2023/04/16

Bob Dylan 東京ガーデンシアター 2023/4/15

雨だった。

16:00開場、17:00開演。

いつも早めに行き過ぎるのでゆっくり行ったらギリギリになってしまった。

会場の東京ガーデンシアターは有明にある。国際展示場駅から行ったのだが、りんかい線は本数が少ない。

この駅は仕事で何度か利用していて勝手を知っているつもりだったが会場はいつも利用しているのと反対側にあり、駅からの距離も思ったよりあった。

駅に16:35に着いたが、混雑や荷物チェックやらで着席できたのは開演5分前くらいだった。


肝心のライブは期待を上回った。

ディランの顔ははっきり見えない。表情もわからないし、ひげが生えてるのか太ってるのか痩せてるのかもわからず、顔だけぼうっと浮かんでるような感じだった。

ディランは終始ピアノの前にいて、基本的に立っていたが時々座る。

バンドメンバーはピアノを囲むように、客席ではなくディランの方を向いて演奏していた。

ギターが二人、ベースが一人、スチールギターが一人、ドラムが一人。

ベースは曲によりウッドベースになり、スチールギターは曲によりヴァイオリンになった。


Rough and Rowdy Waysの曲がメインで、その他は渋めの選曲だった。

twitterでも話題になっていたが、ここ3日は日替わりでGreatful Deadの曲を1曲カバーしている。

この日やった「Not Fade Away」はDeadがよくカバーしていたそうだがもとはBuddy Hollyの曲である。

Rough and Rowdy Waysはあまりちゃんと聴いてなかったのだが、ライブを観に行くにあたって「予習」をしておいた。

正直、Love and Theft くらいからのDylanにはあまりついていけていない。

「大人のムードジャズ」みたいな感じがどうもダメだ。Triplicateとか出されたときには今度こそディランも終わりか... と思っていた。

だが、アルバムはともかくライブは80を過ぎてもまだまだ現役バリバリである。

Rough ... からの曲も、ライブ用にアレンジされていて、新鮮に聴けた。

彼を見たのは1994, 2001, 2010についで4回目なのだが、今回が一番良かったかもしれない。


2023/01/30

はだしのゲン

中沢啓治作・画

1973年から1987年にかけて、少年ジャンプ等で連載された。

後半は共産党機関紙とか日教組機関紙などの物騒なところで連載したようだ。


初めて読んだのは小学生、3年生くらいだっただろうか。

親戚のおばさんが貸してくれた4巻までを読んだ。

赤ちゃんの友子が死んでしまうあたりまで。


この漫画は非常に話題になっていた覚えがある。

何で話題になったのか?テレビではないと思う。

新聞かな?


映画化もされて、「涙の爆発」というのを、

学校の体育館で上映して観たような覚えがある。


私の世代ではだしのゲンを知らない人はまずいないのではないか。


私が読んだ以後もゲンは話が続いて、ヤクザとか闇市とかヒロポンとかが出てくるということは聞いていたが、ずっと読まずにいた。

ヤフオクで中公文庫のコミック版全7巻を入手して読んだ。


あしたのジョーとかでもあるように、セリフが手直しされているところがありそうなのでなるべく古い版を読もうかと思ったが場所を取るので文庫にした。

この作品はいかにも左翼的な反戦思想のもとに描かれたようなイメージがある。

実際、共産党や日教組の機関紙に連載されている。


だが私は初めて読んだ小学生の時もそうだったし、今回最後まで読んでもそうなのだが、この漫画がそんなに「左翼思想」が表現されたものだとは思わない。

特に父親、母親は反戦思想が強い。ゲンはそれほどでもないのだが、彼が天皇の戦争責任を言うシーンもある。

でも、それはあくまでも漫画の登場人物が言っているだけである。父親が戦争に反対して特高にとらえられたのは実話らしい。

戦後駐留した米兵も登場するが、ゲンたちがとんでもない悪人、鬼畜というイメージでおそるおそる近づくが実際は普通の人間でチューインガムを子供たちにくれるというシーンもある。



2023/01/02

社会契約論(LE CONTRAT SOCIAL)

Rousseau

LE CONTRAT SOCIAL

1762


岩波文庫

訳者 桑原武夫ら

1954/12/25 第一刷

2010/11/25 第80刷


「民主主義」「国民主権」ということが当たり前となりもはやそもそもそんなものが必要だったのか、現在の社会の姿はこれでいいのだろうか?と疑問すら抱くようになった。

社会契約論というものの存在とだいたいどういうことが書かれているかは学校の歴史などの授業で習った。社会契約論に関しては内容の抜粋などを読んだような覚えがあり、国と国民の関係は支配や隷属ではなく契約であるべきだ、という考えには納得していた。

