HANA-BI

思い出したこと。

2回目か3回目に気づいたことなのだが、最初のシーンは主人公の西が、自分の車のボンネットに座って弁当を食っていた若者を殴るところである。その若者達は後日ナイフを持って復讐に来るのだがそこでも西は彼らをぶちのめす。すると今度は、彼の車に赤いペンキで、「死ね」とラクガキされる。

・・・

そして、西は最後本当に死んでしまう。

確認しようと思って、昔焼いたはずのディスクを探した。確か、WOWOWで放送されたものをVHSテープに録画し、それをスゴ録の外部入力から録画して、DVDに移動したものだ。

音楽がいい。絵もいい。

さて問題のシーンだが、「死ね」は車ではなく、車を停めていた場所に書かれていた。

この映画は神がかっている。
最初に見たのはベネチア(だっけ?)でグランプリを獲ったニュースを見てしばらくしてからで、近所のレンタル屋でVHSを借りた。
そのときはあまり感じるものはなかった。

だが、あるとき、何気なくテレビのチャンネルを変えていたら、銀行強盗帰りのタクシーが走るシーンが映った。どっかでみたなと見ているとHANA-BIだった。

それをきっかけに、何度か見直すことになるのだが、
そのたびに評価が上がっていく。

そして武の映画は全部見て、新作は公開されると劇場で見た。

それらの作品と比べると、HANA-BIの絵(映像)は、別人が撮ったように違う。
本質はあまり変わりがないかもしれないが、映像の撮り方とか構図とか、技術的なものが、洗練されている。

銀行強盗のときもそうだが、車がただ走るだけのシーンが美しい。
ほかに車がなくて一台だけ走るからかな。武の映画にはよく出てくるよね、車が一台ツーっと走っていくシーン。
チンピラの復讐は、話が少し進んでから挟まれる。
こういう、メインのストーリーとはあまり関係のないサブストーリーのようなものを挟むことも、最近の武の映画には減ってきたように思う。

まあでも、今指摘したことはみんな技術上のことであって、彼の映画の本質はそんなところにあるのではない。HANA-BIみたいな撮り方もやろうと思えばできるだろうが、あえてそれをせずに新境地を模索している。

マンガ家も、だいたい新人の頃はリアルに書こうとするがだんだんデフォルメされていくように、自然でリアルな描写から、抽象的な描写になっていく、芸術とはだいたいそういう風に成熟していくのではないだろうか。

Frank Zappa "Guitar"

1. Sexual Harassment In The Workplace

素晴らしい。フザけた題だけど。
裏ジャケットの写真がかっこいい。あんな感じのイラン人が上野にうじゃうじゃいたよな、90年代後半。その後一掃されて、ダルビッシュみたいにイラン人の子がヒーローになってる今。


Disk2の、 12. Watermelon In Easter Hay

これもフザけたタイトルだけど。素晴らしい。
セクハラとこの曲、この2曲があるのでGuitarは大傑作になっている。
全体としてはshut upのほうがいいかもしれないけど。

セクハラがずっと頭の中に流れているが、それがいつの間にか違う曲になっている。これなんだっけとそのまま頭の中で再生していくと、dylanのwhat was it you wantedであった。

違う違う、と、またセクハラを再生するが、やはりwhat was...に変わってしまう。そのうち、アルバムではその次に入っているshooting starまで再生される始末。

私の脳内で、ですよ?

sexual harrasment in the workplace は、C#のブルースだった。
久しぶりにギターを弾いた。チューニングがあっていればだが。

村上春樹 「風の歌を聴け」

最初はフムフムなるほど、と思ったが途中からムカつき始めた。書いてあることにはまったく共感できないのだが、80年代、私が高校生、浪人、大学、社会人になる頃の、浮かれた世間、酔っ払った世間、軽薄短小、スコラ、GORO、イカ天、きまぐれコンセプト、金魂巻、そういう記憶がよみがえってきた。つぼ八、村さ来、日本酒、ゲロ、チノパン、ボタンダウン、ローファー、ワンレン・・・・

