる神はこう言われる、ペリシテびとは恨みをふくんで行動し、心に悪意をもってあだを返し、深い敵意をもって、滅ぼすことをした。 16それゆえ、主なる神はこう言われる、見よ、わたしは手をペリシテびとの上に伸べ、ケレテびとを断ち、海べの残りの者を滅ぼす。 17わたしは怒りに満ちた懲罰をもって、大いなる復讐を彼らになす。わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。


最初は、特定の民族の名前が入っているから翻訳ではぼかしたのかと思ったがそんなレベルではない。そして、このセリフはタランティーノが好きな千葉真一出演の映画からの引用だそうである。

最後にジュールスがファミレス強盗をしようとした奴にこの句にからめて説教のようなことを言うのだが、その意味が私にはよくわからない。悪いことから足を洗いたいといいたいのか、自分のやっていることは犯罪だが自分なりに信念を持っている、みたいなことなのか、どちらでもないように思う。


ヴィンセントが麻薬を買うシーンは、タクシー・ドライバーでトラビスが銃を買うシーンのパロディーじゃないだろうか?カメラアングル、セリフ等、同じようだった覚えがある。

ブッチ(ブルース・ウィリス)の出てくる話と、ヴィンセントたちの出てくる話のつながりというか、二つの話を並べた必然性というようなものもしっくりこない。

言ってみれば支離滅裂でストーリーや登場人物の行動とか倫理とかそういうものをあえて軽んじた形式を見せる映画なんだろうけど。



2023/09/25

死ぬまでに読んでおきたいもの

アンナ・カレーニナ

東海道五十三次

ドン・キホーテ

精神現象学


一度読んではいるがもう一度読み直してみたいもの

白鯨

カラマーゾフの兄弟


白鯨はできれば原文を全部読んでみたい。


あと、ランボーとヴァレリーの詩を原文で読んでみたい。

ボードレールも。



2023/09/11

読書しながら別のことを考えてしまう件

私はよくある。というか、ほぼ100%そうなる。

仕事で必要な資料を読む時などにはならないのだが、趣味というか余暇というか、特に必要のない小説を読むときにそうなる。

自分で好きで読んでいるのになんでそれに没頭できず余計なことを考えてしまうのか。そして、別のことを考えているのになぜ読み続けているのか。これが不思議なことである。間違いなく私はその本を読んで文字を追いページをめくってもいる。しかし頭の中では別のことを考えている。自分が過去に経験したこととか、誰かに言われた言葉を反芻してその真意を考えてみたり、その言葉によって感情を刺激されて怒ったり滅入ったり恥ずかしくなったりさえする。それは読んでいる小説そのものではないのだが間違いなくその小説を読むことによって生じる現象である。

そういう人がいないかなと思ってWEBで検索してみるとけっこういるようだが、そのことに対して否定的なコメントがついており、「どうすれば読書中に余計なことを考えないようにできるか」みたいなことを書いている人もいる。

集中力がないのだとか、読書する環境が悪いのだとか、いろいろ言われている。

私は読書中に別のことを考えながら文字だけ追っている、という状態も全く意味がないこともないように思っている。先ほど書いたように、その状態は間違いなく読書することによって起きている現象であり、何もしないで椅子に座っていたりベッドに横たわっているときに何かを思い出しているのとはまた異なる状態である。

こうなってしまうのは性格や意志の問題と考えてもどうにもならない。もっと明確な理由がある。それは単純に、読んでいる言葉の意味が分からないからだ。小説を読むときに皆さんはわからない言葉があったら辞書を引くだろうか?私は引かない。読めない漢字があってもとばして読み進む。地名や人名などの固有名詞が出てきたときにそれについて調べることもしない。それでも読める本はあるが、時代や地理が自分のすごしているのと異なる場合、つまり海外の古典文学を読む場合などに、それが積み重なっていくと曖昧な概念で頭がいっぱいになり、作者が意図したイメージと読み手である私の持つイメージが全く異なるものとなり、いつしか字面を追うものの内容が把握できなくなり、気づいた時にはその情景がどこなのかこのセリフを語っているのが誰なのかどうしてそのような事態になっているのかなどがわからなくなっている。

あと、私は注釈がついていてもまず読まない。面倒くさいから。でも、読めない本については注釈も読んだ方がよい。注釈がついているのはだいたい翻訳もので訳者注のことが多い。私は訳者注について、その注釈の内容に疑問を感じることも多い。要は、あまり信用していない。ときどき、作者がなぜこんなことを書いたのかという意図まで説明していることがあるが余計なことを書くなと思う。しかし「読めない」場合は注釈に目を通した方がよい。

