尾崎豊が死んだのを知ったのは、日曜の朝6時ごろに巣鴨駅のキオスクの前を通りかかった時だった。
私は当時サラリーマンであったが、給料が安くて浪費家だったので金に困っており、週末に日雇いのアルバイトをするようになった。
その日もアルバイトをするために早起きして巣鴨にある事務所に行ったのだが、事務所が閉まっていて、仕方なく家へ戻ろうとしたときだった。
キオスクの店頭にあったサンケイスポーツの大きな見出しに「尾崎」「怪死」という文字が見えた。
その新聞を買ったかどうかは覚えていない。当時はまだインターネットなどなく、携帯電話はあったかもしれないが私はもっておらず、ニュースといえばテレビ、新聞、ラジオで知るものだった。
私は尾崎豊が好きでよく聴いていたのだが、彼が死んだ頃には熱が冷めていて、ほとんど聴いていなかった。
1992年4月のことである。
その後、だんだん死んだ時の状況がわかってきて、死因は「肺水腫」だったということがわかった。
さらに、泥酔していて、全裸で民家の庭でのたうちまわっていたということだった。
そして、「致死量をはるかに超える覚せい剤が検出された」という情報を聞いて、私はやっぱり自殺か、と思った。
彼の死については他殺説などもあるらしいが、私は最初から今までずっと、自殺であろうと見ていた。
死から20年ほどたって、「遺書」なるものが公開されたが、あれはおそらくいつ死んでもいいように書かれたものであって、1992年4月25日に死ぬと決めて書いたものではないだろう。
「肺水腫」という死因にほとんど意味はない。問題はどうして肺水腫を引き起こすほどの泥酔状態と薬物の過剰摂取があって、全裸で転げまわるような状態になったのか、ということである。
ビルから飛び降りて死んだ人の死因が「脳挫傷」というのと同じようなものだ。
私は彼が自殺したと確信している。では、その理由は何か。
自殺の理由となるものには、生活苦、失恋、後追い、犯罪を犯した自責の念、などがあるが、彼の死の理由に具体的な理由はないと思う。
他殺説の根拠とされるあざだらけの写真があるが、あれは自分で転げまわって壁や地面にカラダを叩きつけたときにできたものだと思う。
遺作となった「放熱への証」は、気が抜けたというか、魂の抜け殻というか、まちがいなく尾崎豊がリリースしたアルバムの中で一番の駄作である。
自分でもその自覚はあったと思う。『俺にはこんなものしか創れないのか』という愕然とした思いがあったのではないだろうか。
それも死に駆り立てたひとつの理由かもしれない。
でも、アーティストとして才能が枯渇したからといって死ぬことはない。
やはり、彼にはほとんど生まれもっての希死念慮というものがあった。
いつ死んでもおかしくない男だった。
いつでも死んでやる、と思って生きていた男だった。
その覚悟を表明したのが例の遺書であった。
そして、その生き方による当然の結末がおとずれたのが、1992年4月25日だった。
そういえば、自殺の動機としてあげられるものがもう一つある。
それは抗議とか、自分の信念を表明するとか、身の潔白を証明するなどである。
僧侶が焼身自殺したなどというのがそれである。
尾崎豊の死も、それに近いかもしれない。