社会契約論とエミールは同じ年に発表され、間もなくルソーに逮捕状が出る。

1762年の4月に社会契約論が、5月にエミールが刊行され、6月に逮捕状が出ている。

エミールも読んだが、どちらも、根本的な無神論ではないのだが、宗教特にキリスト教を否定するような発言が見られる。


改めて全部読んでみて知ったのは「特殊意志」「一般意志」という概念である。

「特殊意志」というのは一人の人間としての考え、主張のようなもので、「一般意志」はそれと対立する考えで、「市民としての意志」、今の言葉で言い換えれば「公共の利益」のようなものである。

あと、ルソーはジュネーヴで生まれ育っていて、共和国の人である。


民主主義は17世紀から18世紀にかけて革命が起きて世界に広まったようなイメージがあるが、民主制、民主政、民主政治と言ったものはローマとかギリシアの時代からある。


現在「民主主義」と呼ばれている機構は、ルソーの言う「民主政(démocratie)」とはだいぶことなる。


今回なるほどと思ったのは多数決について述べている、「少なくとも一度は全員一致があったことを前提とする」というところだ。

そもそも、「多数決」という制度を採用することに同意していなければ、自分の意見が少数派であったときに多数派に従うことはできない。

だが今の日本で、それがどのように同意されたのかはよくわからない。少なくとも国民全員が納得して決めたことではないだろう。


今、日本では選挙が行われて、当選した国民の一部の人々が国会議員とか県会議員とか市議会議員とかになって、国会、県議会、市議会を開催して法律などを決定していく。

議員達はたてまえは「代表」であり、ルソーの言うような一般意志を持った存在のようであるが、実際は違うだろう。選ばれた一つの特殊意志にすぎない。投票する人は一般意志を具現する人を選ぶのではなく、ある特殊意志がまたべつの特殊意志を選んでいるだけだ。

おそらく完全な、理想の「民主政」は、議員を選出するという意味での選挙をおこなわない。ルソーに言わせれば現代の日本は少数の特権階級者が政治を行う「貴族政」になるのではないだろうか。


今回この本を読もうと思ったのは、ルソーが秩序を破壊して人々に暴力革命を起こすように扇動するようなものだったのではないかと思ったからなのだが、読んでみるとそこまで過激なものではなかった。ただ当時としては、特にフランス国としては過激で秩序破壊を企てるものだと思われてもしかたのない内容だったようだ。

「一般意志」というような考えは私になかったものだ。民主主義によって決定されることは多数意見の落としどころであり妥協のようなものだと認識していた。

でも「意志」であって、もっと積極的なものである。「国民の総意」に近い。でも、総意でもない。総意というと全員が同じ特殊意志を持つような印象があるがそんなことは不可能で、そんなことが可能であったらそもそも政治も選挙も法律も必要ないだろう。

多分究極の民主政は選挙や多数決がなく、すべてのことが全員一致で結論づけられるまで議論を尽くす制度であろう。

多数決で少数意見を切り捨てている限りは結局ある特殊意志が通っているのに過ぎない。

でも私は、やっぱりそんな究極の民主政などまさに「神々の国」でもなければ不可能だし、「一般意志」などという崇高な理念は現実にはあり得ないと思う。



2022/12/20

M-1グランプリ 2022

寝てしまい、起きたらウエストランドの一本目が始まるところだった。

彼らが優勝するのを見届けた後、録画しておいたので観たいところから観ていった。

ワールドカップ決勝が始まったので、ハーフタイムでちょこっと観て、

翌日昼休みにちょこっと観て、ほぼ全部観た。自宅勤務なので。


決勝進出者のメンツを観て、なんかイマイチなメンバーだなという気がした。

最近は予選からチェックしているので知らないコンビはなかったが、面白いことは面白いが決勝でテレビの生放送でウケるかな、と、キュウとかは、心配した。

はたしてキュウはドすべりしていた。しかしそれはキュウらしさが受け入れられなかったのではなく、普段のキュウではM-1ではウケないとM-1用に対応してきたのが裏目に出た感じだ。

直前に知って「不自然ローソン」とかすごく面白いとおもったダイヤモンドはそのネタをほぼそのままやって、キュウよりもすべって最下位になっていた。

それ以外のコンビも、カベポスター、ヨネダ2000、ロングコートダディ、オズワルドでさえ、大声を出していた。

私はそれを見て、今年のメンツは地味なのが多いからうるさくしないと白けてしまう、と、スタッフ、ディレクターとかいうのか、そういう人が出演者にうるさくするように指示をしたのではないかと思ってしまった。

