2020/12/31

シーモア ―序章―

 「あれか、これか」を読んでいるときに、インターネットでいろいろ調べ物をしていたら、サリンジャーの「シーモアー序章ー」に、キェルケゴールの名前が出てくるということを知った。

ページをめくった最初のところに2つの引用があって、一つは死に至る病である。

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」とセットで発表されたようであるが、「大工」の方は高校生の頃読んだ。

「ライ麦」を読んで感動して、お茶の水の古本屋で全集だか選集だかを買った。

シーモアをはじめとして兄弟姉妹の話が複数あり、非常にリアリティがあるのだが、実話なのか創作なのかわからない。

創作っぽいのだが、今回「シーモア」を読んで、やっぱりこれは実話じゃないと書けないのではと感じた。


読了 「あれか、これか」6 

4冊の最後の一冊、 第二部(下)をようやく読み終えた。


「人格形成における美学的なものと倫理的なものの均衡」

「ウルティマトゥム」

「われわれは神に対していつも正しくないという思想のうちにある、教化的なもの」


「人格形成における....」は、本作の前半で述べられたことに対する反論というか、お説教というか、たしなめというか、先生が生徒に語り掛けるような手紙の形式である。

「あれか、これか」の前半を読むのは苦痛であったが、後半に入って自分の知っているキェルケゴールにようやく会えたような気がした。

聞いた話だが本作は後半が先に書かれ、後から前半が書かれたという。

つまり、私が感じたように、前半のモーツァルトがどうこうとか誘惑者がどうこうというのは、壮大な「フリ」であって、キェルケゴールの言いたいことは後半にあったのだ。

読んでいて、ほとんど「死に至る病」と同じようなことを言っていると感じた。


いちおう、「あれか、これか」をついに読了した。

高校の授業でその奇妙なタイトルを聞いて読んでみようかなと思ってから30数年が経ってしまった。


さて、このタイトルの意味であるが、デンマーク語は Enten-Eller、英語では Either/Or と書かれる。

日本語のタイトルだと、「AかBか」、「美学的なものと倫理的なもののどちらを取るか」みたいなことかと思うし、解説のようなものを読むとそのように説明されていることが多いように思うが、そうではなかった。


デンマーク語はわからないので(読んでいる途中にデンマーク語入門のような本も買ったが)、英語の Either/Orを説明的に日本語にすると、「両方選ぶか、どちらか一方を選ぶか」となる。


こうしても、「倫理的なものと美学的なものを両方選ぶことはできない(だから美学的なものを捨てて倫理的に生きねばならない)」というように解釈することもできるが、そんな断定的な内容ではない。


おそらくこれは、キェルケゴール流の壮大な弁証法なのだろう。弁証法というものは私にはいまだにどういうことかピンとこないのだが、AとBという相反するものについて議論してどちらがいいとか悪いとするのではなく新しい次元の概念に発展させる、というようなことだと理解している。


弁証法という考えは広義にはプラトンが書いた、ソクラテスが弟子と対話して議論をすすめていく方法のことも指すらしい。


正・反・合、なんて、「ケンカした後でお互いのことがよくわかりあえて前より仲良くなった」みたいな、安っぽいきれいごとのようにしか思えなかった。


キェルケゴールの弁証法は、そんなきれいごとではなく、もっと苦しい、体が引き裂かれるような、あるいは体と心が引き裂かれるような、つらくて永遠に結論が出ないようなものである。


そして彼が他の哲学者と決定的に違うのは、神(キリスト)という絶対的なものが存在していることである。


彼は、考えて、哲学して、弁証法によって神にたどり着くのではない。神は大前提であり、哲学と信仰とは完全に切り離されている。信仰のための哲学でもないし哲学のための信仰でもない。


この作品は彼が婚約までしたのに結局結婚しなかった、という事件があったころに書かれたものである。

結婚が大きなテーマであることは間違いない。

「人格形成における....」は、結婚している者が結婚していない者(キェルケゴール)にあてて書いた結婚を肯定する手紙であるが、それを書いているのは結婚していないキェルケゴールである。

こんなものを書いておいて、彼は結婚しなかった。「結婚は哲学あるいは信仰に邪魔だ」という考えだったわけではないだろう。

私には、彼は自分は結婚する資格がない、結婚するにはまだ未熟だ、自分が結婚しても妻を幸せにしてあげられない、みたいな考えだったように感じる。

キェルケゴールについての評伝みたいなものには、明らかにされてはいないが何かとてつもない大きな事件があったかのように書かれているのだが、私はそれは確かに大事件かもしれないが、具体的な行為であるとか特定の人間との関係とか(親子とか愛人とか)いうものではなくて、ごく内面的な事だったのではないかと思う。


2020/12/30

M-1 グランプリ 2020

 今年は予選から観た。

全部観たわけではないが、twitterやyoutubeなどで噂になっているコンビ(じゃないのもいるが)はだいたいチェックしていた。

採点

決勝1本目

インディアンス 87

東京ホテイソン 91

ニューヨーク 92

見取り図 93

おいでやすこが 94

マヂカルラブリー 90

オズワルド 89

アキナ    88

錦鯉 92

ウエストランド 86


決勝2本目(順位)

