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ヘッセ 「シッダールタ」

今朝目覚めて、朝食をとろうとして、飲みすぎた翌日によくそうなるように、牛乳が飲みたくなった。冷蔵庫から牛乳をとりだし、味噌汁の椀にそそいで飲んだ。飲みながら、仏陀がスジャータからおかゆだか何かをもらって悟ったという話を思い出し、『仏陀が悟ったことはこの牛乳のおいしさのようなものか』と考え、「シッダールタ」を思い出した。

新潮文庫の高橋健二訳を持っている。平成六年四十五刷のものである。一度読んでいるはずなのだが、内容はほとんど覚えていなかった。「シッダールタ」というのは仏陀のことかと思っていたが別人で、ブッダは「ゴータマ」として登場する。シッダールタは覚者と言われたゴータマに帰依せず、世俗で遊女や商人や渡し守と交わって過ごす。ともに修行していたゴーヴィンダはゴータマに帰依するが、老年になってシダールタと出合った時に悟りの境地に達していたのはシッダールタの方だった・・・。

禁欲や修行によっては悟りに到達できないというのはブッダについての辞書的な説明でも書かれていることである。ブッダは贅沢な暮らしをして家族も持った後に出家し修行したのちに悟った。シッダールタは修行していたが俗世間に戻って俗世間で悟りを得た。シッダールタは子を作るのだがその子もシッダールタで、ゴータマもシッダールタであるから、この作品には3人のシッダールタが登場する。

主人公のシッダールタは最後には釈迦の悟ったのと同じような境地に至ったかのように描かれている。ヘッセは、釈迦のような人物は一人の天才宗教家ではなく、同じような「悟り」に至った人が何人もいたと考えたのではないだろうか。釈迦が家族を持って裕福に暮らしており、苦行では悟りを得られなかったことからも、人はどんな生活をおこなってもそれが修行となり悟りに至れる、というように考えた。

おそらく、多くの人は悟りとか仏教というものについて、そのように考えていると思う。つまり常識的な仏教観である。

私の見解は異なる。やはりブッダは一人の天才宗教家であった。彼のおこなった修行、断食などの苦行はやはり悟りに至るために必要なことであった。それも、本作品の主人公のように修行の身から俗世間に戻るのと、俗世間から出家して修行をするのとでは全く意味が異なる。俗世間で欲望にまみれて生活することも苦行であり修行である、というのは聞えはいいが、やはりそれは煩悩であり堕落であって、悟りに至る道ではない。人間の欲望というのはやはり恐ろしいものだ。

「カラマーゾフの兄弟」でも、修道院にいたアリョーシャが俗世間へ出る。そしてそれは長老がすすめたことでさえあった。そもそも作家になるような人が俗世間の欲望を断って修道院で過ごしたり断食することをよしとすることはできないだろう。「カラマーゾフ」でも、アリョーシャは苦悩しながら真人間であり続ける。それが人のあるべき姿である、というのが常識人の考え、というか、そのように考えないと自分という存在を肯定できない。

私には「俗世間で生きることこそ修行である」というのは非常に危険というか虫のいい考えに思えてならない。

ちなみにこの作品を読もうと思ったのは、Pete Townshendがこれにインスパイアされて曲を作った、というのを聞いたからである。