2012/01/12

岩村充 「貨幣進化論」

買った本の一冊は「貨幣進化論 (岩村 充)」である。

最初の方を読んで、さっそくいい話を聞いた。リチャード・ドーキンスという人が、人類がまだ猿人であったころから「肉の最善の貯蔵庫は仲間のお腹だ」と考えていたと述べているそうだ。つまり、自分が満腹あるいは他人が空腹であるときに肉を分け与えておけば、その好意のお返しとして自分がひもじいときに肉を分け与えてもらえるという考えである。そしてその好意の貸し借りを貨幣というもので象徴するようになった、という考えである。

なるほどとは思うがここにひとつ重要なことが見過ごされている。それは、なぜ好意の貸し借りを貨幣で象徴させる必要があったのか、という事である。本当に好意を感じてそれにお返しをするのであれば貨幣による象徴など必要ない。現在でも人は好意で他人に食事をご馳走したりプレゼントを贈ったりするが、それらのことについて借用書を書かせはしない。

「ギヴ・アンド・テイク」というのは、道徳的な意味を含んでいる。商品を販売して代金を受け取ることを「ギヴ・アンド・テイク」とは呼ばないだろう。それは単なる取引であって、はじめから交換することが前提にある。「ギヴ」というのは与えることであり、見返りを求めないことである。

貨幣のない時代の肉を分け与える行為はギヴ・アンド・テイクに見える。誰かに肉を与えても返してもらえる保証がないからだ。では、猿人は保証をしてもらう術を知らないから返してもらえないかもしれないというリスクを承知で分け与えていたのだろうか?後に貨幣という「借用書」を考え出すくらいであるから、そのリスクは耐え難いものであったはずだ。そうであれば、貨幣がないときにはそれを恐れて仲間にわけあたえることなどしないのではないだろうか?


貨幣を媒介とした取引は、相手が裏切ることを前提にしている。何かを与えたら返してくれる事が確実であるか、それを信頼しているか、返されなくてもかまわないと考えているならば貨幣は必要ない。つまり、貨幣の存在は仲間に対する不信を意味している。

ところが、「資本主義」というものは、人間の欲望が結果として社会全体を豊かにするという仕組みであった。つまり、欲望は社会にとって善なのである。個々が私利私欲にもとづいて行動すると全体が豊かになるというのだ。そんなうまい話があり得るだろうか?そして、私利私欲が全体を益するなら、交換において裏切るという私欲を恐れて貨幣を使用しなくてもよさそうなものではないか?

仲間から受けた恩を忘れ、あるいは意図的に無視してそれを返さなかったら、二度と分けてもらえないから返すようにするのではないか?「借用書」は不要ではないだろうか?


ここに私は「私利私欲が全体を益する」という考えの矛盾を見るのである。私は、全体を益しているのは私欲ではないと考えずにいられない。

ここまで書いて、ある有名な人の「贈与経済」についてのブログのエントリーを思い出した。というか、最初からそれが頭にあって書いていたのかもしれない。だが、今読み返してみるとその人の言う「贈与」というものも、自分がその団体に生き続けられるようにという「不純な動機」であることには変わりなかった。私に言わせればそれは贈与ではない。やはりそれもただの「取引」である。


私は「取引」がダメで「(本当の意味での)贈与」をすべきだと言っているのではない。個々の欲望を肯定しているはずの資本主義という状態が交換時の裏切りをもまた前提している事の矛盾に疑問を感じているのだ。

資本主義(というか貨幣経済というべきか)というものは何の制約もない自由放任の状態だと思っていたが、貨幣の存在自体がすでに「ギヴアンドテイク」を「取引」に変えていた。団体を益する根源となっているのは私欲ではなく、貨幣という借用書つまり価値の媒体に対する信頼である。スミスは貨幣そのものに価値はないと言う(言ったらしい)。確かに交換する時に二者が合意すれば取引は成立する。しかし、そうであったとしてもやはり、その貨幣がホンモノである必要はあるだろう。それが金でなかったとしても。資本主義(貨幣経済)を支えるものは、その貨幣に対する人々の信頼である。それがあるから与えられても裏切る利己的なメンバーで構成される団体が円満に利益の分配をできるのである。


それを資本主義と呼ぶのか市場原理主義と呼ぶのか貨幣経済と呼ぶのかわからないが、これはやはり人間に対する不信を根底としている。決して個々の欲望を信頼したものなどではなかった。



2012/01/04

仁義なき戦い広島死闘篇

シリーズ2作目。1作目よりよかった。最後自決する殺人鬼とその女というわかりやすい主軸があるからだろうか。

梶芽衣子がよかった。