それはなかったとしても、出演者が『うるさくしなければ』という意識は間違いなくあったと思う。それは、そうしなければ勝てないというよりも、M-1という大会を盛り上げるために、そうしていたように見えた。

さや香が1回戦トップで通過していてネットでも評判が良かったが、私はあまりいいと思わなかった。ボケと突っ込みの役割も前の方がよかったと思った。

最近、「しゃべくり」をやるコンビが高評価を得るようになっている。何かの役を演じるいわゆる「コント漫才」がほとんどになっているが、動き回ったりすることが審査員たちに好ましく思われなくなってきている。


もう一つ心配していたのは審査員のメンツが変わったことだ。山田邦子自体はお笑い芸人として文句なしの人材だとは思うが、点数のつけ方になんかムラがあったように見えた。オール巨人と上沼恵美子の存在はやはり大きかったと感じた。


これは今回に限ったことではないが、なんか、戦うとか人生を変えるとかそういうのをあまり前面に出してほしくない。

あと、敗者復活という制度はもういらないのではと思う。視聴者の投票が入ると人気投票になってしまって面白くない。


2022/12/10

夜の終わりに (Niewinni czarodzieje)

アンジェイ・ワイダ監督

1960年の作品。モノクロ

原題を翻訳したら「無実の魔法使い」と翻訳された。


この映画は10代のころ夜中にテレビで放映されていたのを観て、いい映画だなと思ってずっと記憶にあったのだが、あまり有名ではなく、レンタルショップなどでもまず見かけることはなかった。

DVDを買って久しぶりに見たのだが、まったくと言っていいほど見た覚えがなかった。

主人公が医学生でドラムをたたいているとか、マッチ箱を使った野球拳のようなことをやるシーンとか、まったく記憶にない。

唯一といっていい覚えていたのは主人公がバイクに乗るシーンだったのだが、それももっとアメリカンみたいなタイプだったように覚えていたがスクーターだった。

何がよかったと思ったのかよくわからないが、まあ女の子を口説こうとするのだが結局何もしないみたいな、ガツガツベタベタしてないところ、恋愛を駆け引きとして一歩引いて楽しむというか、楽しんでさえいずやり飽きたゲームを退屈しのぎにやってるみたいな、そういう感じがよいと思ったのかもしれない。



2022/11/09

位相が逆だった

 先日苦労して付け替えたトーカイレスポールのピックアップ。

結局ポットを交換して一件落着、と思っていた。


しかし、フロントとリアでhot/coldを逆につないだことが気にかかっていた。

さっき、何かのついでに目にした情報で、「ピックアップの位相をフロントとリアで逆にするとハーフにしたときに音が小さくなったり鼻の詰まったようなツーンという音になる」

というのを見て、まさにこれじゃないか?とギクっとした。

最近新しいギターを買ったのでピックアップを交換したトーカイレスポールは部屋の隅に置いてあったのだが、シールドをつないで音を出してみたら、まさに、

「ハーフにしたときに音が小さい」

間違いない。これは「フェーズサウンド」だ。

意図してそのようにする場合もあるらしいからそういうことにしておくかと思いかけたが、

ただ音が小さいだけで何のよさもない。

そもそも意図したことではないからスジが通らない。


何度も確認したけど、逆にしないと鳴らなかったんだよな....

でも、最終的にポットを交換してフロントリア両方鳴るようになったので、

最初につまずいた「フロントとリアで位相を逆にしないと鳴らない」という問題は

もしかしてポットのせいだったのかもしれない、いや、ポットが壊れていたとしても逆ならなるということはありえない....

いろいろ考えてみたが現状からしても本来あるべき姿を考えても位相が逆になっているというのが一番ありうるので、

急遽半田ごてを温めて、逆にしないと鳴らなかった(と思い込んでいた)リアピックアップのホットとコールドを逆にした。

ホットが白で、コールドが赤。説明書に書いてある通り。

赤をホットにしろよ、と思いつつ、つけなおしたら、ハーフでも音が小さくならなくなった。


やっぱり、位相が逆だったのだ。


なんで鳴らなかったのか。

単にボリュームを絞ってしまっていただけだったのか。

どこか違うところの配線をミスっていたのか。


ボリュームを絞っていただけ説が一番有力である。

ハンダ付けするときと弾くときでギターをひっくり返すしね....