1.マヂカルラブリー
2.おいでやすこが
3.見取り図

敗者復活戦(3組選択)

1.金属バット
2.コウテイ
3.滝音


その他、途中で敗退したがおもしろいと思ったコンビ

タモンズ
コロコロチキチキペッパーズ
ななまがり
ストレッチーズ
さや香
キュウ
あかね
トムブラウン
祇園
デニス
令和喜多みな実
令和ロマン
シンクロニシティ
あかね(黒木・山崎)


感想


金属バットに決勝に出てほしかったのだが、
予選からずっと観て、過去の漫才もyoutubeで観て、
おもしろいのだがM-1向きじゃないかな、という気がだんだんしてきて、
敗者復活選のトップバッターの漫才を観たときに、ダメだな、と思った。
(投票したが)

マヂカルラブリーは3年前に観たときは二度と出すなと思うくらい嫌いだったが、
今回は予選からおもしろくてすっかり見直した。
私の採点だと彼らは2本目に残れなかったことになるが、
残った3組だったらマジカルラブリーを選ぶ。

まだ予選を観る前は、前回の印象やyoutubeを観た感じからして見取り図が優勝するのでは、と思ったこともあった。彼らのことは好きなのだが、M-1で優勝するにはちょっと軽すぎるというか、インパクトが足りない気がする。

コウテイというコンビについて、名前をよく聞くし賞を取ったということだったが何回見ても好きになれなかった。しかし準決勝・敗者復活戦を観る頃になってようやく彼らのおもしろさがわかってきた。そして彼らはM-1向きである。




2020/11/29

スパルタカス

スタンリー・キューブリック監督

1960年


この映画は高校生の時に夜中にテレビで放送されたのを観た。

たしか前半後半2回に分けられていたような記憶がある。


とても感動して、日記帳のようなものに感動したと書き付けた。

それからレンタルビデオなどで映画はちょくちょく観てきたが、

好きな映画はときかれたらスパルタカスと答えよう、と思うくらいだった。


キューブリックの映画で初めて見たのは2001年宇宙の旅で、

これも高校生の時だが、これはテレビではなく、映画館でリバイバル上映されたのを

友達と観に行ったのである。


スパルタカスと2001年を観たのはほぼ同じ頃だということになる。

2001年はよくわからなかった。


その後時計仕掛けのオレンジ、フルメタルジャケット、シャイニングなど、キューブリック作品を観るたびにすごい監督だなあと感心した。


スパルタカスについては若いころ観て感動した映画だというのはずっと残っているのだが、さてどんな内容だったかと思い出してみると全くと言っていいほど記憶がない。

最後にスパルタカスが十字架についているシーンだけは覚えていたが、

それ以外は何も覚えていない。


今回DVDを買って観たのだが、印象に残ったシーン、セリフ、登場人物などああ、こんなのあったな、というものすら全くと言っていいほどなかった。


さて、内容について。


スパルタカスの反乱がローマ軍に鎮圧され、「スパルタカスという奴隷を処刑すればほかの奴隷は許してやる」みたいなことが言われると、奴隷たちが次々に「私がスパルタカスだ」と名乗るシーンがある。


これは最近テロ事件があった時に「私がシャルリー」だとかいうハッシュタグがつけられるなどと同じようである。


さらに、これは以前にも思ったことであるが、十字架につくスパルタカスはキリストを連想させる。


スパルタカスとキリストは何が違うのか。


今回思ったのだが、


キリストは「私は神だ」と言って十字架についたというのは、もしかして、

スパルタカス以外の奴隷が「私がスパルタカスだ」と名乗り出たのと同じようなことだったのではないか?

2020/09/09

結婚の美学的妥当性 「あれか、これか」5

 キルケゴール著作集の3、

第二部(上)


ずいぶん時間がかかった。

寝る前に寝床で少しずつ読んでいたがようやく読み終わった。


「あれか、これか」は、結婚がテーマである。

3/4を読んだので、もうどういう本なのかは大体わかってきた。


結婚について書かれた本と言えば、スウェーデンボルグの「結婚愛」という本を、

読んだことがある。


キルケゴールもスウェーデンボルグもキリスト教徒の立場から結婚を語っている。


スウェーデンボルグは結婚とは男女にとってあるべき神聖な関係、

それによって初めて神が創造した目的を果たす、みたいなものとして語られていた。


「結婚の美学的妥当性」だけを見れば、ほぼ同様の立場であるが、

「あれか、これか」は自由奔放な恋愛を賛美するような部分もあれば、

婚約者をもてあそぶかのような誘惑者の立場からの部分もあり、


総合的には、「私がどうして結婚することをやめたのか」

という弁明となっている。


醒めた目で見れば、何をそんなにクヨクヨ考えているのか、

といいたくなる。


キルケゴールは結局、結婚することが怖かった。

妻を愛しぬくことができるだろうか?

結婚する資格があるか?


