岩波文庫の小林秀雄訳。
高校生のときに一度読んだはずだがほとんど記憶がない。
久しぶりに読んでみたが、やっぱり、意味がわからない。
これは散文なので、韻文の詩よりは少し内容が把握できる。でも、やっぱり非常におぼろである。
文体が古めかしく小難しいのは小林秀雄の訳文のせいだろうか?
でも、これは19歳の頃に書かれた物である。少年が書いたと言ってもいい。
一人称が「俺」になっているのだが、日本語の「俺」は少し悪すぎるというか、フォーマルでなさすぎるイメージがある。
フランス語では je であって、英語の I もそうだが、それはおそらく非常に透明というか軽い言葉であるはずだ。それを「私」「僕」「わたし」「ぼく」「俺」などと訳すのは訳者の受ける印象によるだろう。
金子光晴訳の「イリュミナシオン」も持っているが金子は全部「僕」にしているようである。
よくわからないのだが、少なくともランボーは世界を手放しで美しい世界だとは見なしていない。それどころか、何があったか知らないが、自分も、フランスも、何もかもがくだらなく醜く無意味に見え絶望していたようである。まだ十代だったのに。
彼がいくら天才だったとしても、私には小林秀雄の文体は堅苦しく老人くさく思える。
でも、1938年から今まで、改版をしながらも読み継がれていることからしてやはり名訳なのだろう。
もしくは、誰もわからないからなんとなく独特の雰囲気のあるこの訳を読んでわかったような気になっているだけなのかもしれない。
「地獄の季節」の表題だが「飾画(Les Illuminations)」も収められている。こちらの方が分量は多い。
全然意味がわからない。並べられる言葉がなじみがなさすぎて何のイメージも湧かない。「飾画」からして、わからない。「イリュミナシオン」だと、イルミネーションを連想する。
エジソンが電球を発明したのは1879年で、ランボーが25歳のときだ。「イルミナシオン」が書かれた時期は不明だが1875年にはもう詩を書くのをやめていたそうだから、少なくとも現代の電飾のようなものではない。
「地獄」にくらべて、絶望感や反逆性のようなものは薄く、わたしがイメージする一般的な詩に近い。色を表す言葉がよく出てくる。しかし、やはり、ランボーの詩からしっかりとした情景を思い浮かべることはほとんど不可能である。