2022/10/26

Tokaiレスポールのポット交換

ピックアップ交換をしたら、リアだけ鳴ったりフロントだけ鳴ったり不安定になった。

配線自体は正しい。はんだ付けをして鳴ることを確認するが、ねじを締めてつまみをつけると鳴らなかったりする。

はんだ付けが甘かったりするのかと何度も付け直したが治ったと思ったらしばらくするとまた片方しか鳴らなくなる。

ポットが熱のせいで壊れた、としか考えられなかった。

ので、交換した。



サウンドハウスで適当にいくつか買ったが、穴に入らなかったり、短くてナットが締められなかったりして、使えたのはSCUDの「ALP-5001B」だけだった。


交換したら両方鳴るようになり、しばらくたっても問題なかった。

ピックアップなんか切り替えたりトーンやボリュームもほとんどいじらないのだが…



2022/09/16

Tokai レスポールのピックアップ交換

 ヤフオクで中古を買ったので正式な型番がわからないのだがトーカイのレスポールタイプを持っている。


ピックアップを交換したら、フロントだけ鳴ったりリアだけ鳴ったり両方鳴らなかったりとトラブル続きだったので、全配線を確認することになってしまった。


図はギターをひっくり返してフタを開けて見たときのものである。上二つがフロントピックアップ、下二つがリアピックアップのコントローラで、左側がボリューム、右側がトーンコントロールである。

今までそのこともよくわかっていなかった。


ピックアップはKENT ARMSTRONGのWPU900である。

ハムバッカーサイズのP-90互換というものだ。


ケーブルは、白、赤、ベア(細い線がより合わされているもの)の3本が出ている。

添付の説明書によると白がHotということである。



まずフロントピックアップをつないだ。音叉を近づけて鳴るのを確認。

そしてリアピックアップをつないだら鳴らない。

どこかの線を誤って切ってしまったかとざっと見るが切れたりしている形跡はない。

しかしどの線が何なのか全然わからない。


ネットで調べていくうちにHotとColdが逆なのではと思い逆にしてみたら鳴った。

『フロントとリアでhot/coldが逆になっちゃってるけどいいのかな・・・』

と思いながら弦を張って弾いたら、今度はリアしか鳴らない。


いろいろいじっていたら両方鳴らなくなった・・・・


これは全面的に見直さないとだめだと思い、配線を確認したのち、

いったん全部切って、再配線した。


そしてとりあえずフロントもリアもなりトーンコントロールもできるようになった。

が、どうもフロントの音が小さい。

hot/coldが逆のため音が小さいことがあるという話はきいたことがあるし自分もそういえばそんな経験があった。

が、フロントは白、リアは赤をhotにしないと鳴らなかったのだ。

もしかしてベア線がhotというケースがあるのか?

それは試していない。


今回の騒動でいろいろ調べていくうちに、わかったことがある。

「そもそもギターのボリュームとトーンコントロールはなくてもよい」

ということである。


イングヴェイマルムスティーンが、「このギターはトーンコントロールを切ってある」と言っているのをyoutubeで見た。

『まあ、トーンコントロールなんかほとんどいじらないよね。ギター本体の。

コントロールしたかったらアンプですればいいよな・・・』

と思って観ていた。


今回の騒動でテスタを使って導通を確認する方法も覚えた。

導通を確認するときはテスタを抵抗測定モードにすればよい。

あと、ピックアップやギターの位相を確認する方法も。


もしかしてピックアップ自体が壊れてしまったのか?と思う時もあったのだが、

それを確認するには、アンプにシールドをさして、ギターにつなぐプラグのプラスとマイナス部分にピックアップのケーブルをミノムシクリップなどを使ってつないで音叉を近づけてみればよい。


ピックアップを交換するだけなら、もともとつながっていた個所を付け替えればいいだけだが、何かあったらテスタとか半田吸いとかミノムシクリップとかいろいろ必要になる。

半田ごても、電子工作で使う15Wとかでは弱いのでアンプを直すときに買った60Wを使った。

うまい人ならそんなに強くなくてもいいのかもしれないが。


あと、疑問に思ったのが、ケーブルの種類である。

網のように細い銀の線をより合わせたもの、銅色の線をより合わせたもの、より合わせてはいるが太さがそれほど細くないもの、と何種類かのケーブルが使われているがどこにどういうケーブルがどういう理由で使われているかがわからない。


(追記)

