2008/08/03

太宰治 「人間失格」

「人間失格」を読み直した。こんなに短い話だったのか。この小説について、実は壮大なボケであり笑わせているのだ、という説を聞いたことがある。確かに部分的にはそういう意図が見えないこともない箇所があるが、ほとんどは本当に苦悩し絶望した自身の生涯の告白だろう。画家を目指していたが売れず、誰かの亜流のマンガを描いていたとか、春画をコピーして売っていたとか、その辺はちょっと読んでいて悲しくなる。初めて読んだのは高校生のとき。それから20年以上たって読んでみて、当時はわからなかったことが、わからなくてよかったことだが、よくわかるようになった。10年くらい前にも読み直して、あらためて酷いハナシだと愕然とした記憶があるが、今読むとすっかりうなずけてしまう自分がイヤだ。たとえば、何度か出てくる「金の切れ目が縁の切れ目」の解釈。酒に溺れそれを自己嫌悪しながらやめられない心理と生理。酒を飲んで何かを忘れたいとか、飲むと眠れるとか、飲むと陽気になるとかいうようになったのはここ数年のことである。「失格」では、酒以外にもカルモチンとかジアールとか薬物の名前が出てくる。圧巻は酒をやめるためにモルヒネを注射するところだ。とにかく、二言目には酒が出てくる。そして最後、「お酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも」。酒が相当におそろしいドラッグであるというのは確かに同意するけど。

「失格」を読み終えた後、読みかけの「破獄」を読んだ。そして、太宰の文章との違いがほとんど肉体的な感覚に近く、感じられた。吉村昭の文章は、まるでルポルタージュである。実際、これは事実に基づいているからそうなるのも当然かもしれないが。そして、ルポルタージュと文学の違いというのがどういうことか、わかったような気がした。それは、言葉で説明するのはむずかしいが、感覚としてははっきりしている。「失格」のなかの言葉遊びのくだりで、「キミは詩(ポエジイ)を知らんね」というセリフがあるが、まさにそのポエジイというものが、太宰にはある。それは別に破滅的な人生のことではない。「破獄」を読んでいると、「失格」がなんだかおとぎ話のように、浮世離れしたものに、まさに「詩」のように感じられる。

あと、女について。さんざん女に世話になっておきながら、女をすっかり馬鹿にしている。だいたい名前が酷い。シヅ子、シゲ子、ツネ子、ヨシ子・・・。なかには定かでないものもある。特に「シヅ子」。これが太田静子を書いたものかどうかはわからない。ただ名前を借りただけかもしれない。でも、こんな風に名前を使われた彼女の心中はどんなだっただろうか。そしてそのシヅ子と暮らしているときに、二日ぶりに帰ってきて部屋をのぞいた後、また銀座に飲みに行ったというくだりには呆れる。ここは最近のテレビのトーク番組で爆笑をとれるネタである。

ヨシちゃんというのは、山崎富栄がモデルではないだろうか。私は彼女に非常に興味がある。写真をみたこともあるがとても美しい。そして強気で、純粋で、太宰が気に入るのもわかる気がする。ただ、太宰はあれかな、ちょっと深い仲になるとその人のイヤなところばかり見えてしまって魅力を感じなくなってしまうのかな。以前、太宰の心中未遂は実は心中なんかじゃない、というかなり説得力のある話しを読んだことがある。彼の作品にしばしば登場する罪悪感というものはそのせいなのだと。それもわかる。よーく、わかる。

私はもう太宰が死んだ歳を過ぎてしまった。芥川もとっくに。三島が死んだ歳も刻々とせまっている。その次は漱石。みんな若くして死んだんだな・・・。