2011/09/12

トルストイ 「クロイツェル・ソナタ/悪魔」

「クロイツェルソナタ 」

二十歳の頃、トルストイを読んでみようと「復活」とかいろいろトライしたがドストエフスキーのようにはのめりこめず読めずにいた。「クロイツェルソナタ」も裏表紙にある概要からしても興味をそそられたのだが読めなかったのだが、古本屋で久しぶりに見つけて、最初に読んだ時はうっとうしかった導入部の車内の様子とかが逆に新鮮で、またタイトルの「クロイツェルソナタ」が話とどう関係があるのかも知りたくて読んだ。

ツルゲーネフの「初恋」のような独白形式である。小説としては作者が旅行中に列車のなかで出会った男が語るという形式になっているが、結婚、性欲、嫉妬、そして音楽についての過激な思想がぶちまけられている。

クロイツェルソナタといわれてもピンと来ないが、聴けばあああれか、とわかる有名な曲である。 

トルストイという人は若い頃放蕩をしたがその後は厳しい倫理家になったそうだ。 
しかし、私は今回「ソナタ」を読んで改めて思ったのだが、若い頃の放蕩は人を取り返しのつかないくらいにダメにする。妻を殺した男が前半に語る性欲の罪についての話は、ほとんどトルストイ本人の本音ではないだろうか。性欲をあそこまで罪であると憎んだのは放蕩の反動だろう。

若い頃左翼運動に傾倒したとか、ヤクザだったとか、とんでもない不良だったとか、それがある日改心して宗教家になった、などという話はたまに聞く。そういう人が書いた本がベストセラーになったりした。
ドストエフスキー、太宰からはじまってアウグスチヌスとかもそうだ。

パウロはどうだろう?パウロも改心した男であるが、彼はイエスを迫害していたとはいえ熱心なユダヤ教徒であり放蕩家ではなかったのではないか?だからイエスに選ばれたのではないか?後で調べてみる。

そういう、「改心者」の話を聞くと、結局その人の人間を作ったのは過去の悪行のほうで、語る時にもその悪行についてのほうを生き生きと自慢げに語りさえする。「あの時代があったから今の自分がある」などと。 

だが私は彼らを見て思うのは、単に若い頃思う存分やりたいことをやって気が済んだだけだろう、ということである。ドストエフスキーがいい例である。彼は根本は無神論者だ。彼の小説を読んで感動する人たちは、アリョーシャやゾシマ長老に感動するのではない。ミーチャとかイワンの無頼っぷりや懐疑っぷりに共感するのだ。

トルストイについてはまだ判断できる程読んでいないのだが、彼はもっと素直で、馬鹿正直で、情や欲望に流されやすい人で、それが読者に共感されるのではないだろうか。

あと、医者否定もキツいね。 
俺みたい。


「悪魔 」

20年前には読めなかった。経験がたりなかったのか。しかし、経験していないと読めないような話は、二流の作品ではないか?