ピックアップのhot/coldについて、モノによって違う場合があるという話をよく聞くのだが、今回はモノによって逆だったのではない。

今回覚えたテスタを使ってピックアップの位相を確認する方法で試したのだが、同じ動きをするから位相は同じなのだ。

何度も試したのだがフロントは説明書通りの配線でないと鳴らず、リアは逆にしないと鳴らない。

2022/04/23

「ホーリとカリーヌイチ」

 ツルゲーネフは父と子、初恋、ルーヂンを読んだことがあって、どれも印象に残っている。

よく考えてみると、私が読んだ小説や詩のなかでロシア人の作品の占めるウェイトはかなり多く、日本人に次ぐというか、ほとんど日本かロシアか、みたいになっている。

地下生活者の手記、カラマーゾフの兄弟、罪と罰、白痴、戦争と平和、クロイツェルソナタ、大尉の娘、オネーギン、どん底、など、外国の作品で心に残っているのはロシアばかりだ。

ロシア以外だと、サリンジャー、トーマス・マン、シェークスピア、ゲーテくらいだろうか。

猟人日記は今岩波文庫のラインナップにない。

たまに本屋に行くと岩波文庫の棚をながめるが猟人日記があったためしがない。

なので、amazonかヤフオクか忘れたが古本を買った。

今持っているのは1958年1刷、1998年15刷(上巻)、12刷(下巻)のものである。

けっこう前に買ったはずだ。

初めて買ったのは30代の頃だったと思うが、その時も中古だったのだが買ったら両方上巻だか下巻で読む気をなくした。

そして最近といっても数年前に買いなおした。

いつも、なんで猟人日記が(新品で)売っていないのかと不思議だった。

読んでもいないのだが名前はよく聞くし、不朽の名作のようなものだと思っている。

太宰治の斜陽に、主人公と女が猟人日記について話、主人公が「あれはちょっとうまいね」とかいうシーンがある。

初めて斜陽を読んだのは高校生の時だったが、その時からいつか猟人日記を読んでみようと思っていたが、もう30数年が経ってしまった。

最初の二三篇を読みかけたことがあるのだが、どうも頭に入ってこず、やめてしまった。

今回、なんとしても読んでやろうと思い、最初の「ホーリとカリーヌイチ」を読んだ。1回読んで、やっぱり何が言いたいのかよくわからない。何も頭にも心にも残らない。すぐにもう一度読んだ。ようやく情景がうっすらと頭の中に浮かんできた。食べ物を用意するところとか、納屋で寝るところとか。

ウィキペディアに、アレクサンドル2世が読んで農奴制廃止を決意したと書いてあるが、農奴制を描いてはいるが批判的に描いているとまでは言えないように感じた。

ドストエフスキーやトルストイの作品を読んでいても主人と召使みたいな関係はよく出てくる。古い映画を見てもでてくる。子供の頃に読んだ童話にも出てくる。私はそういうものを読んでも昔はそういうことがあったのだなと思うだけで農奴制という悪しきしきたりなどとは感じなかった。

今では会社員が正規社員と非正規社員に分かれて、実質奴隷のような状態で働かされているのを見て、奴隷という存在は社会に必要なのではないかと思ったりする。


最初の一文。

「ボルホフ郡からジーズドラ郡へ渡ったことのあるものは、オリョール県の人たちとカルーガ県の人たちの気質に、際立った相違のあることにきっと驚いたことであろう。」

今回読み直してみて、あらためてここで戸惑う。

ボルホフ郡とオリョール県、ジーズドラ郡とカルーガ県の関係は?

普通「郡」は「県」の中にある。オリョール県とカルーガ県の県境にあるのがボルホフ郡とジーズドラ郡で、ボルホフ郡からジーズドラ県へ「渡る」(この言い方も現代日本ではわかりにくいが川を渡るのだろうか?)ということは、オリョール県を出てカルーガ県へ入るということなのか。

ウィキペディアで調べるとそのようである。

オリョール州ボルホフ市、カルーガ州ジズドラ市、川沿いにある市である。


どこで見たか読んだかわからないのだが、山本周五郎の青べか物語や季節のない街は、猟人日記に影響されたものだという話を聞いたことがある。

2022/04/10

2022年4月9日 ゴロフキン対村田

 さいたまスーパーアリーナ。

開場は4時、最初の試合は5時からということで、

せっかくなので全部見ようと4時少し過ぎに駅に着いた。

トイレに行こうと思ったら長蛇の列。


あきらめてスーパーアリーナへ向かう。

The Whoのライブ以来だが、あれはたしか2008年だからもう14年も経つのかと感慨にふける。

人が多いがみんながスーパーアリーナへ行くわけでもあるまいと思っていたが会場につくとすでに大勢が会場入りしていた。


買ったチケットはアリーナのリングサイドB席。11万円。妻にはボクシングを見に行くとは言ったがこんな席のチケットを買ったことは内緒だ。

帝拳ジムの情報ではメインイベント以外に東洋太平洋とWBOのタイトルマッチがあるとのことだったが、4回戦、6回戦の試合もあり、さらにWBOタイトルマッチの後にもう一試合4回戦が行われた。