みたいなことを、正当化するために、複数の人格を想定して

1人で議論ごっこをした。


みたいなもの。


さあ、最後の一冊。



2020/07/26

パイドン

岩波文庫

プラトン著
岩田靖夫訳

1998年2月16日 第1刷発行
2019年8月6日 第25刷発行

「ー 魂の不死について ー」という副題がついている。

岩波文庫のプラトンの作品は若いころからちょこちょこ読んでいて、
国家、饗宴、ソクラテスの弁明、プロタゴラス、メノン、ゴルギアス、などを
読んでいるはずだ。


最近、人間は死ぬとどうなるのか、いわゆる霊魂不滅ということはどういうことなのか、といったことを考えたことがあって、霊魂不滅といえばソクラテスが語っていたのを前に読んだよな....

と思い、どれだっけなあと岩波文庫の本棚の前で探していたら「パイドン」が見つかった。副題にも書いてあるし、表紙にある概要みたいなのにもそのものずばりが書いてあった。

これだこれだ、と思い、開いてぱらぱらと見てみたが、内容についてはよく覚えていなかったので、まあ、もう一回読むか、と買って帰った。


ちょっと回りくどい前置きがあって本編が始まるのだが、その前置きを読んでいて、この霊魂不滅についての議論(というか主張)は、ソクラテスが刑死するその日になされたものであるということを知った。

自分がまさに死ぬという日に、しかも裁判でおそらく不当な判決により自ら毒を飲んで死ななければならないというその日に、霊魂が不滅であると、肉体が死んでも魂は永遠に生きる、という話をしたのを、そのまま受け取ってよいものだろうか?と思った。

霊魂がどんなもので、人は死ぬとどうなり、霊魂が不滅であることはどうやって証明できるかということについて、詳しく吟味することはしない。

私がよく覚えていなかったのも無理はなく、その話はどこかで聞かされたような、もはや陳腐とさえ言えるものだった。

私は最近自分で考えて、「霊魂が不滅」というのは、白っぽい透明なもやもやした「たましい」みたいなものが存在していて、それが体からスーッと抜け出て、天国あるいは地獄へ行くというようなことではなく、もっと比喩的な話なのではないか、と思ったのだ。

だが、ソクラテスの考えは比喩的なものなどではなく、霊魂というものは目には見えないが確実に存在しておりそれは肉体が滅んでも冥界(ハデス)で存在し続けるというものだった。
だから、死ぬことは怖くないしむしろ喜びであるとまで言うのだ。

子供のころは、なんとなくそういう話を信じていた。
信じていたというか、そんな話は吟味して本当なのかと考えることすらなかった。

やがて学校で勉強をし読書をし、知識と経験が増えていくにつれて、
人はそのようなことは忘れるか、バカバカしいと信じなくなるだろう。

だが私は、20代になるころに、なぜかそういう素朴な死生観があらためて真実だと思った時期があった。

シニカルで既成概念を否定するのがカッコいいというような周囲の姿勢にウンザリしていて、天真爛漫で無邪気な考えをするようになっていた。

だが、その後年月がすぎ、自分が知っている人が死んでいった。身近なところでは父の死を経験した。

そして、どんな人でも、その魂が死後も存在し続けているのを実感することはなかった。

自分が実感できないからというだけで存在を否定することはできないが、
どう考えても霊魂というものがどこかに存在しているなどとは思えないのだった。

だから、ソクラテスが語った霊魂とかハデスとかいうことも何かの比喩なのではないかと思ったのだ。

科学技術が未発達な時代の無知な人々の考えたことだ、などというつもりは全くない。

でも、どこまでがソクラテス自身の言葉なのかはわからない。

実は、もっと軽いノリで、これから死刑になる男が周囲の弟子たちに向かって、「心配すんなよ、俺の魂はハデスで永遠に生きるんだから、ガッハッハ!」
といって、弟子たちは「そうですよね、ソクラテス、死ぬことは悲しいことじゃないですよね」

と、漫才のようにボケと突っ込みを応酬しあって「やかましいわ」「もうええわ」と言いながらお互い涙を流していた、

なんてことだったりしないだろうか....

2020/07/23

クサンティッペ

「あれか、これか」の第二部上巻を読んでいる。

第二部は、第一部を書いたものに対する書簡という形式になっている。

第一部は読むのが苦痛だったのだが、第二部は私が求めていたキルケゴールの言葉が語られているように感じる。

ただ、やっぱりその中で自分の心や感覚に触れるところはほんの少しでしかない。


ちょっといいなと思った箇所があったので、google playで買った原文にコメントを付けようと思い、その個所を探すためにその近辺の目印になる語がないかと探すと、

クサンティッペ

という語があった。

googleで検索すると、ギリシア語だが、英語では xanthippe というつづりだとわかったので、

google playで検索したがヒットしなかった。

しかたなく、ザーッとページをめくって翻訳を表示しながらその個所を探していった。

そして、クサンティッペは "xantippe" とつづられていた。


そもそも、コメントを付けようと思ったのはクサンティッペについて語られたことではなかったのだが、「クサンティッペって何だろう?」と思い調べると、ソクラテスの妻の名前で、「悪妻」の代名詞として使われていることを知った。



