L'Étranger
1942年。
カミュ29歳の時。
新潮文庫 窪田啓作訳
平成12年5月30日 107刷
高校生の時に読んだのだが、ほとんど内容を覚えていなかった。
この小説は「ペスト」よりももっとはっきりと無神論が表れていて、主人公が処刑される前に「司祭」に食ってかかるシーンがある。
ただ、カミュの文章からは、作者の何かに対する不満とか怒りとか疑問とか、そういうものが、いい意味で見えてこず、抑えられている。
初めて読んだ高校生の頃は、作者も主人公も無神論者というよりはニヒリストで、神も愛も何も感じないような人なのだろうと思って読んだような覚えがある。
特に感動も感心もなく、この作品の何がよいのだろうと思ったくらいだったような。
今読んでみると、ニヒリストではない。もっと透明で、むしろこれこそが本当の普通の人間の感じ方であり生き方ではないかと思うくらいだ。
特に日本人には欧米の小説や映画などに出てくるキリスト教や神のことを理解できない。
この小説の主人公が神を信じないと言ったり母の葬式の翌日に海水浴にいって喜劇映画を見て女と寝るくらいのことをしたからといって、人でなしだとまでは思わない。
今回読んでみて、この主人公があまりに自分の行為について弁解しなさすぎなのはちょっと普通じゃないな、と感じた。
殺した行為自体は最近言われるようないわゆる「動機なき殺人」のようなものでは決してなく、ほとんど偶然といっていい事情に巻き込まれてやむを得ずしでかしたものである。
それを「太陽のせいだ」と言ったのは、深い意味があるのではなく、皮肉でもない。
「ペスト」もわからなかったが、本作も、どうしてこのようなシチュエーションを描こうと思ったのか?
作者の意図はなんだったのだろうか?
本作の舞台も現アルジェリアの町である。
アルジェはアフリカ大陸にあるが地中海に面していて、夏でもそんなに酷暑というほどの気候でもないようである。
一つ一つの文が非常に短く、あっさりしていて、乾燥した明るい印象である。
平凡な日常に対し警告するとか疑問を呈するとかいうたぐいの話ではない。
むしろ逆で、平凡なごく普通の人の暮らしこそが大事だといいたいように感じる。
母が死んだという文から始まるが、主人公はそのことをなんとも感じていないかのような話に見えるが、見方を変えると母の死の衝撃で自暴自棄になった男の話ととらえることもできる。
この小説は不条理どうこうとか無神論とかいうことよりも、母を失った若い男の悲しみを描いた話ではないのか。
正当防衛だとしても弾丸を5発も撃ち込んでしまったのは、太陽のせいなどではなく、母の死のせいではなかったのか。