2010/07/02

文学論

2007/04/05(Thu) 00:41

文学とは笑えない皮肉であるというのが私の定義です。
笑えないというのはしゃれにならないとか不謹慎とか言う意味ではなく、
皮肉のように事実をそのままではなく遠まわしにほのめかす、これが文学の真髄だという意味です。
さらに詩は、笑えない駄洒落である。
詩は韻を踏んだり文字数を合わせたりしますが、
これは駄洒落と同根なもので、駄洒落でもおもしろおかしくない、まじめくさったことを書くのが、
もっというと無意味な事を書くのが詩であると、気づいたのです。

私は趣味というか自己鍛錬というか狂気の防止のために読書をします。
読む事も書くことも仕事ではありません。

仕事でも話したり文章を書いたりしますが、当然ながら文学と事務の文章は別のものです。
事務では遠まわしにほのめかすのは厳禁で、読み手によって受け取り方が異なるような文章を書いてはなりません。
味気なくてもくどくても洗練されていなくても、簡潔にして明快で味も素っ気もない文章でなければなりません。

しかし、私は事務でも悪い意味で文学的な文章をよく目にします。
人が事務で文学的になってしまう時というのは、言うに言えないことを言うときです。
それは弁解だったり愚痴だったり文句だったり罵倒だったり拒否だったり依頼だったりしますが・・・

2007/04/12(Thu) 00:16
MicrosoftWordで、助詞「の」が連続して使用されると、「の」が連続しているという注意を受ける。たとえば、「私の家のトイレのドアが壊れた」とか。また、行頭に英単語を書くと、先頭が大文字、2文字目が小文字にされる。この機能はオフにすることができるが、非常にわずらわしい機能である。ほかにもいろいろチェックされる内容はあるが、この二つは特にイライラする。助詞「の」の連続については、いったい誰がそんなことを不適切だと言っているのか、つれて来い、と言いたいくらいだ。

私は文章の書き方についてはちょっとこだわりがあるし自信もある。

川端康成がノーベル賞を受賞した時に「美しい日本の私」という題名の講演をおこなった。このときある記者が美しいという形容詞は日本と私のどちらにかかるのか、という質問をしたらしい。川端康成は確か何も答えなかったと記憶している。どこのバカが「日本にいる私という人間は美しい」などという題名の講演をするだろうか!!!!しかも、ノーベル賞、それも文学賞だぞ?

このような表現は、日本語にはよくあるが、それを日本語の欠陥であるとするのは、アサハカである。このような表現は、使用されている単語からどのような意図であるかを汲み取るのである。そう、これが大事な事である。私も最近気づいたのだが、日本語に限らず、言葉というものは、何が書かれているかではなく、何を言おうとしているのかを読み取らないと、理解できない。英語だろうがドイツ語だろうが、誰が読んでも全く同じ解釈しかできない文章などというものは、存在しない。その文章が書かれた場所、誰が書いたか、いつ書いたか、誰に向けて書かれたか、そういうことを総合的に考慮していったい何を言わんとしているのか、と理解せねばならない。もちろん、書き手にも何を言わんとしているかを誤解されぬように伝える努力は必要である。

この時、言わんとすることというのは、何も事実だけとは限らない。ニュースや論文、契約書では言葉は事実を伝達するメディアに徹するが、文学的な表現ではメディア自体が表現に含まれてくる。このことを、「文学はわざとあいまいに表現して読み手に解釈をゆだねる」というのは間違いである。わたしもそう思っていたことがあったが、そうではない。あいまいにするのは事実だけであって、伝えたいイメージや感情、心情などはあいまいではないのである。「ほのめかし」は文学の基本要素であるが、ほのめかすこと自体が目的ではない。