2020/07/07

ランボー ラスト・ブラッド

youtubeとかtwitterで、何人かの人がいいと言っていたので観に行った。

ランボーは1と3を観た。

だいぶ前に、このブログで、ランボーはちょっと、みたいなことを書いたことがある。

そんなことは忘れて観に行った。


自分のではないが、孫のような少女がメキシコの悪党にさらわれて薬漬けにされ売春婦にされたことに対し怒って.... という話であることくらいを聞いた。


ベトナム戦争とかアフガンとかにくらべるとちょっとスケールが小さいというか、
プライベート的というか、そんなストーリーだ。


ストーリーは上に書いたものほぼそのままで、疑問を感じたりすることはほとんどなかった。

ただ、冒頭の、馬に乗って救助隊みたいなことをしているのが、ジョン・ランボーなのか、

今のというか、最近の話なのか、祖先の話なのか、などがちょっとわからなかった。


表札とか、墓碑とかに「R・Rambo」というのがちらほらでてきた。

「ランボーの名前ってジョン・ランボーだったよな....」


ロッキーやクリードでは、ちょっと気取ったところがあるのが鼻につくところがあるのだが、ランボーは武骨で、イッてるやつなのは気持ちよいところだ。

しかし、ランボーは病んでてイッてる奴だというのがわかってるから本作は受け止められたが、

ランボーを知らない若者などが見たら、単にメキシコのならず者に憤った正義感の強い屈強な老人の話ととらえられかねない。

観た直後はくだらねぇなと思ったのだが、

シンプルで飾りやひねりがなくて、いい映画だったかなと、今は感じる。




2020/06/18

第一部まで 「あれか、これか」4

やっと第一部を読み終わった。

第一部

1.ディアプサルマータ
2.直接的、エロス的な諸段階ーあるいはー音楽的=エロス的なもの
3.古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反射
4.影絵
5.最も不幸な者
6.「初恋」
7.輪作―社会的処世訓の試み
8.誘惑者の日記


なかなか本音を言わない人である。
著者も本人ではなく、それを第三者が編集したとかいう体裁にしている。

おそらく自分の日記や習作的なものを集めているのだろうが、
多少手を加えていると思われる。

特に最後の誘惑者の日記は、キルケゴールというと必ず言及される
レギーネ・オルセンとの婚約とその破棄の顛末のようなものが記されているのだが、
これが楽しみにしていたようなものではなくて、
なぜ彼が彼女に夢中になりそして婚約しそれを破棄したのかということが、
ほとんどわからなかった。

この「日記」はひとつの文学作品として扱われることもあるようだが、
これを読んでなんらかの美しさであるとか感動を覚えることはほとんどなかった。

本当は誘惑者などではなかったのに自分を偽悪的に表現しているものらしいが、
そうだとしても、「コーデリア」に対して、一般的な「愛」というものはあまり感じられない。

ずいぶん時間がかかってしまったが、ようやく第二部に入る。


2020/05/21

google翻訳で訳してみた  「あれか、これか」 3 

vexel-driften
約束手形操作

Forsøg til en social Klogskabslære.
社会的知識理論の試み。

(ここにアリストファネスのギリシア語の詩の引用が入るが省略)

At gaae ud fra en Grundsætning paastaae erfarne Folk skal være meget forstandigt;

経験豊富な人々の前提を想定することは非常に賢明でなければなりません。


jeg føier dem og gaaer ud fra den Grundsætning, at alle Mennesker ere kjedsommelige.

私はそれらを養って、すべての人々が退屈だと思います。


Eller skulde der være Nogen, der vilde være kjedsommelig nok til at sige mig imod heri?

それとも、これに対して私に言うのに十分退屈な誰かがいますか?


Denne Grundsætning har nu i allerhøieste Grad den frastødende Kraft, man altid fordrer hos det Negative, der egentlig er Bevægelses-Principet;

この原理は現在、最高の度合いで、ネガティブに常に要求される反発力を持っています。これは実際には運動の原理です。


den er ikke bløt frastødende men uendeligt afskrækkende, og Den, der har denne Grundsætning bagved sig, maa nødvendigviis have en uendelig Fart til at gjøre Opdagelser med.

それは柔らかく反発的ではないが、限りなく説得力があり、そしてこの原則を後ろに持っている彼は、発見するために必然的に無限の速度を持たなければならない。


Naar nemlig min Sætning er sand,

私の文が真実であるとき、


saa behøver man blot i samme Grad som man vil dæmpe eller fremskynde sin impetus,

次に、推進力を弱めたり加速させたりしたいのと同じ程度に、


mere eller mindre tempereret at overveie med sig selv, hvor fordærvelig Kjedsommelighed er for Mennesket,

多かれ少なかれ、退屈が人間にとってどれほど傷つきやすいかを自分自身で考えるように和らげられました、


og vil man næsten med Fare for Locomotivet drive Bevægelsens Hurtighed til det Høieste,

機関車の危険性がほとんどあるので、移動速度を最高にします


saa behøver man blot at sige til sig selv:

それからあなたは自分自身に言う必要があります:


Kjedsommelighed er en Rod til alt Ondt.

退屈はすべての悪の根です。


Det er besynderligt nok, at Kjedsommelighed, der selv er et saa roligt og adstadigt Væsen, kan have en saadan Kraft til at sætte i Bevægelse.

奇妙なことに、とても穏やかでのんびりした退屈は、そのような力を発揮することができます。


Det er en aldeles magisk Virkning, Kjedsommeligheden udøver, kun at denne Virkning ikke er tiltrækkende men frastødende.