前に戻って読み直して理解できることもあるが、少し戻ってもわからない、あまりにわからないことが多すぎて読む気がうせてしまう。

こうならないようにするには、読書しながらノートをとるとよい。登場人物の名を書いておく。どの人物が重要なのかはわからないので、すべての人物について記録する。

印象に残った文章は書き写す。わからない言葉読めない言葉は辞書を引く。固有名詞も「そういう名前の何か」ですませず、調べる。今はインターネットがあるから、地名とか外国の固有の料理の名前とか人名とか、すぐに情報が手に入る。

こういうと、「長編小説を読むのにそんなことをいちいちしていられない」と思うだろう。

しかし、不思議なことにこのノートを付けることは、小説を読み進めていくうちにだんだん少なくなっていき、そのうちノートを付けなくても、不明な言葉を辞書で引かなくても読めるようになる。

私はトーマス・マンの「魔の山」とトルストイの「戦争と平和」を読むときにこの方法をとったのだが、どちらも途中でノートを付けることはほとんどなくなった。ただ、両方とも長いので、読んだ章の数字と、その章で何があった、だれが出てきた、程度はメモしていた。

 

読書しながら本に線を引いたり書き込みをしたりするのも、上の空になるのを防げるかもしれない。だが、私は本に線を引くことはまずない。やってみたこともあるが、線を引き始めるとやたらめったら引くことになり、また、線を引くと引いただけで読んだ気になってしまいかえって内容把握がおろそかになってしまうような気がする。

また、線を引くことの意味が、「感動した」「なるほど」「うまいことをいう」「意味がわからない」など多様になり、それについて色を変えたり波線にしたり点線にしたり、といったことをするのも、面倒だし、文章のリズムというのか、雰囲気というのか、そういうものが崩れてしまうような気がしてならない。


私は読書するときは、上の空になってもそのまま読み続けることにしている。完全に文章を理解できなくても、とりあえず読み進める。一言一句理解しないと読み進めないというような態度でいたら子供向けの童話や家電製品の説明書くらいしか読めない。

むしろ、自分が理解できない文章を自分の中に取り込んでいくことこそが読書のだいご味なのではないか。

そもそも、小説なんてある人が頭の中で作り上げたものである。もちろん、調査したり推敲したり、編集者などの校正を経たりしてはいるのだろうが、それだって人のしたことである。間違いもあるかもしれないし、話の進め方に無理があったり、説明不足があったり、作者の思い込みを読者に押し付けている場合もあるだろう。翻訳の場合はさらに翻訳がが作者の意図を取り違えていることがありうる。だから、わからないことがあってもあまり気にせず読み進めるべきだ。


2023/09/10

堀辰雄「風立ちぬ」

10年前に読んだという記事がこのブログにある。

自分でも「風立ちぬ」は読んだという記憶はあったのだが、どんな話だったか、どんな文体だったか、堀辰雄はどんな作家なのか、ということが全くと言っていいほど残っていないことに気づき、もう一度読んだ。

新潮文庫 平成25年118刷

110ページくらい。

堀辰雄は1904(明治37)年生まれ、1953(昭和28)年没

風立ちぬはサナトリウムが舞台で女性が病気で亡くなってしまう話である。
女性というのは恋人のような存在であり入院に付き添い父親とも対面するほどの仲である。
この話は事実に基づいていて、年譜を見ると婚約者であったらしい。
作中では付添人であるかのように描かれているが、この時堀自身も病気で二人で療養していたそうだ。

女性は亡くなるのだが、亡くなる描写はない。
症状が悪化して絶望的な状況になってきたことが描写されるところでいったん場面は転換し、
転換した後はすでに彼女が亡くなった後の日記形式である。

自分の婚約者が亡くなったという事実に基づいていてまだ30代前半であったばかりのことを書いているから無理もないが、非常に主観の強い、自分と女だけが隔絶されたような世界が描かれている。

一人称で語られたり日記形式だったりするものはよくある。ウェルテルなんかもそうだ。それにしても風立ちぬは主観が強く独善的とさえ感じた。

ちなみに歌謡曲やアニメのタイトルにもなっている「風立ちぬ」であるが、ポールヴァレリーの詩が出典である。

冒頭に原文が引用される。

  Le vent se lève, il faut tenter de vivre
  PAUL VALÉRY

そして作中は訳文で引用される

 風立ちぬ、いざ生きめやも。


「生きめやも」ってどういう意味?フランス語より不明。


(推量の助動詞「む」の已然形「め」に反語の意を表わす係助詞「や」、
詠嘆を表わす係助詞「も」の付いたもの) 「めや」の反語の意に詠嘆の意が加わったもの。
…することがあろうか、いやそんなことはない。どうして…でなどあろうか。

