2020/12/31

読了 「あれか、これか」6 

4冊の最後の一冊、 第二部(下)をようやく読み終えた。


「人格形成における美学的なものと倫理的なものの均衡」

「ウルティマトゥム」

「われわれは神に対していつも正しくないという思想のうちにある、教化的なもの」


「人格形成における....」は、本作の前半で述べられたことに対する反論というか、お説教というか、たしなめというか、先生が生徒に語り掛けるような手紙の形式である。

「あれか、これか」の前半を読むのは苦痛であったが、後半に入って自分の知っているキェルケゴールにようやく会えたような気がした。

聞いた話だが本作は後半が先に書かれ、後から前半が書かれたという。

つまり、私が感じたように、前半のモーツァルトがどうこうとか誘惑者がどうこうというのは、壮大な「フリ」であって、キェルケゴールの言いたいことは後半にあったのだ。

読んでいて、ほとんど「死に至る病」と同じようなことを言っていると感じた。


いちおう、「あれか、これか」をついに読了した。

高校の授業でその奇妙なタイトルを聞いて読んでみようかなと思ってから30数年が経ってしまった。


さて、このタイトルの意味であるが、デンマーク語は Enten-Eller、英語では Either/Or と書かれる。

日本語のタイトルだと、「AかBか」、「美学的なものと倫理的なもののどちらを取るか」みたいなことかと思うし、解説のようなものを読むとそのように説明されていることが多いように思うが、そうではなかった。


デンマーク語はわからないので(読んでいる途中にデンマーク語入門のような本も買ったが)、英語の Either/Orを説明的に日本語にすると、「両方選ぶか、どちらか一方を選ぶか」となる。


こうしても、「倫理的なものと美学的なものを両方選ぶことはできない(だから美学的なものを捨てて倫理的に生きねばならない)」というように解釈することもできるが、そんな断定的な内容ではない。


おそらくこれは、キェルケゴール流の壮大な弁証法なのだろう。弁証法というものは私にはいまだにどういうことかピンとこないのだが、AとBという相反するものについて議論してどちらがいいとか悪いとするのではなく新しい次元の概念に発展させる、というようなことだと理解している。


弁証法という考えは広義にはプラトンが書いた、ソクラテスが弟子と対話して議論をすすめていく方法のことも指すらしい。


正・反・合、なんて、「ケンカした後でお互いのことがよくわかりあえて前より仲良くなった」みたいな、安っぽいきれいごとのようにしか思えなかった。


キェルケゴールの弁証法は、そんなきれいごとではなく、もっと苦しい、体が引き裂かれるような、あるいは体と心が引き裂かれるような、つらくて永遠に結論が出ないようなものである。


そして彼が他の哲学者と決定的に違うのは、神(キリスト)という絶対的なものが存在していることである。


彼は、考えて、哲学して、弁証法によって神にたどり着くのではない。神は大前提であり、哲学と信仰とは完全に切り離されている。信仰のための哲学でもないし哲学のための信仰でもない。


この作品は彼が婚約までしたのに結局結婚しなかった、という事件があったころに書かれたものである。

結婚が大きなテーマであることは間違いない。

「人格形成における....」は、結婚している者が結婚していない者(キェルケゴール)にあてて書いた結婚を肯定する手紙であるが、それを書いているのは結婚していないキェルケゴールである。

こんなものを書いておいて、彼は結婚しなかった。「結婚は哲学あるいは信仰に邪魔だ」という考えだったわけではないだろう。

私には、彼は自分は結婚する資格がない、結婚するにはまだ未熟だ、自分が結婚しても妻を幸せにしてあげられない、みたいな考えだったように感じる。

キェルケゴールについての評伝みたいなものには、明らかにされてはいないが何かとてつもない大きな事件があったかのように書かれているのだが、私はそれは確かに大事件かもしれないが、具体的な行為であるとか特定の人間との関係とか(親子とか愛人とか)いうものではなくて、ごく内面的な事だったのではないかと思う。