それは退屈が及ぼす完全に魔法の効果であり、この効果は魅力的ではなく反発的であるだけです。

--------------
基本的な語の英訳

jeg = I

ikke = not

en = one

er = be動詞

og = and

eller = or




2020/05/17

Συμπαρανεκρωμενοι 「あれか、これか」 2

いろいろ検索していたらついに「あれか、これか」のデンマーク語の原文を見つけた。

Google Playで 1076円で買えた。

デンマーク語なんかもちろん読めないが、今は瞬時に翻訳ができる。



これは「最も不幸な者」というタイトルの部分を翻訳してみたものである。

原文は「DEN ULYKKELIGSTE」であるが、選択して右クリックで翻訳すると「最悪」となる。

Συμπαρανεκρωμενοι というギリシア語のキーワードがある。

カタカナで書くと「シュムパラネクローメノイ」

キルケゴールの造語らしいが日本語にすると「ともに死んだ者たち」というような意味だそうである。

訳注に「ルキアノスとへブル書とプルータルコスにある類似の意味の語にならってこの語を作った」とある。

であれば、その類似の語とは何か知りたくなる。

iPhoneのyouversionという聖書アプリを持っているが、このアプリは聖書を各国語で読める。

ざっと見て「死者」と関係ありそうな語をギリシア語で確認してみたが下記に「νεκρωμένον」という語が見つかった。

「Γι’ αυτό, και από έναν, μάλιστα νεκρωμένον, γεννήθηκαν σαν τα αστέρια τού ουρανού κατά το πλήθος, σαν την άμμο που είναι κοντά στην άκρη τής θάλασσας, η οποία δεν μπορεί να απαριθμηθεί.」
ΠΡΟΣ ΕΒΡΑΙΟΥΣ 11:12 FPB

「このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生まれてきたのである。」
(1955年 口語訳)


ギリシア語といってもキルケゴールが読んでいた聖書のギリシア語は現代ギリシア語とは違うかもしれない。

「ネクロ」というのが死者の意味だというのは聞いたことがある。

ネクロマンサーとか、ゲームのキャラクターでネクロとか見たことがある。

「συμπαρα」は「ともに」というような意味の副詞らしい。

(参考)

あとは「μενοι」
「μένοι」だと「滞在」という意味で
「μενοι」だと「メニュー」という意味らしいが、
なんか動詞の活用語尾っぽい感じもする。


「古代の悲劇的なものの現代の悲劇的なものへの反射
ー断片的詩論ー」
に、「シュムパラネクローメノイに対する講演」と書いてあって、

「シュムパラネクローメノイ」達に語り掛ける形式となっており、
ときどき「シュムパラネクローメノイ諸君」と、呼びかけるところがある。

そして第一部上巻の最後は「最も不幸な者」は彼らへの熱狂的挨拶ということになっている。

この語は以下のように複数の綴りで書かれている

Συμπαρανεχρωμενοι
συμπαρανεκρωμεvot
Συμπαηανεκρωμενοι

編集時の誤植なのか本人の間違いなのか意図したものなのかは不明。

「あれかこれか」の後半は、前半で書いたものに自分自身で批判するような内容となっているらしい。楽しみだ。

まだ前半の半分だけど。

キェルケゴールは母国語以外にドイツ語、ラテン語、ギリシア語、イタリア語くらいは読めたようだ。

多分ラテン語とギリシア語は神学を学ぶ者には必修だったのではないだろうか。

ドイツ語は日本人にとっての英語以上、たぶん第2公用語くらいの位置付け、大学では必須というかドイツ語の講義とかもたくさんあったのでは。

そして、モーツァルトはイタリア語を読み書きできたらしく、イタリア語で書いた手紙も残っているそうだ。
ドン・ジョバンニの台本はイタリア人の作家が書いたそうだが、イタリア語がわからなければ、曲は付けられないだろう。

2020/05/09

「あれか、これか」

白水社のキルケゴールの著作中の最初の4冊である。

キルケゴールは正確には「キェルケゴール」というべきだと思うのだが、

実際私が若いころノートに書いていたときは常に「キェルケゴール」と書いていたのだが、めんどくさいし、所詮カタカナ読みだし、キルケゴールと書くのが一般的なようだし、そもそも「著作集」自体「キルケゴール」としている。

この白水社のキルケゴール著作集は何かにつけ見かける本で、父の本棚にも何冊かあったし、図書館で手に取って開いてみたり、借りたこともあったと思う。

しかし、まともに読めたためしがない。

キルケゴールについては岩波文庫の「死に至る病」を高校生のとき古本屋で手に入れなんだかわからないところはありながらも何か興奮を覚えつつ読んで、自分の中ではキルケゴールは友達のような存在にしていた。

なぜ私がキルケゴールに、「死に至る病」に感動したのか。

それは多分、他の哲学者たちがほとんど神を、キリスト教を否定しているあるいは否定しようとやっきになっているのに対し、彼はそれに立ち向かうように、神を弁護しているようで、しかもそれが職務であるかのようにふるまっているところだったのだと思う。

