2008/02/09

平野啓一郎

再び「暗夜行路」を再開したが、やっぱり激しくつまらない。びっくりするほどおもしろくない。なんてパサパサな文章だろう。なんて味のないストーリーだろう。どうしてこんなものが日本文学史上に残っているのだろう。インターネットやテレビやロックなど刺激の強いものに慣れすぎてしまったのだろうか。別に難解な言葉を使っているわけでもないのだが苦痛でたまらない。

「金閣寺」(について)

初めて読んだのは、中学生のとき、国語の問題集を解いていたときである。
「大人の文章だな」という印象だった。難しい文章、きいたことのない言葉、優しくなくて、悪く言えば高慢な感じ。その後新潮文庫で「金閣寺」を買って、高校生のころ寝しなに読んで見たがなかなか読み進まなかった。それからしばらく三島からは遠ざかって太宰とかサリンジャーとかドストエフスキーとか、その他感傷的な、センチメンタルな、博愛的な、みんななかよく俺はどうせダメな奴さ的な世界に浸っていくのだが、それにもうんざりして三島作品はめぼしいものはほとんど読むことになる。

平野啓一郎が「金閣寺」について書いたものがあるというのを、彼のブログで知った。
それは、こないだ「鹿鳴館」がTVで放映されたときに、彼自身が「鹿鳴館」について書いた本が出てますからとさりげなく宣伝していたのだ。私は劇団四季の「鹿鳴館」を見に行っている。三島由紀夫+自分の見た数少ない演劇+平野啓一郎となれば読まないわけにはいかない。
念のためどんな本なのかをアマゾンのレビューで確認すると、「金閣寺」についても、「日蝕」についても書かれているというので、これは読まねばなるまいと思った。

私は彼が芥川賞を受賞してセンセーションを巻き起こしたので普段買わない文芸春秋を買って日蝕を読んでみたのだが難しい漢字がたくさんでてきてすぐに読むのをやめた。しかし、若いことと、三島と鴎外を意識しているというので無視はできないと日蝕だけをひっぺがしてとっておいた。それから数年が過ぎて、古本屋で文庫になった「日蝕」を100円で買って、ようやく読むことができた。

そうそう、神とかキリストがテーマになっていたことも、看過できない理由のひとつだった。
特に、受肉したことに意味がある、というところに。

彼はタダモノではないのは間違いないが、三島の再来というよりは鴎外の再来だと思う。
三島のような無邪気さと天然ボケさがないから。

「日蝕」については特に文体について議論を醸したが、愚評もあってムカついた、とは書いていなかったがそんなニュアンスのことを書いていた。多分そのうちの1人は石原慎太郎ではないだろうか。文芸春秋ではいつも受賞作品について審査員がいろいろと述べる。私は作品は読まなくてもそこは読む。特に石原のコメントは読む。
彼は最近だいたい受賞作に対して批判的である。カタルシスがないとかよく言っている。ほめていたのは花村萬月くらいだった。「日蝕」もけちょんけちょんにけなしていた。実は私も否定的な印象を持った。文体も気に食わなかった。しかし石原の書いていた霊肉の相克は日本では問題とはならない、とかいうことには同意できなかった。

それから数年たって読んだときには、文体がそんなに難しいとも奇をてらっているとも感じなかった。別に私が成長したわけではなく、多分その後たんなる早熟なガキではなくて、立派な作家であることが世間に認められたので、私も謙虚な気持ちで読む姿勢になったのだと思う。

石原慎太郎は、三島の悪口もよく言っている。自分は三島に認めてもらって文壇に受け入れられたんじゃないのか。死んだ後に彼をあざわらうかのような思い出話を書いた本を読んでみたが、とても気分が悪く、それ以来彼のことをあまり信用しなくなった。