私の座った席は、リングから20列目くらいだろうか。下から見上げるような場所である。

こんな角度でボクシングを見るのは初めてだ。


もう30年前になるが、レパード玉熊が綾瀬にできたばかりの東京武道館でタイトルマッチをおこなったのを観たのだが、そのときもこんな位置だったろうか。


すべての試合をじっくり見た。テレビやyoutubeで見るのとは全然違う。

正直言って前の人の頭だったりロープなどが邪魔でちょっと見にくいのだが、

臨場感というか、迫力というか、そういうものは何にも代えがたい。


WBOタイトルマッチに勝った中谷潤人というボクサーを知らなかったのだが、まだ無敗ですばらしいボクサーで、有名らしい。


さて、ゴロフキンと村田の試合であるが、

まず、どうも村田の表情がさえない気がした。

リングの上にあった大きなディスプレイで見た会場入りする様子、控室の様子を見ても、なんだか気が沈んだような、よく言えば冷静で平然としているのだが、なんだかおびえたような、あきらめたような雰囲気さえ感じた。


いよいよ入場となって、会場は声を出すことが禁じられていたが沸いた。

村田はTシャツを着て入場してリングにあがるとシャツを脱いだのだが、

その体をみてなんだか痩せて肌の色が土気色のように見えた。

それは、その日おこなわれた5試合で見たどの選手にもないような不健康な色に見えた。


家に帰ってamazon primeの映像を見るとそんな風には見えないのだが、現地ではとにかく覇気がないというか、試合前なのに疲れているようで高ぶりも感じられなかった。


ゴロフキンは、やや年をとったなという感じはあるものの、オーラというか、みなぎるようなものが感じられた。


試合は序盤から村田が攻め、会場は沸いた。

ゴロフキンは下がりながら防戦一方のように見える。

2R終了後のインターバル時の様子は直接は見えにくかったのだが、

ディスプレイで見るとかなり疲労していて、まだ2Rが終わったばかりだというのに頭から水をかけられて髪の毛もグシャグシャになっていて、

あれ、もしかして負ける?

と思った。


ゴロフキン有利という評判だったが、私はカネロとの2回目の試合をyoutubeで観た印象と、その後それほど強い選手と戦っていないこと、ブランクが長いことなどからもしかして村田が勝つのでは?と思っていたが、

試合が始まるころにはゴロフキンが負けるわけはない、という風に思い始めていたのだが、やっぱり負けるかもしれないと思わせた。


村田は前に出るとともに、執拗にボディを打っていた。

しかしそのボディブローはほとんどトランクスのベルト部分にヒットしている。

ローブローじゃないかと思ったがレフリーは何も言わないしゴロフキンも抗議することもない。


会場はろくにヒットしてもいないのに村田が手を出してゴロフキンが下がるだけで歓声があがる。

だがゴロフキンは決して下がる一方にはならず、細かくパンチを入れ、かならず反撃してくる。

2R, 3Rは村田のラウンド、4Rも村田かなぁ、という感じだった。

たしか5Rだったと思うが、ついに村田のローブローが注意された。

(その前にも注意されたという情報があるが私が気づいたのはこの時が初めてだった)


そのあたりからボディブローがほとんど出なくなった。

そしてゴロフキンのパンチが当たる場面が増えてくる。


村田も被弾しながらも勇敢に前に出て反撃をするのだが、

明らかに疲労がたまっているのが分かる。鼻血も出ていたし

顔もカットまではいかないがあちこちすりむいている。

6Rか7R開始してすぐに、何かがピューンと飛んだ。村田のマウスピースだ。

そんなにもろに当たったという感じではなかったが、スパーンと打ち抜くようなパンチだ。

今はマウスピースが落ちるとすぐにレフェリーが止めて入れる。


これはヤバいなと思う。

(というか、自分の中ではゴロフキンがやっと実力を見せ始めたという安心感の方が強かった)

7, 8Rはロープに詰められて滅多打ちに近い状態となることもありストップされるのではと思った。

そして9Rついにダウン。試合終了。


twitterやyoutbueなどで試合の感想を見ると感動したという人が多かったが私は村田については果敢に立ち向かったことはすばらしいとは思うが、あまりいい状態ではなかったように見えた。


そもそも、今までの村田の試合について私はあまり評価していないというか、なんだか慎重に相手を選んで強い相手を避けてきたような、どこか別の世界で競技をしているような違和感というか物足りなさを感じていた。

