HANA-BI

部屋を掃除していたらHANA-BIのDVDが出てきた。買ったものではなく、WOWOWで放送されたものをVHSテープに録画したものをパソコンで録画してDVDに焼いたものである。だから画面のハシにヘンな線が入っている。しかし、この映画を見ているときにそんなことは気にならない。この映画は、そもそも武自体がそういう人間なのだが、見事に絶望を描いている。武は絶望を体現している男である。同僚が殺されたからといって犯人をぶっ殺していいわけでもないし、銀行強盗して殉職した同僚の遺族を助けることが許されるわけでもない。それは、善悪の問題ではない。合法違法の問題でもない。心情の問題である。こんな見事な絶望は現実にはあり得るものではない。こんな生き方をしたら狂人である。ただの極悪人である。しかし、そんな生き方をしている彼は全く幸福ではない。毎日滅私の精神で我慢を重ねて生きている人の方が、おいしい食事を味わいささやかでも暖かな家庭の団欒を楽しみぐっすり眠っていることだろう。しかし彼は何の得にもならないことをして、自他をともに傷つけ破滅の人生を歩んでいる。いったいなぜそんな事をするのか。

武の描いた絵はどれも乾いていて冷たくて、これまた絶望した絵である。美しいね、すばらしいねと人に言わせることを拒んでいる絵である。たとえるなら、愛する人や子供に何かをねだられても何を買ってやることもできず、空っぽの財布を振っておどけるような、そんな絵である。

そういうときに、人はあきれて、愛想をつかして、怒る気もなくし、逆にかわいく思えてきたりする。そういう映画である、HANA-BIは。

空に吸われし


不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心

これは石川啄木の短歌で、中学の国語の教科書にのっていた。そのときはよく意味がわからなかったが、高校生になって部活で筋トレをやるためか何かで校庭に仰向けになったときに、もう夜で暗くなった空にモコモコしている雲を見ていて、まさに心をすわれるのを感じた。

ジョルジュ・バタイユ 「文学と悪」

私はバタイユの「文学と悪」という評論集を持っている。文庫本のクセに1300円くらいする。バタイユは三島から興味を持ったのであるが、いまだに彼の書いたものがよく理解できない。「文学と悪」についてはボードレールとかウィリアムブレイクとかについて書いている。そして文学というのは悪を描くもので、少年時代である、などというちょっと興味をひかれることを言っていて、つまりは彼も文学が「すばらしい」ものではないということを言いたいのだと、そこは共感するのだが、やっぱり今ひとつ理解できない。この本で最初に取り上げられている作家はエミリ・ブロンテである。「嵐が丘」を書いた女で、30歳くらいで死んでしまったらしい。そしてこの作品が、とんでもない悪を描いているというのだ。「嵐が丘」は松田優作も出た映画になったりもしていた。読んでみたが、途中でやめてしまった。共感できないからだろう。暗くて激しい作品のようだが、どうしても入り込めなかった。今日、もう一度読んでみようと思ったが本が見つからない。捨ててしまったか?

coffee and cigarettes

ケイトを見直そうとcoffee and cigarettesを見た。こんな人をdylanになんてやっぱり思いつかねえよな・・・と思っているといとこがやってくる。この女優ならまだわかる・・・・ん・・・?今日見たのはこの女優か?こっちがケイトだったのか?・・・ま、まさか!!

そう、これはケイトが二役やっていたのだ・・・・。すごい・・・。
参った。


というわけでcoffee and cigarettesを見直しているのだが・・・すばらしい。まず、音楽の選曲がいい。そして人間関係が複雑すぎない。特にこの映画ではほとんど漫才かコントみたいに二人の掛け合いである。ナンセンスといえばナンセンスだけど、最近の日本のテレビのお笑いみたいなあり得なさはない。わかりやすいオチもない。くだらない洒落やあるあるネタもない。しずかに淡々と、BGMにのって流れていく。

カンフーハッスル

テレビでやっていたので見た。少林サッカーと同じ主演・監督だったが、さらにスケールがでかくなっていた。半ケツとか、くわえタバコの大家の女房とか、オカマの仕立て屋の達人とか、キャラが素晴らしい。そして、一番見ごたえがあったのは琴を使う二人組みとの戦い。あれはすごかった。そしてそれを一喝してしまうババァ。

やっぱり映画っていうのはこういう明快でベタなほうがいいね。

最近よく思うのだが、どこかにこんなサービスないかな。大画面のテレビ(モニタ)と、デカイスピーカーがあって、防音設備もととのった部屋を、レンタルしてくれる。そこで、自分のDVDやらCDやらを鑑賞できるような。漫画喫茶じゃ狭いしヘッドホンだし。そのためにラブホテル入るのもヤダし。