このことを意識したのは、ニューロマンサーを読んだ後、暗夜行路を読んだ時である。どちらも読むのに苦労した。暗夜はまだ終わっていない。この二つのまったくジャンルの違う作品には、一文が短く、説明的描写が非常に少ないと言う共通点がある。そのため、一つ一つの文章を取り出して凝視してしまうと、作者の意図が見えなくなる。短い文章の連続によって、作者の表現したいものがあぶりだされていく。一文一文から受け取られるヒントのようなものを積み重ねて、ある一文でボン!と具象化する、そのような読み方が必要だ。

しょせん文学はフィクションである。どんなに精密に組み立てられていたって、それは作者が頭の中ででっちあげたものである。誰が死のうが、失恋しようが、泣こうが笑おうが作者のサジ加減一つだ。それを人に話してニヤリとさせる、そういう「ゴッコ」であるから、こちらも乗ってあげないと成立しない。

08/04/10(Thu) 20:48
U氏のブログに、文学とは何かということをほとんど説明していると思えるような話が載っていた。あんな先生に教わってみたいものだ。文学というのは、何か伝えたいことを文章によって表現するものであるが、そのときのことばという媒体は、電気信号を伝えるケーブルのようなものではない、ということである。それは、伝えたいことが非常に複雑精妙であることもあるが、それも本質ではない。ごく単純な簡単なことでも、芸術作品としての文章と、たんなる伝言とは違うのである。

08/05/09(Fri) 19:08
二人のU氏に文章の書き方のヒントをもらった。一人のU氏には実演を見せてもらい、もう一人のU氏にはその仕組みを、有名な作家を例に説明していた。その作家の作品も読んでみた。そしてそれらを私なりに解釈してみたので整理してみる。

たぶん、一人のU氏は無自覚に、自分の読んだ本や人との会話などからその感覚を身に着けているだろう。もう一人のU氏は大学教授だから、その仕組みを研究して論理的に他人に説明しようとしてる。もしかしたら私はU教授の伝えたいことを理解していないかもしれないが、それでも、私は彼の話をヒントに重要なことを気づかせてもらった。自分でそれができたかなと思ったのは、駅でベビーカーを押していた男に進路をゆずった話を書いたときである。いつもなら、このように書いていただろう。

「駅で電車を待っていたらベビーカーを押した男が来た。よけるつもりはなかったが男がいっこうに進路を変える気配がないので、しぶしぶ後ろにさがった」

しかし、U氏達からのヒントをもらって、このように書いた。

「駅で電車を待っていたらベビーカーを押した男が来た。『子供がいるからって別にお前が偉いわけじゃねえだろ。絶対ゆずらねえぞ』。1m手前まで来たところで3歩後ろにさがった」

自分の心の声と、1mとか3歩とかいう具体的な数字を書いているのが違うのは、すぐにわかる。しかし、本質的な違いは、具体的かどうかということではない。視点を、自分の目ではなく自分を含めた情景を見るように変えているのである。簡単に言ってしまうと「自分を客観的に見た」ということになる。ただそれだけかもしれない。それがようやくできたのかもしれない。でも、自分の手ごたえとしてはただそれだけではない。

坂口安吾が太宰治について、「マイコメディアン」になりきれているかどうか、という観点から、作品のよしあしを判断していたのを読んだことがある。それによるとなりきれていたのは、魚服記、斜陽などで、人間失格は「二日酔い的」でダメで、「あれは見せちゃいけない」というのである。

これを読んだときにも私は、要するに自分を客観視できているか、第三者として書けているか、というようなことだと理解していたが、そんな簡単な話でもないかなとは思っていた。

最近お笑いやフリートーク番組がはやって、「ボケとツッコミ」という概念が広まった。先ほどの例でいうと、最初の例はツッコミが過剰で説明的なのである。後の例はゆずる男をボケさせ、さらに「結局譲ってんじゃねえかよ」というツッコミを読者の心に引き起こしている。そこがおもしろいのである。

こうすれば、何気ない日常の出来事が小話として成立する。「オチがない」というのは、ストーリー的にどんでん返しがないということではなくて、描写のしかたのことを言っているのであると、最近ようやく気づいた。