セックスを軽視する風潮、カタカナ、モラトリアム、透明、無表情、スカした感じ・・・

村上春樹を読んだ印象が、「ニューロマンサー」に似ている。「ニューロマンサー」を読んだきっかけになったのはあるブログの記事だったのだが、そのブロガーは村上春樹についてもよく書いていて、彼の作品が出たら即日入手して読むとか言っていた。彼は私とたぶん同い年でコンサルタントで高額所得者でアル中でたぶん***だ。きっと村上もバブルを描いたのであって、それが無機質というか虚無的というか、酔っ払いのたわ言のような変に理屈っぽくてナンセンスな語り口になっているのだろう、キザと言ってもいい。デビュー作なのでちょっと気負いがあったのではないか、ピンボールではキザさが抑えられて、いい感じだった。「羊をめぐる冒険」も買ってある、これは楽しみだ。

「ふぞろいの林檎たち」、「東京ラブストーリー」、「カーンチ、セックスしよう!」的な雰囲気も思い出した。あの頃はなんだったのかな、幸せだったのか浮かれてたのか、今よりまだマシだったのか、よくわからない。

あの頃、なんだかわからないけど、俺はあちこちふらついてた。タバコを吸いながら。大宮、川崎、南町、栄町、平日の昼間に。「カラマーゾフの兄弟」を読みながら。「死に至る病」を読みながら。インターネットもiPodもなかった頃。

村上春樹 「1973年のピンボール」

村上春樹の「1973年のピンボール」という文庫を買った。ついに、ムラカミの作品に手をつけた。一応、読んでおかないと。まだほんの始めしか読んでいないが、触れたことのない世界だ。意志や主張や感情がほとんど見えない、透明というか、軽やかというか、支離滅裂とさえ言えるような、不思議な文章だ。これって、パンクじゃないのか?

ムラカミは、1949年生まれだから、1973年というのは彼が24歳のときで、この作品が発表された1980年は彼が31歳のときである。若い頃の作品であるが、若いとかどうとかいう問題ではなく、私自身はもちろん、私の身の回りの人にも見たことのない、まるで異次元の世界のような、感性の違いを感じる。

たとえば、根性とか、友情とか、出世とか結婚とか、テレビのドラマや漫画とかにあるような涙とか抱擁とか、憎しみとか和解とか、そういう荒っぽいというか俗悪というか、べたべたしているというか、そういうものが全然ない。

毎日の事務的なことやケチな悩みをわすれるには、いいのかもしれない。

3連休中あちこちフラつく途中の電車の中で読了。軽い小説ではあるが、初めて彼の作品をひとつ読み通してみて、なるほど、これはひとつの特有の世界を形成していると感じた。先日読んだギャツビーを、彼が大好きなことは知っていたが、なるほど、似たような世界である。Jazz的な世界。あまり形式は重要ではなくて、メロディーさえ、アドリブの伏線にすぎないような、そういう世界。

読み終えて、いったい彼の作品の特殊さは、今まで読んできた文学との違いはなんだろうかと考えて、気づいたのが、登場人物達の魅力のなさである。
彼の作品に登場する人物達は、まるで新聞の折り込み広告のマンションの完成予想図に描かれている通行人のように、表情がなく、輪郭さえあいまいで、吐く言葉にはたいした意味も意志もない。

そういう、まるで石ころか街路樹であるかのような人間の描き方については、それはそれで新鮮で、美しいとさえいえるような世界を創り出していることは認める。

さて、私は彼の作品を気に入って次々に読むようになるだろうか?

今日、私は本屋へ行って、次に読むべき彼の作品を探しに行った。でも、どうしても買えなかった。彼が出している、小説以外の少しふざけたような本のタイトルを眺めていると、彼がどうしても好きになれないのである。

「ノルウェイの森」は、なんでかよくわからないけど大騒ぎになって、あの真っ赤と緑の表紙がどこの本屋でも平積みになっていた。ノルウェイの森・・・なんだそれと思って、立ち読みしてみると、なんだ、Norweigian Woodのことか、ビートルズの曲名それも邦題をタイトルにしていることでもう、読む気が失せた。

そして、題名のピンボールの意味を考えた。最初に「これはピンボールについての小説である」、と断っておきながら、なかなかピンボールが出てこない。出てきたのは多分、真ん中より後だ。たぶん、主人公達の生活がピンボールみたいなものだったと言いたいのではないだろうか。ピンボールというとどうしてもpinball wizardが出てくる。あれもきっと、いろんなものを象徴しているのだろう。狭い意味では音楽、大きな意味では芸術一般。芸術とはそもそも楽しいだけで何の得るものもないものだからだ。あとは、最後に台と会話なんかしてたから、女なのかな。でもそれはちょっと余りにも、という気がする。