私の読んだ翻訳の文章がどれだけ原文のニュアンスを伝えているかわからないが、彼の文章は私が知っている神を弁護する人たちのような柔らかいものではなかった。

神について語ることは子供向けのおとぎ話のような語り方でなくてもできるのだと初めて知ったのだった。


「あれか、これか」は実質デビュー作のようなもので、彼について書かれているものを読むとだいたい代表作として挙げられている。

なんどか読もうとして読めなかったのであるが、今度はたとえわからなくても読み通してみるという覚悟で臨むことにした。

第一部上、第一部下、第二部上、第二部下とあり、
さらにそれぞれにはほとんど独立した複数の文章が含まれている。

まだ第一部の上も読み終えていない。

第一部の上では、モーツァルトの「ドン・ジュアン(ドン・ジョバンニ)」について頻繁に言及されており、途中はほとんど「ドン・ジョバンニ論」といってよいような内容となっている。

なぜ、「ドン・ジョバンニ」なのか。なぜバッハのマタイ受難曲ではなかったのか。ヘンデルのメサイアではなかったのか。なぜ女たらしの罰当たりの人間の物語に注目したのか。そしてなぜモリエールの戯曲のドンジュアンではなくモーツァルトのオペラの「ドン・ジョバンニ」なのか。

そして「あれか、これか」とはどういう意味か。

「Aを選択するならBは捨てなければならずどっちも取るなんて許されない」という意味か。

「享楽的に生きるか、求道的に生きるか」なんて意味ではまさかないだろう。


それにしてもよくわからない文章だ。
よくわからないところがたくさんあるというより、時々意味が分かるところがちらほら見つかる、という感じだ。

難解であったり前提知識が足りないとかもあるのだろうが、さすがにこれは、翻訳に問題があるのではと疑わざるを得ない。

これはドイツ語訳をデンマーク語の原文を参照しながら翻訳したものだと書いてあった。
ドイツ語訳を参照しながらデンマーク語を訳したのではない。

あまりの意味のわからなさに、「何でこんなにわからないのだろうか」と逆に不思議になった。

もしかしてわざとわからないように書いているのか。

もしかして訳者はもちろんキルケゴール本人もわかっていないのではないか。

これがヘーゲル哲学なのか。わからないようにわからないように書くのがヘーゲル流なのか?

言葉の通常の意味を裏切るように疑ってかかり言葉では表せないものを表そうとしているのだろうか?

2020/04/14

「異邦人」 アルベール・カミュ

L'Étranger

1942年。

カミュ29歳の時。

新潮文庫 窪田啓作訳
平成12年5月30日 107刷


高校生の時に読んだのだが、ほとんど内容を覚えていなかった。

この小説は「ペスト」よりももっとはっきりと無神論が表れていて、主人公が処刑される前に「司祭」に食ってかかるシーンがある。

ただ、カミュの文章からは、作者の何かに対する不満とか怒りとか疑問とか、そういうものが、いい意味で見えてこず、抑えられている。

初めて読んだ高校生の頃は、作者も主人公も無神論者というよりはニヒリストで、神も愛も何も感じないような人なのだろうと思って読んだような覚えがある。

特に感動も感心もなく、この作品の何がよいのだろうと思ったくらいだったような。

今読んでみると、ニヒリストではない。もっと透明で、むしろこれこそが本当の普通の人間の感じ方であり生き方ではないかと思うくらいだ。

特に日本人には欧米の小説や映画などに出てくるキリスト教や神のことを理解できない。

この小説の主人公が神を信じないと言ったり母の葬式の翌日に海水浴にいって喜劇映画を見て女と寝るくらいのことをしたからといって、人でなしだとまでは思わない。

今回読んでみて、この主人公があまりに自分の行為について弁解しなさすぎなのはちょっと普通じゃないな、と感じた。

殺した行為自体は最近言われるようないわゆる「動機なき殺人」のようなものでは決してなく、ほとんど偶然といっていい事情に巻き込まれてやむを得ずしでかしたものである。

それを「太陽のせいだ」と言ったのは、深い意味があるのではなく、皮肉でもない。


「ペスト」もわからなかったが、本作も、どうしてこのようなシチュエーションを描こうと思ったのか?

作者の意図はなんだったのだろうか?


本作の舞台も現アルジェリアの町である。

アルジェはアフリカ大陸にあるが地中海に面していて、夏でもそんなに酷暑というほどの気候でもないようである。

一つ一つの文が非常に短く、あっさりしていて、乾燥した明るい印象である。

平凡な日常に対し警告するとか疑問を呈するとかいうたぐいの話ではない。

むしろ逆で、平凡なごく普通の人の暮らしこそが大事だといいたいように感じる。

母が死んだという文から始まるが、主人公はそのことをなんとも感じていないかのような話に見えるが、見方を変えると母の死の衝撃で自暴自棄になった男の話ととらえることもできる。