08/05/09(Fri) 19:09
文学には描写の要素があるが、描写ではない。私は小学生の頃作文が苦手だった。まず、何も書けない。書くことがない。原稿用紙3枚なんて、とんでもない量だった。その頃は作文というのは情景描写であると思っていたし、先生もそういうものだと説明していた。しかし、文章を書くというのはカメラで景色をフィルムに焼き付けるというよりも、映写機でスクリーンに映しだす行為に近い。自分から写しだしていくのである。受動的ではない、能動的な行為なのである。

悪く言うと、「口からでまかせ」という感じである。その感覚をつかむと、便秘が解消されたかのように文章が流れ出ていく。わたしも中学から高校にかけて、描写ではなく独り言のように書くことをおぼえて、文章を書くのが好きになっていった。もちろん、本当の独り言になってはいけない。言葉も、感情や論理をむき出しにしては、つまらなくなる。

感情を抑えるとはよくいわれるが、論理をむき出しにしてもつまらなくなる。それはいわゆる起承転結というか、全体の構成を考えることである。文章でも絵画でも、全体の構成を考えろ、ということはよく言われる。思いつきで書いていてはいけないという。わたしはこれが苦手で、そんな書き方はまずしたことがない。してもたいてい駄作になる。

全体のことはさておいてとりあえず突き進んで、なんとなく体裁が整うように取り繕うように、結果オーライな感じで進めた方が、いいものになる。そして、今にして思うと、それでいいのではないだろうか。プロの作家も画家も、当然構成を考えはするのだろう。しかしそれはソフトウェアでいう仕様書のようなもの、旅行の計画のようなもので、予定変更ややり直しや後付けが当然なのではないだろうか。

平野啓一郎の日蝕は、確か資料収集に1年だか2年だかかけたという話を聞いた。緻密な、何重ものプロットが隠されているという話も聞いた。でも、だからといって、その資料、構成、プロットにしたがって、プラモデルでも作るように機械的にくみ上げていったとは到底思えない。
絶対に、自由に、インスピレーションのわくままに筆を走らせていく工程があるはずだ。
そして、その工程なしに芸術作品は成立しえないはずだ。

09/06/21(Sun) 09:39
文学の主目的はストーリーではない。おもしろおかしいお話しを作ることではない。
人間としてあるべき姿を描くことでもない。
しかし、文章表現の巧みさを競うことでもない。
文章そのものは、やはり文学の手段であって、目的ではない。
真実を伝えることでもない。
「美の表現」、これが文学の至上の目的である。

09/06/21(Sun) 09:42
そのことだけなら、私もしばらく前にそうだろうな、と考えたことである。
しかし、それでも私を悩ませ続けたのは、「怪しからん話を書くこと」の是非である。
要は、「太宰治の作品は評価していいのか」ということである。

09/06/21(Sun) 09:44
私は、「美が究極の目的であるなら、美文で殺戮を描いた作品が文学として成立するのか」という疑問に答えが出せなかった。
答えはノーであるとは思うのだが、どうしてそれがダメなのかが説明できなかった。

09/06/21(Sun) 09:47
しかし、さっき床屋で髪を切られながら目をつぶっていたときにわかった。
表現するものは美であって善ではない。問題は表現されているものであって、
その媒体である文章ではない。「美しい文章」「美文」「文章がうまい」というのはよく言われるが、それはある意味「だけど怪しからん」「だけどくだらない」「だけど中身がない」などと、最終的には非難される場合に使われることが多いと思う。
芥川龍之介や三島由紀夫がそうである。太宰もそうかな。

09/06/21(Sun) 09:52
「美しい文章だ」というのは、「その文章が表現しているものが美しい」というのと、
「文章そのものが美しい」というのが混同して使われていると思う。
そしておそらく、「表現しているものは美しくないが文章自体は美しい」などということは、
ありえない。
人が文章を読むと、ただちにそれが表現しているものがその人の脳内あるいは心に浮かぶ。
人がその文章について評価できるのはその「浮かんだもの」に対してでしかない。