I'm not there



I'm not there という映画で、ジャームッシュ映画で初めて見て気になった女優であるケイト・ブランシェットがdylanに、1969年ごろのdylanに扮しているのだが、どの写真を見てもそっくりである。レビューなどでもケイトの話題ばかりである。ケイトがすばらしいのではあろうが、彼女にディランをやらせようと考えた人はただものではない。監督の案なのだろうか?彼女が立候補したのだろうか?オーディションでもやったのだろうか?Dylanをプロテストシンガーだとか反体制文化の旗手だとかいう風にとらえるのはうんざりだが、どうやらこの映画はサラっとしているようなので、このまま眠くならなければ見に行ってみようかと思っている。たまには文化的な週末をすごそう。

予告編を見たら泣きそうになった。なんでだろう。

ケイトは素晴らしかった。彼女だけで撮ってもよかったんじゃないかっていうくらい。Dylanがらみの映画にはろくなモノがなかった。そのなかではマシだった。フィクションにしたのはよかった。

でも、この映画も他のDylan映画と同様に失敗作であるのは変わりない。失敗の原因は、ストーリーの核が定まっていないことだ。記者会見のような形式で語るランボーと、離婚することになる夫婦の話、この二つの柱が細く不安定なためだ。

そしてDylanの曲は映画のBGMにはならない、ということを改めて知った。ケイトは歌まではやらなかったようだが、あそこまでやるなら女声でもなんでもいいからLike a Rolling Stoneを見たかったな。

そんでdylanの曲がBGMのセックスシーンは気持ち悪い。
特に2回目のM字開脚のシーンは、何?

久しぶりに有楽町に行ったら駅前の交差点がつぶれて丸井が建っていた。映画館はビルの4階で看板も何もなくてわかりにくかったがきれいでいい映画館だ。今度no countryをやるらしいのでまた行こう。

町田康 「人間の屑」

これは私小説なのだろうか。串カツを売ったりして生活していた時期もあったのだろうか。無気力なようで非常にバイタリティのある男である。色川武大に似ている。猫に名前をつけて系図を作ったりするところは、相撲ごっこをする話を思い出させた。クスリの匂いとか、「屑」っぽいところも似ている。巻末にTという作家の解説がついていた。私はこの人が嫌いだ。高校生の頃2、3冊読んでおもしろいなと思ったこともあるが、今では全く読まないし、もう一度読みたいとも思わない。解説でも、悪魔の辞典を引用したり、思考実験とかSFとか俺は最初から認めていたとか言っていて不愉快になった。T氏的なものが町田氏にもないことはないが、町田氏の文章には、味というか品というか、湿り気というか、そういうものがある。T氏の文章はジャンクフードのようだが、町田氏のは高級品ではないが人の愛情のこもった手料理のような、そういうしっとり感がある。

絵本の思い出


08/04/21(Mon) 19:25

「きみとぼく」という絵本のことを、ふとした時に思い出す。我が家には、両親の教育方針のためだったのだろうが、絵本がたくさんあった。本を読むことは強制されはしなかったがとてもよいことだとされていて、本を読んでいるとほめられ、その本について話をするとよく話を聞いてくれた。本を投げたりぞんざいに扱うと怒られた。また、幼稚園でも毎週だか毎月だか土曜日に、絵本が配られた。それが非常に楽しみだった。私はおとなしくて友達もほとんどいないような子供で、家の中で絵本を読んでいることが多かった。「きみとぼく」はその中でも印象に残っている一冊である。ストーリーがおもしろかったとか、こころに残るセリフなどがあったわけではない。ストーリーもセリフもほとんど覚えていないが、その本のかもし出していた世界、多くは絵によっていたと思うが、友達がいなくて内気なサイと小鳥との恋愛のような交流が、今思い出してもうっとりするような静かな暖かい本であったのを、ぼんやりと覚えている。あらためてこの絵本について調べてみた。作者は今江祥智、絵は長新太である。二人ともたくさんの絵本を書いていて、それらも何冊か読んでいるはずであるが、この作品の印象はずばぬけている。1970年の作品である。私は2歳、今江氏は38歳で今の私と同じくらいのときである。ドンくさくてのろまでみんなに馬鹿にされて孤独なサイ。今でもそれに近いものがあるが、子供の頃の私はさらに酷かった。しかし、実はこの本を読んだ子供の頃にはそれほど感動もしなかったし別にどうってことない話だと思っていた。しかし、30年以上たった今でもまだその世界だけは印象に残っているということは、確実に自分の心には刻まれていて、自分を支えていたのである。