おそらく彼自身、いつかはカネロやゴロフキンという「本物」と戦って見せたいという思いがあり、そしてとうとうそれが実現したわけだが、その結果はやはり世界チャンピオンと言ってもまた別格の存在であることが明らかになったという悲しさのようなものがあった。


会場はサーチライトのようなものがまぶしくて、ひさしのついた帽子を持ってくればよかったと思った。

またトイレが常時(もちろん試合がおこなわれていない時)行列ができているので、

今度このような機会があれば外ですましておこうと思った。

あと、場内は室温が低く、長袖シャツ一枚では少し寒いかなというくらいだった。リング上はライトが照っているからそんなに寒くはないのだろうが。


そしてリングサイドで見るというのは貴重な経験だったが、今度はやや上から全体が見下ろせるAとかBとかの席でいいかなと思う。


2021/09/18

松本人志の映画について

松本人志の映画についてあらためて考えた。

私はテレビで松本人志が出ているワイドナショーと酒のツマミになる話を毎週楽しみに見ている。

彼は漫才から始まってコント、フリートーク、MCと様々な役割をこなしてデビューしてからもう40年くらいになるのだろうか、いまだに第一線で活躍している。

ごっつええ感じで「2014」というタイトルのコントがあった。

漫才コンビが年を取って落ちぶれた時を想定したコントである。たぶん1994年に作られたと思う、20年後の話ということになる。

しかし実際の2014年ごろのダウンタウンは落ちぶれるどころか人気絶頂の地位を維持したままであり、それから7年経った今でも衰えるところを知らない。

松本が映画を撮ったのは2007, 2009, 2011, 2013年の4回である。

いずれも話題になって私もすべて映画館で観たが、評判は芳しくなく、私もやや、作品によってはかなり、期待外れだった。


最初の監督作品の大日本人の時から、彼の映画については疑問視する声が多かった。どうしても北野武と比較され、どう見ても彼は武にはかなわなかった。


松本が映画を撮らなくなって8年経った。彼は自分の映画について一切語ることをしない。あれはこういう意図だったとか、評価は低いが自分では満足している、などということも言わない。


先日、酒のツマミになる話で、好きな映画を聞かれたとき大衆受けしているような映画であっても恥ずかしがらずに好きだというべきだ、みたいな話になった。

その時、松本人志がかつて映画を撮ったことがあるのはなかったことにしているかのように、誰も松本が映画を撮ったことに触れなかった。

松本人志自身も、あくまで一般人と同じ鑑賞者としてその話題に参加していた。


私は松本人志のファンであり、彼の映画について批判的な話を聞くのはつらい。

だが、彼の映画を批判する一般人の、どこの誰かもわからない人のブログやネットニュースのような記事を読むと、つらいだけでなく、その批判に対して疑問を感じることがある。


この人は松本の映画を駄作だと言っているが、いったいどういう映画を傑作としているのだろうか?

大体が松本はテレビのお笑いには向いているが映画には向いていない、というようなことを言う。

ほとんどの人が、私は松本のファンや信者だが、この映画の出来には納得できない、という言い方をしている。


そこで私が思ったのは、もしかしてこの人たちはテレビのお笑い番組ばかり見ていて映画なんかほとんど見ていないんじゃないか?ということだ。


観ているのは、となりのトトロとか、ロッキーとか、ターミネーターとかマトリックスとか、マッドマックスとかワイルドスピードメガマックスとか、エイリアンとか、そんなのなんじゃないのか?


武が映画監督をすると聞いたとき、松本人志がしたようにちょっとふざけたというか、型破りな、形式すらぶち壊すようなものを撮るのかと思ったらごく正当というか本格的な映画だったので驚いたのだが、それは武が異常だったのであって、お笑い芸人が映画を撮るとなったら松本人志みたいになるのがむしろ普通なのではないだろうか。


武と松本を映画を撮るということについて比較するとその違いは、テレビ番組に出演することに対する姿勢が大きいと思う。

武が映画を撮り始めたころ、それよりも少し前から、武はテレビ番組に出演することに興味を失っているように見えた。いや、漫才をやらなくなったころから、武はテレビはくだらないと思いながらずっと流してやっているように見えた。

そしてテレビでは満たされない自分の表現欲求を映画で思う存分充たしたように見えた。

いっぽう松本人志は楽しそうにテレビ番組に出演してノリにのっている時期に映画を撮り始めた。そして映画はテレビの延長というか、テレビで成功したことを映画にも応用させようとしたように見えた。もちろん彼はテレビでやったことをそのまま映画にはできないことをわかっていて、なんとか映画ならではのものを表現しようと考えたのであろうが、表現したいものがありその手段として映画を選んだというよりも、映画を撮るということが先にあって、映画という素敵な箱があって、そこに何かをいれた、という感じがした。


松本人志のファンが映画館で観て失望したのは、彼ら自身だったのではないだろうか。そこで見たものは、自分がいつも自宅で寝転がって何かを食べたり飲んだりしながら何も考えずつまらない日常をなんとかまぎらわそうと、若いころから自分を慰めるように観ていたものだったのではないか?

