岩波文庫、久保勉訳。
古本屋の店頭で100円で売られていたものだがきれいで読んだ形跡がない。
「饗宴」は非常に有名で、高校生くらいの時に必読図書だとどこかに書いてあったか誰かにすすめられたかしたものであるが、読んだことはなかった。読みかけたことはあるがやめてしまった。
ただ、この中に、「人間はもともと男女が一体だったがそれが切断されてお互いを求め合うようになった」という話だけは知っていた。
私はソクラテスものが好きで、古本屋の100円コーナーなどで見つけては読んでいる。「国家」は気合を入れて新品を読んで、感動したというか恐ろしくなったのを覚えている。
「饗宴」は、ソクラテスを含む何人かが「エロス」について語り合う内容であるが、その様子はそのまま描写されるのではなく、そこに同席した者が思い出して語るというまだるっこしい形式になっている。そういう形式をとった理由については、「序説」というのが40ページくらいあって書かれているのだが途中まで読んでやめて、本編を読んだ。
居合わせた者達が「エロスを賛美しよう」ということになって、順番に語っていく。「エロス」というのは神の名前としてである。有名な、男女が一体だった話をするのはアリストファネスである。これは歴史の教科書に出てくるあのアリストファネスのようである。あらためて聴くと馬鹿げた話で、喜劇作家だからか、と思わせる。ちなみにその昔の人間の姿には男女がくっついたものだけでなく、男同士、女同士がくっついたものもあり、同性がくっついていたものは同性を求めるということも語られている。
ソクラテス以外は皆無条件にエロスを賛美するのだがソクラテスだけは少し違って、「エロスそのものが美しく善いものだ」という考えに疑問を呈する。そして、ディオティマという婦人に聞いた話として、エロス賛美というか、愛、美、善の本質についての話がされる。
訳注によるとこのディオティマという人物は創作だろうということである。しかし、どうしてこうまだるっこしいことをするのだろう、プラトンは。
ソクラテスによると、愛するというのは対象を所有し生殖することによって滅ぶべき者が永遠を手にすることであるという。さらに、それは肉体的なことにとどまらないという。
そしてソクラテスが語り終えた後にアルキビヤデスという若者がやってきて、ソクラテス賛美を語る。その時に、彼はソクラテスと一緒に寝たが何もされなかった、ということを語る。
ソクラテスものを読んでいると少年愛の話が出てくる。アルキビヤデスが何もされなかったというくらいだから、この少年愛には肉体的な行為が伴っていたのだろう。
私はいつも、この少年愛に引っかかる。生殖を目的とした愛よりも、生殖以上のものを目的とした愛の方が高尚である、という考えはわからなくもないが、生殖しないのにその肉体を愛するのはやっぱりただの倒錯としか思えない。
そしてもうひとつ、ソクラテスがただの哲学者、思索者でないのは、「神々」への強烈な「信仰」があることである。それは単なる社会慣習としてのものにとどまらず、下から上への一方的なものでもなく、交流があったようにうかがえる。
キリスト教とはもちろん違う。むしろそれと対立する偶像崇拝である。でも、ソクラテスだけでなく、当時のギリシアの人々は本当に強烈なインスピレーションを得られていたようである。ギリシアでは民主制が実現した。天動説もすでに唱えられていた。文学や彫刻作品は今でも古典とされていて、こうして私がプラトンの書いたものを読んでなるほどと思っている。
文字通り、当時のギリシアは「神懸かっていた」。ただしその神は非常に人間味のあるものであったという。私は「神」という存在が人間の創作品だという考えには同意しない。唯一神が存在すると思っている。ギリシア神話の神々は人間の作り出した創作物であり、偶像だといってかんたんに片付けられるものでもない。
本作品中でエロスは「神霊(ダイモーン)」として、神々と人間のあいだの伝達役のようなものして存在するというところがある。
ダイモーンというのは何かのたとえではなくて、実際に存在するのではないだろうか?ギリシア人達はそれを偶然のせいか環境のせいか知らないが、知覚できたのではないだろうか?
・・・俗に言う、天使である。