※万葉(8C後)一・二一「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾れ恋ひ目八方(めやも)」
※古今(905‐914)恋一・五一二「たねしあれば岩にも松はおひにけり恋をし恋ひばあはざらめやも〈よみ人しらず〉」




これはどうやら誤訳のようで、本来の意味は「生きようとしなければならない」という生に対して肯定的な意味であり、堀辰雄の訳では「生きられようか(できない)」という否定的な意味になるそうである。


もしかしたら意図して本来の意味と違うように訳したのかもしれない。
もしくは、あまりに絶望していたので生きるべきというところを生きられない、と読んでしまったのか。

私も洋楽の歌詞などを自分の独特の解釈で「誤解」してしまうことはよくある。


ついでなので原文をコピーしておく。
残念ながら原文は理解不能、訳文を読んでもよくわからない。


LE CIMETIÈRE MARIN

Μή, φίλα ψυχά, βίον ἀθάνατον σπεῦδε, τὰν δ’ ἔμπρακτον ἄντλεῖ μαχανάν.
PindarePythiques, III.


Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes ;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée !
Ô récompense après une pensée
Qu’un long regard sur le calme des dieux !

Quel pur travail de fins éclairs consume
Maint diamant d’imperceptible écume,
Et quelle paix semble se concevoir !
Quand sur l’abîme un soleil se repose,
Ouvrages purs d’une éternelle cause,
Le Temps scintille et le Songe est savoir.

Stable trésor, temple simple à Minerve,
Masse de calme, et visible réserve,

Eau sourcilleuse, Œil qui gardes en toi
Tant de sommeil sous un voile de flamme,
Ô mon silence !… Édifice dans l’âme,
Mais comble d’or aux mille tuiles, Toit !

Temple du Temps, qu’un seul soupir résume,
À ce point pur je monte et m’accoutume,
Tout entouré de mon regard marin ;
Et comme aux dieux mon offrande suprême,
La scintillation sereine sème
Sur l’altitude un dédain souverain.

Comme le fruit se fond en jouissance,
Comme en délice il change son absence
Dans une bouche où sa forme se meurt,
Je hume ici ma future fumée,
Et le ciel chante à l’âme consumée
Le changement des rives en rumeur.

Beau ciel, vrai ciel, regarde-moi qui change !
Après tant d’orgueil, après tant d’étrange
Oisiveté, mais pleine de pouvoir,
Je m’abandonne à ce brillant espace,
Sur les maisons des morts mon ombre passe
Qui m’apprivoise à son frêle mouvoir.


L’âme exposée aux torches du solstice,
Je te soutiens, admirable justice
De la lumière aux armes sans pitié !
Je te rends pure à ta place première :
Regarde-toi !… Mais rendre la lumière
Suppose d’ombre une morne moitié.

Ô pour moi seul, à moi seul, en moi-même,
Auprès d’un cœur, aux sources du poème,
Entre le vide et l’événement pur,
J’attends l’écho de ma grandeur interne,
Amère, sombre, et sonore citerne,
Sonnant dans l’âme un creux toujours futur !

Sais-tu, fausse captive des feuillages,
Golfe mangeur de ces maigres grillages,
Sur mes yeux clos, secrets éblouissants,
Quel corps me traîne à sa fin paresseuse,
Quel front l’attire à cette terre osseuse ?
Une étincelle y pense à mes absents.

Fermé, sacré, plein d’un feu sans matière,
Fragment terrestre offert à la lumière,
Ce lieu me plaît, dominé de flambeaux,
Composé d’or, de pierre et d’arbres sombres,

Où tant de marbre est tremblant sur tant d’ombres ;
La mer fidèle y dort sur mes tombeaux !

Chienne splendide, écarte l’idolâtre !
Quand, solitaire au sourire de pâtre,
Je pais longtemps, moutons mystérieux,
Le blanc troupeau de mes tranquilles tombes,
Éloignes-en les prudentes colombes,
Les songes vains, les anges curieux !

Ici venu, l’avenir est paresse.
L’insecte net gratte la sécheresse ;
Tout est brûlé, défait, reçu dans l’air
À je ne sais quelle sévère essence…
La vie est vaste, étant ivre d’absence,
Et l’amertume est douce, et l’esprit clair.

