森鴎外 「阿部一族」

「結婚愛」が難航している。

合間に読んだ。

これも殉死の話である。ある大名が死に、その家臣たちが殉死する。鷹まで井戸に飛び込む。「阿部」というのは、殉死を許されなかった男であるが、許されていないにもかかわらず殉死する。

言うまでもないことかもしれないが、殉死とは切腹である。これまた言うまでもないことかもしれないが、切腹とは腹を切り、その後介錯人によって刀で首を落とすことを言う。

ある人によると、江戸時代の切腹はほとんど形骸化していて、腹を切るのはほんのちょっと或いはあてるフリをするのみで事実上刀で首をはねることになっていたらしい。

想像するだけで身震いするようなことであるが、本作品ではどうしても殉死したい人たちが登場する。『死ぬのは嫌だがそういう風習があるから仕方なく死ぬ』というものではない。皆、『お願いですから死なせてください』と、生前に殿様にお願いする程である。

許可されなかったのに、いわば勝手に殉死した阿部については、やはり正当な殉死とみなされず、家督相続で差別的な待遇をうける。そして殿様の一周忌で阿部の息子が抗議と受け取れる「髻を切って供える」という事をし、後日縛り首にされる。残った阿部一族は篭城するが、討手が来て滅ぼされる。

この作品には、死ぬことの葛藤がほとんど見られない。みな、死を恐れないことを競い合うようにしている。殉死の場面もあっさりと描かれている。

現代の我々には、まったく理解できない世界である。わたしは時代劇とか時代小説というものをほとんど見たり読んだりしない。「殉死」など正気の沙汰ではないと思う。だが、現代でも日本では1年に3万人もの自殺者がいるという。走っている電車に飛び込んで死ぬ者さえいる。その死は「殉死」ではなく、自分で勝手に死んだ、いわゆる「犬死」がほとんどであろう。そもそも現代で「殉死」が讃えられることがない。

しかし、命こそ捨てないまでも、人生を会社にささげているような人はいる。身も心もぼろぼろにして会社に忠誠を誓っている人たちを、私はたくさん見てきた。そんなことは馬鹿げている、ただの金儲けじゃないか、と思っていた。その考えは今でも同じだ。

でも、人は自分自身が幸福であれば、衣食住が満たされていれば幸福なのか、と言われるとそうではないだろう。人間には「意地」というものがある。最近すっかりきかなくなった言葉であるが。「意地」のためには寝食も忘れるどころか、その欲望が消え去る。食べなくてもいいのではなく、食べたくなくなる。「意地でも食べない」と思う。そういう経験なら現代の我々にもあるだろう。

私は自殺者に対して、安易に弱虫だとか卑怯だとか、迷惑をかけるなどということはできない。彼らも恐怖や自分の幸福を捨てて、意地を貫いたのかもしれないからだ。

陰影礼賛

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