2020/05/09

「あれか、これか」

白水社のキルケゴールの著作中の最初の4冊である。

キルケゴールは正確には「キェルケゴール」というべきだと思うのだが、

実際私が若いころノートに書いていたときは常に「キェルケゴール」と書いていたのだが、めんどくさいし、所詮カタカナ読みだし、キルケゴールと書くのが一般的なようだし、そもそも「著作集」自体「キルケゴール」としている。

この白水社のキルケゴール著作集は何かにつけ見かける本で、父の本棚にも何冊かあったし、図書館で手に取って開いてみたり、借りたこともあったと思う。

しかし、まともに読めたためしがない。

キルケゴールについては岩波文庫の「死に至る病」を高校生のとき古本屋で手に入れなんだかわからないところはありながらも何か興奮を覚えつつ読んで、自分の中ではキルケゴールは友達のような存在にしていた。

なぜ私がキルケゴールに、「死に至る病」に感動したのか。

それは多分、他の哲学者たちがほとんど神を、キリスト教を否定しているあるいは否定しようとやっきになっているのに対し、彼はそれに立ち向かうように、神を弁護しているようで、しかもそれが職務であるかのようにふるまっているところだったのだと思う。

私の読んだ翻訳の文章がどれだけ原文のニュアンスを伝えているかわからないが、彼の文章は私が知っている神を弁護する人たちのような柔らかいものではなかった。

神について語ることは子供向けのおとぎ話のような語り方でなくてもできるのだと初めて知ったのだった。


「あれか、これか」は実質デビュー作のようなもので、彼について書かれているものを読むとだいたい代表作として挙げられている。

なんどか読もうとして読めなかったのであるが、今度はたとえわからなくても読み通してみるという覚悟で臨むことにした。

第一部上、第一部下、第二部上、第二部下とあり、
さらにそれぞれにはほとんど独立した複数の文章が含まれている。

まだ第一部の上も読み終えていない。

第一部の上では、モーツァルトの「ドン・ジュアン(ドン・ジョバンニ)」について頻繁に言及されており、途中はほとんど「ドン・ジョバンニ論」といってよいような内容となっている。

なぜ、「ドン・ジョバンニ」なのか。なぜバッハのマタイ受難曲ではなかったのか。ヘンデルのメサイアではなかったのか。なぜ女たらしの罰当たりの人間の物語に注目したのか。そしてなぜモリエールの戯曲のドンジュアンではなくモーツァルトのオペラの「ドン・ジョバンニ」なのか。

そして「あれか、これか」とはどういう意味か。

「Aを選択するならBは捨てなければならずどっちも取るなんて許されない」という意味か。

「享楽的に生きるか、求道的に生きるか」なんて意味ではまさかないだろう。


それにしてもよくわからない文章だ。
よくわからないところがたくさんあるというより、時々意味が分かるところがちらほら見つかる、という感じだ。

難解であったり前提知識が足りないとかもあるのだろうが、さすがにこれは、翻訳に問題があるのではと疑わざるを得ない。

これはドイツ語訳をデンマーク語の原文を参照しながら翻訳したものだと書いてあった。
ドイツ語訳を参照しながらデンマーク語を訳したのではない。

あまりの意味のわからなさに、「何でこんなにわからないのだろうか」と逆に不思議になった。

もしかしてわざとわからないように書いているのか。

もしかして訳者はもちろんキルケゴール本人もわかっていないのではないか。

これがヘーゲル哲学なのか。わからないようにわからないように書くのがヘーゲル流なのか?

言葉の通常の意味を裏切るように疑ってかかり言葉では表せないものを表そうとしているのだろうか?