Les morts cachés sont bien dans cette terre
Qui les réchauffe et sèche leur mystère.
Midi là-haut, Midi sans mouvement
En soi se pense et convient à soi-même…
Tête complète et parfait diadème,
Je suis en toi le secret changement.

Tu n’as que moi pour contenir tes craintes !

Mes repentirs, mes doutes, mes contraintes
Sont le défaut de ton grand diamant…
Mais dans leur nuit toute lourde de marbres,
Un peuple vague aux racines des arbres
A pris déjà ton parti lentement.

Ils ont fondu dans une absence épaisse,
L’argile rouge a bu la blanche espèce,
Le don de vivre a passé dans les fleurs !
Où sont des morts les phrases familières,
L’art personnel, les âmes singulières ?
La larve file où se formaient des pleurs.

Les cris aigus des filles chatouillées,
Les yeux, les dents, les paupières mouillées,
Le sein charmant qui joue avec le feu,
Le sang qui brille aux lèvres qui se rendent,
Les derniers dons, les doigts qui les défendent,
Tout va sous terre et rentre dans le jeu !

Et vous, grande âme, espérez-vous un songe
Qui n’aura plus ces couleurs de mensonge
Qu’aux yeux de chair l’onde et l’or font ici ?
Chanterez-vous quand serez vaporeuse ?
Allez ! Tout fuit ! Ma présence est poreuse,

La sainte impatience meurt aussi !

Maigre immortalité noire et dorée,
Consolatrice affreusement laurée,
Qui de la mort fait un sein maternel,
Le beau mensonge et la pieuse ruse !
Qui ne connaît, et qui ne les refuse,
Ce crâne vide et ce rire éternel !

Pères profonds, têtes inhabitées,
Qui sous le poids de tant de pelletées,
Êtes la terre et confondez nos pas,
Le vrai rongeur, le ver irréfutable
N’est point pour vous qui dormez sous la table,
Il vit de vie, il ne me quitte pas !

Amour, peut-être, ou de moi-même haine ?
Sa dent secrète est de moi si prochaine
Que tous les noms lui peuvent convenir !
Qu’importe ! Il voit, il veut, il songe, il touche !
Ma chair lui plaît, et jusque sur ma couche,
À ce vivant je vis d’appartenir !

Zénon ! Cruel Zénon ! Zénon d’Élée !
M’as-tu percé de cette flèche ailée

Qui vibre, vole, et qui ne vole pas !
Le son m’enfante et la flèche me tue !
Ah ! le soleil… Quelle ombre de tortue
Pour l’âme, Achille immobile à grands pas !

Non, non !… Debout ! Dans l’ère successive !
Brisez, mon corps, cette forme pensive !
Buvez, mon sein, la naissance du vent !
Une fraîcheur, de la mer exhalée,
Me rend mon âme… Ô puissance salée !
Courons à l’onde en rejaillir vivant !

Oui ! Grande mer de délires douée,
Peau de panthère et chlamyde trouée
De mille et mille idoles du soleil,
Hydre absolue, ivre de ta chair bleue,
Qui te remords l’étincelante queue
Dans un tumulte au silence pareil,

Le vent se lève !… Il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues ! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !



2023/08/09

宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」

小学校6年生の頃、近所の図書館で宮沢賢治全集を借りて全部読んだ。大人になってからも宮沢賢治の作品は思い出したように読んでいる。私にとって宮沢賢治はただの作家でも童話作者でも詩人でもない、特別な存在である。

「銀河鉄道の夜」は、宮沢賢治の作品の中でも知名度が高い方だろう。おそらく、松本零士の「銀河鉄道999」のせいだ。私も、999を知った後で宮沢賢治を知った。

しかし、全集を読んだ私に言わせてもらうと、「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の作品としては少し異色である。そして、そんなに傑作だとも思わない。

風の又三郎とか、よだかの星とか、ツェねずみとか、どんぐりと山猫とか、もう内容もうろ覚えだがそういう小品みたいなものの方が楽しく読めるし宮沢賢治らしいと思う。「注文の多い料理店」も有名だが、これは本当に彼が書いたのかと思うくらい、これも異色である。


