2011/12/13

ポール・ヴァレリー 「ムッシュー・テスト」




「ムッシュー・テスト」
ポール・ヴァレリー  清水徹訳  岩波文庫

twitterでヴァレリーのbotをfollowしたら面白いので、ヴァレリーのものを何か読んでみようとジュンク堂へ行ったが、詩集と「・・・の危機」とかいうのしかなく、いまいち読む気がしなかった。

ある日新宿の紀伊国屋に行って(ハンズの横にあるやつ)、洋書コーナーのヴァレリーのところを探したら手ごろな厚さのものだったので選んだのが Monsieur Teste であった。
もちろん、歯がたたない。フランス語なんか、フランスギャルの歌詞くらいしか読んだことがない。

Monsieur Testeは邦題でなんというのか調べると、岩波文庫にあることがわかったのでジュンク堂で買ってきた。 

朝、喫茶店で2回、家で寝る前に一回、そして今日電車の中で読んだら読み終えた。
量としてはとても短い。
だが、久しぶりに読むに値する本を読んだと感じた。 

これはエッセイと小節と詩の要素を持ったもので、それらのどれとも限定できない。 

キーワードは、自己と支離滅裂。

透明というか、無意味というか、ストーリーのない、感情も意志もない、とらえどころのない文章である。

しかし、難解だとか、お高く止まってるとか、安易な権威批判とか感傷でもなく、非常に誠実な印象を受けた。

そう、誠実。
私が読書をするときに最も重視するもの。誠実さ。
それが、この作品にはある。

何を言わんとしているかは掴みきれてはいない。
そして多分、これは掴んだと感じたら読めていないという類のものだと思う。

「テスト」というのは、英語の testify にあたるもののようだ。試験のtestではなくて。

「安易なもの、簡単なものが嫌いで、難解なものを求めた」というようなことを言っているのだが、それは「そんなに簡単に言い切れない」という意味であって、決してよくあるような小難しい理屈を述べたり人と違うことだけを競うようなものではない。

ニーチェ、カフカ、村上春樹、太宰治、トーマスマン、などには誠実さを感じない。三島には感じる。誠実さとはバカらしさとほとんど同じである。こいつバカじゃないの、と言わせるような、滑稽とほとんど区別のつかないものである。

それが honnêt homme か。