09/06/21(Sun) 09:55
いや、「美しい文章で醜いものを表現する」ということはありうるだろう。
しかし、そのときにいう「美しい文章」というのは、せいぜいが文法的に正しく、無駄がなく、矛盾がなく、言葉の選択が適当である、という程度のことである。
そして、そういう意味での美しさなら、新聞記者や論文を書く学者の文章にもあるのだ。
私のいう「文学」とは、「文章を媒体とした芸術表現」のことである。
評論とか、文学を学問として研究することを言っているのではない。

09/06/21(Sun) 09:57
表現されるものが至上目的であるから、それが美しければ、駄文であろうが、
誤字脱字、文法が間違っていてもよいのである。
そして、先ほど言ったような狭い意味での「美しい文章」を目指していると、表現するもの自体の美がおろそかになり、よく言われる「文章は美しいが中身がない」という失敗となるのだ。

09/06/21(Sun) 10:01
そして、映画、音楽、CG、写真、絵画などにはない、文学にしか表現できない美というものがある。
どんなに文明が進歩して、科学技術が発展しても、文学は永遠に無くならないだろう。
映画に匂いがついても、立体化しても、登場人物に触れたり会話したりできるようになっても、
温度や圧力まで感じられるようになったとしても。

09/06/21(Sun) 10:04
私は子供のころは、「本」を読むときにはそこから映像を描いてそれを見ていた。
木でできた人形が歩き出して、嘘をついたら鼻が伸びて、学校へ行かずに遊んでいたらロバになる・・・。挿絵もあったのだが、それを参考に、いろんなシーンを頭の中に映像化して楽しんでいた。

09/06/21(Sun) 10:06
しかし、その読書法は中学生の頃に破綻した。大人向けの本が読めなくなった。
そしてマンガばかり読むようになった。
マンガは美しかった。文学などは退屈極まりないものに思えた。
テレビや映画もある。文学なんて過去の遺物だ、不便だったときに仕方なく文字で書いたのだ、などとさえ思ったこともあった。

09/06/21(Sun) 10:09
よく言われるのが、「マンガ・映画などはイメージが勝手に頭のなかに入ってくるが、文学(たいてい「読書」という言葉が使われるが)は自分の頭を使って描く」ということで、
だからマンガを読んでテレビばかり見ていると馬鹿になるよ、と言う。
これは雑な言い方ではあるが、ほとんど真理である。

09/06/21(Sun) 10:13
しかし、気をつけなければいけないのは、マンガや映画の「映像」と、文学で表現される「映像」が同じものではないと言うことである。
マンガや映画では媒体が「映像」になっているだけで、表現したいものは別にあるのである。
そして、文学で表現しているのは「映像」つまり人の姿カタチや動作、風景、町並みなどももちろん含まれるが、それだけではない。それは音とか暑さ寒さとかというだけの話ではない。
それを見ている人の心理、そこから感じられる感情、心情、というものが含まれる。

09/06/21(Sun) 10:15
「マンガやテレビで馬鹿になる」というのは、その媒体にすぎない映像が、本当に表現したいものだと勘違いしてしまった場合である。
そして、実際にマンガやテレビにおいては、表現者自身が勘違いしてしまっているケースが非常に多い。
文学では表現目的がわかっていないと話にならないが、マンガやテレビではそれらしい姿かたちを並べればなんとなくカタチになって成立してしまうからだ。

09/06/21(Sun) 10:22
いわゆる「大衆文学」と「純文学」の違いもそこである。
純文学かどうかというのは、表現しているものが単なる見た目の美しさや面白さであるか、
それを超えたものであるかによる。
「見た目」というのは単なる視覚的という意味ではない。
心理や感情といったことを描けばいいわけでもない。真理や感情にも皮相的なものがある。

09/06/21(Sun) 10:42
さあ、ここまではごく常識的なところだろう。
問題はここからである。
芸術と道徳は相容れるのか?
もっというと、芸術と信仰は相容れるのか?
と言う問題である。