ただ、「銀河鉄道の夜」には他の作品にない壮大さというか、不気味と言ってもいいくらいの神秘的なものがあって、自分の心の中にも理解不能のままずっと残っている。

改めて読んでみた。

この作品のメインの部分、「銀河鉄道」に乗って小旅行をする部分は夢である。そう明記されている。

他人の幸せのためなら自分はどうなってもいいと話す二人だが、その話の通りに主人公ジョバンニの友人カムパネルラはいじめっ子と言えるようなザネリが溺れたのを助けて亡くなってしまう。

登場人物の名前がこのような西洋人の名前になっているのも珍しいことだ。

小旅行は夢なので幻想的で非現実的な風景が描かれる。初めて読んだ時もその後何度か読み直した時もいつも面食らって、映像を想像することもできないところも多い。

明らかにキリスト教のイメージが反映している。それは聖書の内容であるとかイエスの言葉とかではなく、あくまでもキリスト教に伴うイメージ、雰囲気といったものにすぎない。でも、誰かの幸せのために自分はどうなっても構わないという考えはやや過激ではあるがキリスト教の考えである。

彼の宗教的なバックボーンというか信仰していたのは仏教、法華経とかであり、私は詳しくないが仏教には自分の身を犠牲にしてまで他人の幸せを願う考えはあまりないのではないだろうか?

「銀河鉄道の夜」は子供向けのほのぼのしたメルヘンなどではなく、心が苦しくなり身につまされ、不気味さも持ち合わせた、やっぱり難解な異色作である。



2023/07/10

レコードプレイヤーの回転が速い

Dire Straitsの Brothers in Arms のアナログレコードを買って聴いていたら、

どうも速い。試しに、iPhoneにも入っているから、同時(きっかり同時にかけるのは難しいのでほぼ同時)にかけてみたら、レコードの方がどんどん先に進んでいく。

まずは、レコードプレイヤーの回転速度調節みたいなものがあるだろうと思って調べて、確かにあることはわかったのだが、

それはプレイヤーにドライバか何かを突っ込んでねじみたいなものを回して調整するというものであった。

だが、それはやる前に、難しい作業になることが想像できた。

どれだけねじを回したらどれだけ回転数が変わるか。

ちょっと回しては確認し、再度回して、と繰り返さないといけない。そして、ねじを回すときとレコードをかけて回転を確認するときにいちいちひっくり返したりレコードをどけたりアームやテーブルが動かないようにテープでとめたりしなければいけない、などと考えて、やる気になれなかった。


プレーヤーの取扱説明書にはなんと書いてあるのだろうとみてみたら、回転数調整についての記載はなかった。

その代わり、「ベルトは消耗品だから1年に1回を目安に交換してください」と書いてあった。

これだ。ベルトが緩んでしまったのだ。

偶然だが、回転調節できる穴を探しているときにプレイヤーをひっくり返したらテーブルが外れ、中にあるベルトが見えた。

こんな細いゴム紐で回しているのか、こんなものすぐに伸びたり劣化したりして回転数なんかくるって当然だ、と気づいた。

(でも、緩んだら回転は遅くなりそうなものだけどな... 湿気などの関係で縮んだりするこtもあるのだろうか... )とも思ったが。

交換用ベルトはプレイヤーを買った店などで簡単に変えると思ったが店にはおいていず、メーカーサイトで注文したがすぐには来ないだろうと思い、

アマゾンで買おうとしたらたかがゴム紐なのに非常に高額で、

結局秋葉原の千石電商で買ったのだが1本2000円ほどして、

取り替えてみたが、


改善しなかった.....。


2023/06/18

ビートルズ

youtubeでおすすめに表示されたのをきっかけに、ビートルズについての動画を観ていて、なんだかんだで私はビートルズの曲をほとんど全部聴いていたことにあらためて気づいた。

私は普通、洋楽のアーティスト・バンド名をカタカナで書かない。Bob Dylan, Sex Pistols,  Led Zeppelin, Deep Purpleなど。「ボブ・ディラン」「レッド・ツェッペリン」「ディープ・パープル」などと書くのはカッコ悪い。

しかし、ビートルズについては、The Beatlesと書くのはなんだか違和感がある。彼らはもはや、単なるひとつの洋楽のバンドではなく、それだけで一つのジャンルとなってしまっているようなところがある。


ビートルズを聴くようになったきっかけは何だっただろうか?子供のころはテレビで歌番組を見るのが好きで、やがてラジオのランキング番組を聴くようになった。当時はランキング番組(ベストテン番組)がたくさんあって、日曜日は朝から夕方までラジオを聴いていることも多かった。不二家歌謡ベストテン、全日本歌謡選抜など。歌謡選抜は文化放送の番組で確か午後1時から放送が始まる。番組を聴いている人からの電話リクエストを生で受け付けて、3時半からランキングを発表していき、4時半に終わる。