映画館という大きな、自分のプライベートな世界の外側で、ややかしこまった場所で、周囲にデートしているカップルや友達同士で来ている人たちの中で、家でテレビを観るときのように松本人志を観た時の違和感にたまらなくなったのではないだろうか?


2021/07/31

志賀直哉 「暗夜行路」

志賀直哉は私の好きな作家の一人なのだが、 暗夜行路は読むのが苦痛だった。 何度か読もうとして挫折したが、今回は何とか読み通した。 文体は飾り気がなくて素朴で読みやすく、時代の違いもあまり感じさせない。 志賀直哉は夏目漱石の弟子のような人で、 暗夜行路は夏目漱石に新聞に連載することをすすめられて書き始めたそうである。 しかし書き手も難航して連載は辞退し、なんども中断して20年以上かけてやっと完成したらしい。 

なんでつまらないのだろうか。

まず、主人公が経験していることや感じていることが劇的でもなければ共感することもない。 わざとらしいオハナシではなく現実を描いたものだということなのだろうが、 言いにくいことを思い切って告白したとか人が見ようとしない世界に切り込んだというわけでもない。 

この作品は傑作とされているようで、 だから私も読まねばなるまいと思っていたのだが、 読んでみても傑作である所以はよくわからなかった。 虫とか小動物などの描写がうまい。 これは他の短編でも感じたことである。 あとがきに「一回毎に多少の山とか謎とかを持たせるような書き方は中々出来なかった」とある。 これは夏目漱石が「新聞の続物故豆腐のぶつ切れは困る」という注意があったために意識したことらしい。 

夏目漱石の代表作もだいたい新聞連載である。 私は漱石の作品はめぼしいものは大体読んだが、連載一回分と思われる区切り(章というのか?)とごに、 山とか謎を持たせて読者の興味を引くようなテクニックがあるとは感じなかった。 感じさせないように自然に書けるのが漱石のすごさなのか、もしかして本当に意識せずに「山」や「謎」ができていたのかわからないが、志賀直哉はそこに苦労したと自ら言っていて、私が読むのが苦痛だったのもそれがうまくいっていなかったためではないかと思う。 

終盤のほうで満州とか朝鮮の話が出てくる。 それらについての主人公の態度や感じ方がなんだか横柄というか無神経に感じた。 子供が生まれて間もなく亡くなるシーンもあったが、それについても拾った犬が死んでしまった程度の反応に見えた。 

当時の日本人はきっとみなこのような感じ方、暮らし方をしていたのではないだろうか。 人間の見方、結婚とか仕事とか商売に対する考え方があまりに軽く、不用意というか、軽率というか、 そんな風に感じた。 安らぎや感動を感じるのは人間関係から逃れて自然に触れたときでしかなく、 人間関係において何かを乗り越えたりなにかが育まれるとか克服するとか、 そういうものが見られない。 半島や大陸進出が結局失敗して戦争で大敗することになったのは、 当時の人たちが皆暗夜行路の主人公のような人々だからだったのではないか、などということを感じさえした。

2021/05/15

The Shawshank Redemption(「ショーシャンクの空に」)

 この映画のタイトルは聞いたことがあって、あまりおおっぴらにすすめられるような映画ではないが隠れた名作みたいなものだと思っていた。

刑務所が舞台で、確かに暴力や同性愛や不正行為など、暗い内容を扱っている映画ではあった。

でも思ったよりポピュラーというか、よく言えばストーリーに起伏があっておもしろい、悪く言うと俗悪だった。

原作はスティーブン・キングだということを後で知った。

シャイニングの原作も彼だが、なんか、「原作 スティーブン・キング」というだけで観る気が半減する。

モーガン・フリーマンの名前は知っていたし顔の写真だけはよく見ていたが、

彼が演じている映画を観たのは初めてだ....と思ったら「セブン」に出ていたのか。

「ダークナイト」にも。


英語字幕で観たので、セリフの聞き取りが完全ではなくちゃんと理解できていないところは多々あったと思う。

面白くて一気に観たが、観た後にいろいろ考えさせられるような映画ではなかった。