「失格」を読み終えた後、読みかけの「破獄」を読んだ。そして、太宰の文章との違いがほとんど肉体的な感覚に近く、感じられた。吉村昭の文章は、まるでルポルタージュである。実際、これは事実に基づいているからそうなるのも当然かもしれないが。そして、ルポルタージュと文学の違いというのがどういうことか、わかったような気がした。それは、言葉で説明するのはむずかしいが、感覚としてははっきりしている。「失格」のなかの言葉遊びのくだりで、「キミは詩(ポエジイ)を知らんね」というセリフがあるが、まさにそのポエジイというものが、太宰にはある。それは別に破滅的な人生のことではない。「破獄」を読んでいると、「失格」がなんだかおとぎ話のように、浮世離れしたものに、まさに「詩」のように感じられる。
あと、女について。さんざん女に世話になっておきながら、女をすっかり馬鹿にしている。だいたい名前が酷い。シヅ子、シゲ子、ツネ子、ヨシ子・・・。なかには定かでないものもある。特に「シヅ子」。これが太田静子を書いたものかどうかはわからない。ただ名前を借りただけかもしれない。でも、こんな風に名前を使われた彼女の心中はどんなだっただろうか。そしてそのシヅ子と暮らしているときに、二日ぶりに帰ってきて部屋をのぞいた後、また銀座に飲みに行ったというくだりには呆れる。ここは最近のテレビのトーク番組で爆笑をとれるネタである。
ヨシちゃんというのは、山崎富栄がモデルではないだろうか。私は彼女に非常に興味がある。写真をみたこともあるがとても美しい。そして強気で、純粋で、太宰が気に入るのもわかる気がする。ただ、太宰はあれかな、ちょっと深い仲になるとその人のイヤなところばかり見えてしまって魅力を感じなくなってしまうのかな。以前、太宰の心中未遂は実は心中なんかじゃない、というかなり説得力のある話しを読んだことがある。彼の作品にしばしば登場する罪悪感というものはそのせいなのだと。それもわかる。よーく、わかる。
私はもう太宰が死んだ歳を過ぎてしまった。芥川もとっくに。三島が死んだ歳も刻々とせまっている。その次は漱石。みんな若くして死んだんだな・・・。