この小説は不条理どうこうとか無神論とかいうことよりも、母を失った若い男の悲しみを描いた話ではないのか。

正当防衛だとしても弾丸を5発も撃ち込んでしまったのは、太陽のせいなどではなく、母の死のせいではなかったのか。

2020/04/10

「ペスト」 アルベール・カミュ 

1947年発表
宮崎嶺雄訳
新潮文庫 昭和44年発行、平成17年66刷

194x年、オランで起きたペスト流行の話。
まるでドキュメンタリーのような文章だが、そのような事実はない。

ペストは今までに何度か世界各地で流行している。
一番有名なのは14世紀のヨーロッパでの流行だろうか。

1947年に書かれていて「194x年」なので、つまり、「もし今ペストが流行したら...」という設定である。

舞台となるオランという街は、とくに特徴のない平凡な街のように書かれているが、調べてみるとアルジェリア、つまりアフリカ大陸にある街だった。

本作発表当時はオランはフランスの植民地であった。
1954年からアルジェリア独立戦争が始まり、1962年からアルジェリア領となった。

なぜオランを舞台にしたのか、何か意図があるのだろうかと疑問に思ったのだが、
カミュは現在のアルジェリアで生まれ育っていた。

「異邦人」の舞台であるアルジェはアルジェリアの首都である。


コロナウィルスが流行して本作が話題になったニュースを見た。
本作の存在は知ってはいたが読んだこともないしどんな小説なのかもまったく知らなかった。

外出できないこともないが、なんだか面倒くさくてずっと家にいるので、映画を見たりしていたがこんなときだから読書するのがいい機会だと思っていろいろ読んでみていたのだがどれもなかなか読めなかったのだが、ペストは現在の状況もあってようやく読めた一冊だった。

連日、主にネットでコロナウィルスに関する話題でもちきりなので、
「ペスト」を読みはじめたときには、「疫病に立ち向かう人々の感動の物語」みたいなものととらえようとしていた。


ほんの序盤を、ベッドに寝転がりながら本当に少しずつ読んでいたのだが、
最初に書いたようなこの作品が書かれた背景を知ると、読み方をまったく変えなければならないと思った。

本作は、現在のような状況あるいはそのあとで書かれたものではない。
1947年といえば大戦が終わったばかりであるが、作品中に戦争があったことやその影響などを感じる記述は全くないといってよい。

ごく平凡な時代のどこにでもある平凡な街に起きた事件とその事件にまきこまれたごく普通の人々を描いているのである。

架空の話であるから、まずわいた疑問はなぜ作者はペストの流行という設定を思いつきそれを選んだのかということだった。

おそらく、なにかの象徴なのだろう。

「ペストに立ち向かう人々の感動の物語」なんてもののはずはない、
なんせ作者はカミュだぞ?不条理のカミュ、太陽がまぶしいから人を殺したという殺人犯の話を描くような... と思いながら読んでいった。

文体は客観的でノンフィクションのようであり登場人物の感情もそんなに激しいものは描かれないのだが、
意外に、愛とか友情とか正義のようなものが前面に出てくる場面もあった。

イエズス会士の神父が登場して、ペストは神がもたらした災厄であるというような説教をする場面が出てくる。

この作品において神、教会、神父、キリスト教というのはまったく無力でなんの権威もない虚しいものとして、反感を感じるものでしかないような描き方をされ、神父がペストに感染して死ぬところが詳しく描写される。

カミュは共産党に入党したこともあり、基本的に無神論者的立場の人のようで、本作中でも主人公(医師のリウー)が神を否定するような発言をする。

ただし無神論といっても厳密なものではなく、一般的になんとなく言われている神とか宗教的な行事とかそういうものを否定しているだけであって、造物主や自然法則などなく人間はただ偶然に生まれた存在にすぎないというような虚無的な考えでもないように思う。

この小説は今のような本当に疫病が蔓延している状況で生き抜くための参考にするようなものではない。

むしろ、ペストのようなものはもっと普遍的で常時蔓延しているのであって、疫病はその象徴でしかない。



2020/03/21

100日目に死んだワニについて

ネズミが桜の写真を送信し
「よくね?」というメッセージを送信したとき、
既読は1だった。

3人いるグループなので、
全員読めば2になるはずだ。

こうなったら、普通は「あれ、誰か一人に何かあった?」となる。
事故に遭うとかね。

メッセージを読んだのはワニかモグラ(?)かわからないが、
状況からしてモグラだろう。

私は最初LINEの画面の中身までみなかったのでわからなかったが、
もし最初から見ていたら、ここで「ワニが死んだのかな」と思うだろう。
100日目に死ぬことはわかっているのだから。

案の定、次のページでワニが死んだととらえられるシーンがある。

ところが、最後のLINEの画面が不可解である。

わざわざ時刻や既読数まで載せているから
作者はこのLINEの画面で何かを伝えたかったはずだ。

ワニが持っていたと思われるスマホには、
ネズミが送信した桜の写真に対する返信が記録されており、
その既読数が2になっている。

ネズミのメッセージ送信時刻は11:10、
ワニの送信時刻は11:11

この時ネズミのLINEの画面は以下のようになっていたはず。

11:10(桜の写真)[既読 2]<
11:10「よくね?」[既読 2]<
11:11 ワニ>スゲー!?
11:11 ワニ>春に来たって感じ


しかしそうであるならワニの画面は以下のようになるはずである。

11:10 ネズミ>(桜の写真)
11:10 ネズミ>「よくね?」
11:11 スゲー!?[既読 2]<
11:11 春に来たって感じ[既読 2]<


「よくね?」がないことは最初は単なるミスだと思ったのだが、
何度か見返すと「よくね?」というメッセージがなんだか意味ありげで、
そのメッセージが表示されている画面が1コマ全体を使って描かれていて、
ワニのスマホにそれを書くのを忘れるというのは考えにくい。