どうやら初期の3作は三部作となっているらしいので、残りの2作をアマゾンで注文した。そして今朝、仕事にいく道すがら、「私は村上春樹が好きです」と人前で言うことは、あまりカッコのいいものではないのだ、ということがわかった。

今までは、村上春樹は読んだことがなかったので、何か聞かれても読んだことがないとしか答えようがなかった。批判すらできなかった。
しかし、1冊だけだが読んでみて、いろんな人からの評判を聞いて、だいたい彼の小説がどんなものかがわかった。今までも、話題になった人の作品を読んでみて、なるほどと思ったことは何度かある。石川達三、町田康、星川清司、平野啓一郎、綿矢りさ、大江健三郎、ガルシア・マルケス・・・

これらの人たちは、私と同時代に生きた人である。石川達三は訃報を聞いて読んだのである。私が読む本のほとんどは、過去の、それも18世紀とか19世紀とかの作品である。第二次大戦後の話が出てくると、もう最近である。

そして、そういう最近の作家、今生きているような作家の作品は、うかつに手を出せない、と思っている。私はまだまだ、文学のよしあしを冷静に判断できるほどの読解力も経験もない。だから、何がいいものかを知るために、名作・古典といわれているものを、苦労して読んできたのだ。そういう状態で、わけのわからないものを読んでしまうと、偏った感性が身についてしまうのが怖かった。村上春樹もその一人であったが、いまやノーベル賞をとるかというほどの作家になった。それで読んでみたのである。

悪い奴ほどよく眠る



NHK BS2で。テレビがおもしろくないしカゼぎみでだるいので見た。
19インチワイドディスプレイ、Sケーブルでの映画鑑賞を試す意味でも。
なんだかんだ文句を言いつつよく見ているクロサワ映画。
この作品はクロサワ作品のなかでもあまり人気がないようだ。
まず、汚職を暴くみたいな、三流ジャーナリストみたいな話なのがつまらない。
むしろ、映画は悪そのものを描いてほしいくらいだ。

西村晃演ずる下っ端の翻弄されっぷりは面白かった。

この作品がいまひとつすっきりしないのは、脚本が5人だか6人だかいたことではないだろうか。
各登場人物に、脚本家たちの言いたいことをおのおの代弁させているようで、メインの人物が定まらない。

メインが定まらないといえば、三船敏郎がめがねをかけて刈り上げてぴっちり横わけにしていたのも、
そういう役柄だとしても、あまりに地味で魅力に乏しい。

魅力があったのは西の義理の弟になる酒飲みのドラ息子だが、脇役でしかなかった。

クロサワ映画の嫌いな理由のひとつは、安っぽい正義感というか、体制批判みたいなものがあることだ。それはすなわち、芸術ではなくて娯楽に堕している理由でもある。そういう意味では、武は黒澤に勝っていると思う。絵の撮り方や話の作り方(脚本?)はクロサワの方が上手だけど。武のよさって、やっぱり彼の絵と同じようにヘタウマなんだと思う。

宮沢賢治と江戸川乱歩

私は小学生の頃、図書館で二人の作家の全集を読破した。
江戸川乱歩と宮沢賢治である。
江戸川乱歩のほうは、少年向けの「怪人二十面相シリーズ」である。たしか全43巻くらいだったと思う。
宮沢賢治は12巻くらいである。
途中から、全部読むことが目的になったようなところがあって、上の空で読んでいた部分もあると思うが、この二人から多大な影響を受けたのは間違いないだろう。

小学生のとき、「家庭学習」というものを義務付けられていた。
これは普通の宿題ではなく、みずから勉強することを決めておこなうものである。

わたしはある日、家庭学習として、宮沢賢治の詩をノートに書き写した。
そのうちのひとつは「永訣の朝」である。
これは若くして亡くなる妹について書かれているため、子供ながらに強い印象を持った。

だが、今読み返してみると、悲しくはあるがまた非常に美しい詩である。
描かれている情景、雪、曇り空、松の木などもそうだが、
賢治の語りとその合間に挟まれる妹の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」などの岩手弁が、音楽のようにながれるようなリズムで刻まれている。

あと、「だめでせう」。
これは眼にて云ふの書き出しであるが、
これも強烈に覚えている。

ミスチル

Mr.Childrenのアルバムで聴いたのは、 Versus Atomic Heart 深海 シフクノオト iPhoneにはいっていたのはシフクノオトのみである。 シフクノオトは、店でCDを買った。 ミスチルはイノセントワールドで一躍有名になったが、 私は...