中学生になるといわゆる「洋楽」というものに興味を持った。FMラジオから雑音の中で途切れ途切れに流れてきたカルチャークラブの「君は完璧さ」を聴いて衝撃を受けた。歌謡曲とはまったく違う、洗練された高級な音楽だと直感的に感じた。

ビートルズは解散して10年以上たっており、ジョンレノンがなくなってからも2年がたっていた。そのころ私はビートルズは過去のバンドだと思っていたが、今から10年前なんて2010年代、今の私にとっては「ついこの間」であり、その頃流行っていた音楽すら、新しすぎて知らない、となってしまっている。

中学2年か3年のあるとき、FM東京のマイサウンドグラフィティという夜中の3時ごろやっていた番組で、ジョンレノン特集をやった。45分の放送で、何回かにわけて放送されたのだが、私はそれをキッチンタイマーなどを使ってカセットテープに録音して、繰り返し聴いた。しばらくはビートルズの曲を聴くと、そのときのテープに入っていた曲順を思い出してこの次はアレ、というくらいだったがさすがにもう今はそれはない。

その後、ビートルズのアルバムを聴くようになったが、そのジョンレノン特集に入っていた曲以外にめぼしい曲があまりなく、ビートルズとはジョンのバンドだったのだなと思った。

当時はよくわからなかったが、今では聴けばどの曲がジョンでどの曲がポールか大体わかる。基本的に曲を作った人が歌うからだ。聴いてわからなくても調べればわかる。

私はジョンレノンが好きで、ポールの曲はあまり好きではないが、ビートルズのアルバムとして名盤だなと思うものはポールが活躍しているものが多いことに気づいた。Sgt. Pepperとか、white albumとか、Magical Mystery Tourとか。

ただし、やっぱり、今でも、興ざめしてスキップせずにいられないポールやジョージの曲はある。ジョンの曲でそういうのはほとんどないのに。

2023/05/28

福岡伸一「動的平衡」

 だいぶ前に話題になった本。題名にも興味があって読んでみようと思っていたがずっと読まずにいた。

買ったのは2017年発行の新版だが、最初に出版されたのは2009年だからもう15年ほどたっている。


最近読まない本がたまっていて整理しないといけないなとおもって本棚をながめていて、目に留まった。

この手の本はあまり読まない。高校から大学生のころ、ブルーバックスを何冊か読んだ。都築卓司さんの本が面白かった。この本もそういう分野のものだと思って読んだが、いまいちで、半分くらい読んであとは流し読みした。


生物は常に変化しつつ一定の状態を保っている、みたいなことは面白いなと思ったのだが、結局それ以上のことはあまりわからなかった。

生物学についてのいろんなエピソードが語られており、STAP細胞、iPS細胞などのことなどもそんなこともあったっけ懐かしいなと思いながら読んだが、事実や用語の説明がたんたんと並べられていて、期待したような中身ではなかった。

食物は分解されるから不足しているものを摂取するのは意味がないとか、胃袋の中も体にとってはちくわの穴の中のようなもので外側である、みたいなことはなるほどとは思ったが、本に書くほどのことでもないと思った。


2023/05/15

JuJu Club

1998年に韓国に行った。

確か帰りの空港でだったと思うが、韓国ポップス名曲集みたいなCDを買った。

そのCDで、JuJu Clubという韓国のバンドを知った。


「バンド」である。ボーカルは特徴のある声の女性でJuJu Clubの最大の特徴でもあると言っていいと思うが、私はバンドとしてJuJu Clubに興味を持ち、気に入り、彼らの発表しているCDを集めた。

そのときにすでに三枚のアルバムが出ていて、2000年に四枚目がリリースされ、すべて買った。

一般的には「韓流(ブーム)」といえば、「冬のソナタ」からということになるだろう。2003年ごろである。それよりは少し前だ。

私にとって韓国は単なるブームではなかったのだが、1998年ごろにも軽い「韓国ブーム」みたいなものがあったような記憶がある。


帰国後、その韓国ポップス集のCDを何度も聴いて、日本の音楽、それはテレビで活動しているようなアイドル的な歌手やグループに限らず、ニューミュージック(古い言い方)とかJポップとか言われるような、本格的なミュージシャン達と比べても、異質なもの、もっというと日本よりもカッコいい、優れた、洗練された、クールさ、そんなものを感じた。