「春に来たって感じ」は文章としておかしく、
本来なら「春が来たって感じ」というところだと思うが、
これは単なるミスかもしれない。


このように二つのLINEの画面に矛盾があることから、
何人かの人たちが実はネズミがバイクに乗って写真を撮っているのは
ワニが死んだあと、1年後あるいは数年後の同じ時期だという解釈をしている。

ワニは死んだがグループには登録されたままなので、
グループ登録人数は3で、既読は1しかつかない、というのである。

なるほど、既読が1であることに意味を持たせるならそういう解釈をしたくもなるが、
あまりに強引ではないだろうか。


たとえば、最後のワニのLINEの画面がメッセージを入力して送信する途中だった、
とかならわかる。

でもメッセージは送信されて既読になっている。

ということは、この画面で伝わることは、
ワニが桜の写真を見た1分後にはまだ生きていてメッセージを送った、
ということしかない。

わざわざネズミとワニのLINE画面を両方見せる必要性がわからない。


それから、ヒヨコが道路を渡ってワニが倒れているシーンの最初のコマの端の方に、
横断歩道とその上に何か四角いものとその横に黒い丸いものが見えている。
これをほとんどの人がヒヨコを轢きそうになった車であると解釈しているのだが
私にはどう見ても車に見えない。
まあ道路上にあるものといえば車なのだろうが、
どうしてあのようなわかりにくい見せ方をしているのだろう?
車だとするとその左に見えている黒い丸いものはタイヤだろうか?
....今ようやく理解したのだが左折してきた車を描こうとしたのか?

だとしたら下手すぎる.....
この漫画はヘタウマ風な画風であるが、「車が左折してきた」という情報が伝わらなければもうヘタウマではなくただのヘタだ。

道幅とやヒヨコとの位置関係から左折してきた車ではありえない位置と向きだ。

そして、どうしてネズミを、ワニが死んだと思われる「百景坂交差点」まで来させたのか。
これにも何の必然性もない。

LINEで交信しているのだから地理的に離れていてもコミュニケーションはリアルタイムに成立していて、
だから既読になる・ならないが相手の状況を伝える重要な情報となる。

しかし地理的にも時間的にもネズミとワニはほぼ同じところにいる。

「ネズミのバイクがワニを轢いた」という解釈をしている人までいる。
しかし、そういう解釈をされても仕方のないような表現を作者はしてしまっている。


そしてどうしてこんなにもわかりにくくしたのか...。

あからさまだったり説明的すぎることを避けたかったのだろうが、
これでは何がなんやらさっぱりわからない。

作者が何かしらミスをしているのではないか....

もしくは、様々な解釈が生まれるようにあえて矛盾を仕込んだとか....


2020/02/15

パラサイト

JOKERがアカデミー作品賞確実とかいう噂を聞いていたが1917という日本では未公開だがすごい映画があるという話を聞き、さらに、韓国語の映画なのに史上初めてノミネートされたというパラサイトという映画があるというのを知って観にいこうかなと思っていた翌日に作品賞を受賞したというニュースを見た。

その日の夜に見に行った。混んでいたので22:00ごろから始まる回だ。

ほぼ満席だった。

作品については、監督から俳優からストーリーから何から何までまったく知識がない状態で観た。

わかっていたのは韓国の映画であることとアカデミーの作品賞をとったということくらいだ。

あと、宣伝文句みたいなものから「万引き家族」と似たような映画で、あまり明るい話でないのはわかっていた。


私は絵にかいたようなサクセスストーリーとかハッピーエンドよりも悲劇的な話の方が好きではあるが、残酷だったりグロテスクだったりするのは嫌いだ。

そしてパラサイトは残酷でグロテスクな映画だった。


映像の美しさや構成(映像もストーリーも)のおもしろさなどはなるほどとは思ったが、

観終わった後の後味はあまり良いものではなかった。

2020/01/10

JOKER

たしかおととしに「ダークナイト」を今更ながら初めて見たのだが感心した。

そして去年「JOKER」が話題になった。
ジョーカーが主人公の映画だという。
いわゆるスピンオフというものか。


観ようと決めて上映スケジュールを確認しているときに初めてロバートデニーロが出ているのを知った。

映画が始まってだんだん、「タクシードライバー」の雰囲気を感じ始めたが、後でwikipediaを見たらそれは意識されていたことらしい。

あと、「時計仕掛けのオレンジ」も思い出した。


観ていて退屈することはなかったが、思っていたより悪を掘り下げていることもなかった。

ジョーカーは不幸な境遇ゆえに悪人にならざるを得なかった、という、
言ってしまえばつまらない話でしかなかった。

ダークナイトの時のジョーカーの悪に対する執念というか、忠実さとさえいえる徹底ぶりの方が強く印象に残っている。

本作ではジョーカーが人々を殺していくのに、ある程度正当な理由がある。

そして映画はそんなジョーカーが英雄視されるような描き方がされる。

あくまでも映画の中で民衆が彼を支持するというだけなのだが、
その必然性というか、そこまで人々の心をとらえるような強いものがあるとは感じられなかった。