私は二十歳の頃に、「相容れない。芸術は堕落だ。」
という中世の教会のような頑迷な結論に達し、
それ以来社会を腐敗堕落した愚か者が築いたむなしい虚像であるとみなして
あざ笑いながら生きてきた。

09/06/21(Sun) 10:43
その考えは今もほとんど変わっていない。
芸術なんか、不良のやるものだ。
芸術なんか、弱虫の、負け犬の慰み者だ。
もしくは、金持ちが暇つぶしにやる道楽だ。
そう思っている。
でも、そんなはずはない、とも思っている。

09/06/21(Sun) 10:45
許せないのは、そういう迷いも悩みも感じることなく、
教養のために芸術をたしなんでます、アレはいいよね、
たまにはこういうものもたしなまないとね、
などと語っている奴等である。

09/06/24(Wed) 23:44
文学の本質はどういうものかを語った言葉で覚えているものが二つある。
ひとつは浅田次郎で、夜焼きそばを作ろうと思ったときに、突然世界が降りてきた、というものである。
「世界」という言葉だったかは定かでないが、とにかく、ストーリーでも人物でもない、ある全体的な雰囲気のようなもの、
それを表現することが小説だというのである。

もうひとつは、また太宰である。
これは何かの作中の言葉であるが、濡らした紙にさっと写し取るような、というような言葉。
これも正確な言葉は覚えていないが、やはり、部品を積むようなものではない、
全体を捉える、表現する、ということだ。

09/06/24(Wed) 23:48
「素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、そのままに紙にうつしとること」

富嶽百景でした。

Mon Apr 26 04:47:54 2010
「箇条書きでいいから」

というのは、仕事をしているとよく聞く言葉です。
学校でもあったかな?

これは、箇条書きで事実を羅列することは、まとまった文章を書くよりも簡単であると、人が考えていることをあらわします。

しかし、本当にそうでしょうか。
わたしは、むしろ箇条書きにするほうが大変で、
意図も伝わらないので不便だと感じます。

Mon Apr 26 04:51:38 2010
多分、ふだん文章を書かない人、文章は他人に用件を伝えるためのものだと考えている人にとっては、箇条書きのほうが簡単なのかもしれません。

私は、このひとり掲示板もそうですが、書いているうちに思考がまとまるということを何度も経験しています。
自分が考えていること、体験したことをそのまま描写するような文章は、あまり興味がありません。

私は、自分の中にある、形の無いもの、意味がわからないもの、どうしようもないものを、
言葉にすることによって、安心するのです。

それは、仕事でもないし、奉仕でもない。
祈りのようなものかもしれない。

Mon Apr 26 04:54:48 2010
祈りというのは、自分や他人によかれと、幸福が訪れよと、お願いするものではない。
祈りとは、決意表明であり、神への慰めであり、賛美である。

文章も同様である。
行動も同様である。

われわれのすべての行動、発言、書く文書、それらは、祈りなのである。
思考を描写するようなものではない。

行動すること、言うこと、書くことによって、自分が作られていく。
書くことそのものが、自分なのである。

Fri Jul 2 07:18:23 2010
作家がある状況を描き、何人かの人物を登場させて何かを語らせる。その発言が抽象的で、特定の主義や思想を語るような場合、それが小説であり、架空の物語であり、作者が作り出した虚構であることが意味を持つ。
虚構であるように見せかけて作者の言いたいことを語る場合もあるだろう。逆に、ある思想が滑稽だったり醜悪だったりあるいは非現実的だったりすることをあらわにする効果もあるだろう。

Fri Jul 2 07:20:04 2010
だが、多分たいていの場合は作者もわかっていないのだ。登場人物に語り合わせてみて、何か新しいものが生まれる。または、語り合っても何も生まれない、ということがわかる。二人で徹底して語りあった後に、お互いが主張していたことと全く関係のないことに意気投合するかもしれない。