その中でもJuJu Clubは特に気に入った。

このバンドにはユーモア、無邪気さ、切なさ、エスニックなものなど多様なものがあった。


JuJu Clubは韓国でどれくらいの知名度なのか、日本でもそのうち売れるのでは、いや世界的に認められるのでは、くらいに思ったが、その後特にメジャーになることはなかった。


それからしばらく経って、いつ頃だったか覚えてもいないが、

彼らの発表した曲、私が買ったCDに入っている曲の中で、有名な曲にそっくりなものがあることがわかった。

私が把握しているのは以下の三曲である。

"Denis" Blondie

"Carnival" Cardigans

"Bizarre Love Triangle" New Order


Denisについては、確かクレジットにBlondieの曲であると書いてあるが、それ以外は書いていない。
歌詞は韓国語で、編曲もそっくりなのだが微妙に違っていて「カバー」でもなく、少なくはあるがインターネットで確認できる情報からしても、悲しいことだが「盗作」であると言われても仕方がないようだ。

2002年に解散したようである。


後記
以前にほぼ同じ内容のことをすでに書いていたがすっかり忘れていた。
が、残しておく。

2023/04/16

Bob Dylan 東京ガーデンシアター 2023/4/15

雨だった。

16:00開場、17:00開演。

いつも早めに行き過ぎるのでゆっくり行ったらギリギリになってしまった。

会場の東京ガーデンシアターは有明にある。国際展示場駅から行ったのだが、りんかい線は本数が少ない。

この駅は仕事で何度か利用していて勝手を知っているつもりだったが会場はいつも利用しているのと反対側にあり、駅からの距離も思ったよりあった。

駅に16:35に着いたが、混雑や荷物チェックやらで着席できたのは開演5分前くらいだった。


肝心のライブは期待を上回った。

ディランの顔ははっきり見えない。表情もわからないし、ひげが生えてるのか太ってるのか痩せてるのかもわからず、顔だけぼうっと浮かんでるような感じだった。

ディランは終始ピアノの前にいて、基本的に立っていたが時々座る。

バンドメンバーはピアノを囲むように、客席ではなくディランの方を向いて演奏していた。

ギターが二人、ベースが一人、スチールギターが一人、ドラムが一人。

ベースは曲によりウッドベースになり、スチールギターは曲によりヴァイオリンになった。


Rough and Rowdy Waysの曲がメインで、その他は渋めの選曲だった。

twitterでも話題になっていたが、ここ3日は日替わりでGreatful Deadの曲を1曲カバーしている。

この日やった「Not Fade Away」はDeadがよくカバーしていたそうだがもとはBuddy Hollyの曲である。

Rough and Rowdy Waysはあまりちゃんと聴いてなかったのだが、ライブを観に行くにあたって「予習」をしておいた。

正直、Love and Theft くらいからのDylanにはあまりついていけていない。

「大人のムードジャズ」みたいな感じがどうもダメだ。Triplicateとか出されたときには今度こそディランも終わりか... と思っていた。

だが、アルバムはともかくライブは80を過ぎてもまだまだ現役バリバリである。

Rough ... からの曲も、ライブ用にアレンジされていて、新鮮に聴けた。

彼を見たのは1994, 2001, 2010についで4回目なのだが、今回が一番良かったかもしれない。


2023/01/30

はだしのゲン

中沢啓治作・画

1973年から1987年にかけて、少年ジャンプ等で連載された。

後半は共産党機関紙とか日教組機関紙などの物騒なところで連載したようだ。


初めて読んだのは小学生、3年生くらいだっただろうか。

親戚のおばさんが貸してくれた4巻までを読んだ。

赤ちゃんの友子が死んでしまうあたりまで。


この漫画は非常に話題になっていた覚えがある。

何で話題になったのか?テレビではないと思う。

新聞かな?


映画化もされて、「涙の爆発」というのを、

学校の体育館で上映して観たような覚えがある。


私の世代ではだしのゲンを知らない人はまずいないのではないか。


私が読んだ以後もゲンは話が続いて、ヤクザとか闇市とかヒロポンとかが出てくるということは聞いていたが、ずっと読まずにいた。

ヤフオクで中公文庫のコミック版全7巻を入手して読んだ。


あしたのジョーとかでもあるように、セリフが手直しされているところがありそうなのでなるべく古い版を読もうかと思ったが場所を取るので文庫にした。

この作品はいかにも左翼的な反戦思想のもとに描かれたようなイメージがある。

実際、共産党や日教組の機関紙に連載されている。


だが私は初めて読んだ小学生の時もそうだったし、今回最後まで読んでもそうなのだが、この漫画がそんなに「左翼思想」が表現されたものだとは思わない。

特に父親、母親は反戦思想が強い。ゲンはそれほどでもないのだが、彼が天皇の戦争責任を言うシーンもある。

でも、それはあくまでも漫画の登場人物が言っているだけである。父親が戦争に反対して特高にとらえられたのは実話らしい。

戦後駐留した米兵も登場するが、ゲンたちがとんでもない悪人、鬼畜というイメージでおそるおそる近づくが実際は普通の人間でチューインガムを子供たちにくれるというシーンもある。



