次に読んだのはキェルケゴールの「不安の概念」である。
岩波文庫の、斎藤信治訳、1951年第一刷、1993年41刷発行のものだ。
これも買ってはみたが読まずにいたものだ。発行年からすると、20年くらいたっていることになる。
私は高校生の頃に、「死に至る病」を読んで、「俺は悟った」と友人に言ったくらいに感動した。
「不安の概念」は、パラパラとめくってみると原罪、アダムとイブのことなどが書かれていたので、謎めいている「失楽園」のエピソードが一体どういうものかが解明されているかと期待していた。
しかし、これは期待しているようなものではなかった。
20年くらい前に買ったが読めなかったものだ。
序文や緒論もちゃんと読む。
緒論を読んで、面食らった。なんだこれは。何を言ってるんだこの人は。さっぱりわからない。
しかし、私は腹を決めて、わからないなりにとりあえず最後まで読み通そうと決心した。
内容は、死に至る病と似たところがあるが、いまひとつ肝心なところに触れていないというか、突っ込みが足りないというか、本音が出ていない、と感じた。
キェルケゴールの作品を久しぶりに読んで、おそらくヘーゲル用語と思われるものに戸惑った。
直接的、止揚、弁証法、宥和、精神、規定、措定、統一、綜合など。
彼はヘーゲルに強い影響を受けながらも最終的にはそれに批判的な立場を取ったということが言われている。
私は、キェルケゴールのことを「哲学者」だと思っていない。単なる一人の人間として、深く考えた一人の人として、その言葉を受け取っている。
心理学、倫理学、教義学のどの範疇なのかどうだこうだというのは、「死に至る病」でも最初の方に言及されていたが、それはあまり重要なことではない。
それから、本書も、死に至る病も、「哲学書」として分類されているが、私はこれを哲学書だとは思っていない。
ソクラテス、カント、そしてキェルケゴールは、哲学者とされているが、彼らは皆、「哲学でわかることとわからないこと」を区別した。
そして、神とか、原罪とか、絶望とか、不安とか、そういう、誰もが昔から悩まされそれが何であるかを考え議論してきたものは、哲学や科学で解明できるようなものではない、という立場をとっている事で共通している。私はそのように捉えている。
「不安の概念」は「死に至る病」よりも哲学臭い。
私は彼がこのように哲学臭く語るのは皮肉なのではないかと思うことがある。
偽名にしているのもそれだからではないのか。