あともう一冊、強い印象の残っている本がある。これは挿絵はあったが絵本ではなく、確か小学1、2年くらい向けの本だった。陸海空を走ることのできる車を運転する話である。これは文学的な感動ではなく、当時はやっていたマンガやスーパーカーなどの世界にあこがれるのと同じような興味から読んでいた。タイトルも作者もすっかり忘れていたがキーワードで検索して「みつやくんのマーク X」であることがわかった。表紙の絵がカッコいい。これは子供が夢中になるのも無理はない。文が渡辺茂男、絵がエム ナマエという人の作品だった。渡辺氏は「しょうぼうじどうしゃじぷた」も書いている人だ。この本もよく覚えている。「もりのへなそうる」もこの人だったのか。2006年に亡くなっていた。「へなそうる」は変な題名なので覚えているが、中身は全く覚えていない。ちょっと狙いすぎな雰囲気を子供ながらに感じ取って読まなかったような記憶がある。「へなそうる」の絵を描いているひとが絵を描いた「いやいやえん」も出てきた。これも、赤い装丁も含めてよく覚えている。たしかわがままを言ってたらダメだよというような話だったと思う。あとは「ぐりとぐら」とか。傾向として、あまりお説教くさかったり波乱万丈があったりするような本よりも、たいしたストーリーはなくて絵がきれいで淡々とした本が好きだったようだ。あとは寺村輝夫の王さまシリーズ。これは高学年の頃でも読んでいて、高校か下手したら社会人になってから、図書館で探してやっぱりおもしれえやと笑いながら読んでいた記憶がある。

長さんは2005年、寺村さんは2006年に亡くなっていた。そしてエムナマエさんはなんと目が見えなくなっていた。1986年のことだから、「マークX」の時には見えていたのだ。しかし目が見えなくなっても今でも絵を描き続けているそうだ。

「マークX」は、実は実際に運転しているのではなくて、少年の空想なのである。模型を見て、自分が運転して空を飛ぶところを空想しているのである。だから、情景も透明で、抽象的で、静かで自由なのである。孤独でもある。子供のころは、そういう自由な無意味な空想をよくしていたものである。みんなそうだったはずだ。



町田康 「夫婦茶碗」

もう芥川賞作家になってしまった、町田康。彼のことを知ったのは、イカすバンド天国に出演していて私がけっこういいなと思っていたバンドの連中が尊敬しているということで名前を出したときである。そのときは町田町蔵と名乗っていた。ふざけた名前だなと思ったがアルバムジャケットの写真は真剣で純情そうな顔をしていた。彼の音楽も1枚だけ、聴いた。なんとかのヨハネとかいう曲が入っていたと思う。あと、飯を食わせろとか食うなとかいう曲とか。パンクというジャンルに分類されていたようである。おもしろいなとは思ったが、それほどいいとも思わなかった。

それからしばらくして、彼が小説を書いていることを知って、図書館などでちょっと読んでみたらとても面白かったのだが、それはナンセンスでシュールなお笑いのような面白さで、まさか芥川賞をとることになるとは全く思わなかった。芥川賞をとってしまうと、少し遠い人になってしまったような気がした。しばらく前にもNHK教育テレビで中原中也の番組に出ていたが、立派な作家としてまじめに中原の事を語っているのを見た。

U氏のブログで彼がほめられていたので、これはやっぱり本格的に、ただおもしろいというだけでなく、一流の作家の作品として、読んでみる必要があると思って、上野駅の本屋で新潮文庫を買った。「夫婦茶碗」は、読んですぐ思い出したのだが、一度読んだことがある作品である。真顔でおもしろいことナンセンスなこと自虐的なことを言う、私の目指している文章である。

芥川賞をとって立派な作家先生になってしまったからそう思うだけかもしれないが、この作品はふざけているように装っているが、実は芸術と生活についての深い考察を語っているのではないかと、前回読んだときとは違う感想を持った。

おそらく彼がこの作品を書いたのは、今の私と同じか少し若いくらいの時のものである。語彙や発想が、やっぱり只者でない。

映画 「ボヘミアンラプソディ」

私はクイーンが嫌いでiPodの中にも1曲も入っていないし、 今までレコードやCDもほとんど聴いたことがない。 ベスト盤か何かを借りたことはあったかもしれないが、 まったく興味を持てなかった。 彼らの曲はテレビCMその他で嫌というほど聞かされていて、 ボヘミアンラプソディ...