2023/01/02

社会契約論(LE CONTRAT SOCIAL)

Rousseau

LE CONTRAT SOCIAL

1762


岩波文庫

訳者 桑原武夫ら

1954/12/25 第一刷

2010/11/25 第80刷


「民主主義」「国民主権」ということが当たり前となりもはやそもそもそんなものが必要だったのか、現在の社会の姿はこれでいいのだろうか?と疑問すら抱くようになった。

社会契約論というものの存在とだいたいどういうことが書かれているかは学校の歴史などの授業で習った。社会契約論に関しては内容の抜粋などを読んだような覚えがあり、国と国民の関係は支配や隷属ではなく契約であるべきだ、という考えには納得していた。

社会契約論とエミールは同じ年に発表され、間もなくルソーに逮捕状が出る。

1762年の4月に社会契約論が、5月にエミールが刊行され、6月に逮捕状が出ている。

エミールも読んだが、どちらも、根本的な無神論ではないのだが、宗教特にキリスト教を否定するような発言が見られる。


改めて全部読んでみて知ったのは「特殊意志」「一般意志」という概念である。

「特殊意志」というのは一人の人間としての考え、主張のようなもので、「一般意志」はそれと対立する考えで、「市民としての意志」、今の言葉で言い換えれば「公共の利益」のようなものである。

あと、ルソーはジュネーヴで生まれ育っていて、共和国の人である。


民主主義は17世紀から18世紀にかけて革命が起きて世界に広まったようなイメージがあるが、民主制、民主政、民主政治と言ったものはローマとかギリシアの時代からある。


現在「民主主義」と呼ばれている機構は、ルソーの言う「民主政(démocratie)」とはだいぶことなる。


今回なるほどと思ったのは多数決について述べている、「少なくとも一度は全員一致があったことを前提とする」というところだ。

そもそも、「多数決」という制度を採用することに同意していなければ、自分の意見が少数派であったときに多数派に従うことはできない。

だが今の日本で、それがどのように同意されたのかはよくわからない。少なくとも国民全員が納得して決めたことではないだろう。


今、日本では選挙が行われて、当選した国民の一部の人々が国会議員とか県会議員とか市議会議員とかになって、国会、県議会、市議会を開催して法律などを決定していく。

議員達はたてまえは「代表」であり、ルソーの言うような一般意志を持った存在のようであるが、実際は違うだろう。選ばれた一つの特殊意志にすぎない。投票する人は一般意志を具現する人を選ぶのではなく、ある特殊意志がまたべつの特殊意志を選んでいるだけだ。

おそらく完全な、理想の「民主政」は、議員を選出するという意味での選挙をおこなわない。ルソーに言わせれば現代の日本は少数の特権階級者が政治を行う「貴族政」になるのではないだろうか。


今回この本を読もうと思ったのは、ルソーが秩序を破壊して人々に暴力革命を起こすように扇動するようなものだったのではないかと思ったからなのだが、読んでみるとそこまで過激なものではなかった。ただ当時としては、特にフランス国としては過激で秩序破壊を企てるものだと思われてもしかたのない内容だったようだ。

「一般意志」というような考えは私になかったものだ。民主主義によって決定されることは多数意見の落としどころであり妥協のようなものだと認識していた。

でも「意志」であって、もっと積極的なものである。「国民の総意」に近い。でも、総意でもない。総意というと全員が同じ特殊意志を持つような印象があるがそんなことは不可能で、そんなことが可能であったらそもそも政治も選挙も法律も必要ないだろう。

多分究極の民主政は選挙や多数決がなく、すべてのことが全員一致で結論づけられるまで議論を尽くす制度であろう。

多数決で少数意見を切り捨てている限りは結局ある特殊意志が通っているのに過ぎない。

でも私は、やっぱりそんな究極の民主政などまさに「神々の国」でもなければ不可能だし、「一般意志」などという崇高な理念は現実にはあり得ないと思う。