2010/10/10

三島由紀夫 「天人五衰」

ノーベル文学賞を村上春樹氏が受賞するんじゃないかとここ数年言われ続け、特に今年はどこぞのオッズが2位になった、などというニュースもあった。

私は彼の作品を3作読んだが、「なるほど」と思う程度だった。ノーベル賞をとるほどの作家か?と思っている。

だがその前に、そもそもノーベル文学賞がどれほどのものなのだろうか。

国境を越えて世界に読まれるのは光栄なことだろうが、それは作品が売れるということで報われる。

誰がどんな基準で選んでいるのか知らないが、いったい何様なのだろうか。


私は村上氏を好きではなく、どちらかというと嫌いなほうだが、かといってノーベル賞が偉大な賞であるとも思っていない。

ノーベル賞をとらなければダメ作家なわけでもなく、とったら偉大な作家だというわけでもない。

川端康成と大江健三郎。

この二人が日本文学史上の最高の二人である、という意見には異を唱える人も多いだろう。

わたしは特に大江氏が好きではない。

彼の作品は少しだけ読んだことがある。「われらの時代」という作品である。
それから「セブンティーン」という短編も読んだ。

「われらの時代」はおもしろかった。予備校に通っていたときだ。
しかし、ひどい話で、「何を読んでるの?」ときかれて「あ、いやチョット・・・」と言えなかったくらいだ。

ノーベル賞を受賞する前のことだ。
「セブンティーン」は確か右翼をバカにしたような話だった。

それから彼は夜ウイスキーを飲み睡眠薬だかなんだかの薬をボリボリかじりながら小説を書いているという話をきいて、『この人の話をきいてはいけない』と、ほとんど反射的に敬遠するようになった。

それから数年後、彼がノーベル賞を受賞した。
そして「あいまいな日本の私」という川端氏を馬鹿にするような題名の講演をしたこと、
文化勲章を辞退したことなどが私を不快にさせた。

川端康成氏の作品は「雪国」「伊豆の踊り子」などを読んだ。
だが、これまた怪しからん話で、「雪国」でおぼえているのは「この指が女を憶えている」とかいう文だ。
その意味がわかったのはオトナになってからである。

そして受賞はしなかったが有力候補だったといわれる三島由紀夫。
彼は私の大好きな作家の一人であるが、彼もケシカラン男である。
日本文学史上もっともケシカラン男かもしれない。

だが、文学というのはそもそもケシカランものなのかもしれない。
いかにケシカランことを考えてそれを具象化するか、それが文学である、といってもいいのかもしれない。

三島由紀夫は、狙って「豊穣の海」を書いたのではないかと思う。
賞だけが狙いではなかったにしても、あわよくば、というのはあったと思う。
だが彼は自分は受賞できず大江氏がとるであろうことを生前に予言していたという。
すごい人だ。

「豊穣の海」は第四巻で破綻している。
あんないい加減な投げ出しっぷりは「ストップひばり君」と双璧だ。

「豊饒の海」が傑作であるという人を何人か見ているが、ほんとうに4巻を読んだのかと思う。

石原慎太郎はクソミソに言っていた。「あんまりひどくて涙出た」と言っていた。
彼が三島氏に可愛がられたのに死後けなすようなことばかり言っているのは不快だが、豊饒の海についての見解は私も同意する。

というわけで村上氏のノーベル賞については、どうでもよいと思っているが、
賞を狙ってリキまないで欲しいと思う。