2024/12/24

NとW

NとWの間に何があったのかは推測や想像ですらまともな情報がほとんど見られない。

わかっていることはNとWが食事をしたこと、WがPTSDになってテレビ局を退職したこと、Nが9000万円を払ったことくらいである。

男女間のことで非常に高額な示談金であることからまず、性的な暴行があったのでは?と考えたくなるのだが、どうもそうではないような気がしてきた。

NとWのこととWの退職のきっかけになったことの関連は今のところあきらかになっていないが、ここではそれが原因であると仮定して考えてみる。

気になって仕方がないのでFRIDAYの有料記事を読んでみたが、ほとんど具体的なことは書かれていなかった。ヒントになる発言としては以下のようなものがある。


・その時点で「あぁ、もう私はダメだな」と悟った

・通院しないと、死を選んでしまうと直観した

・突発的に起きたトラブル

・その時の気候(雨)や最寄り駅、匂い、食べ物を想起するとパニック発作が起きる

・PTSDにした人たちのせいで人生を奪われることが悔しい

・なんとか立ち直ってやろう、とその場所に足を運んだりした

・会社にも関係するトラウマ

・警察に被害届を出すことも考えたが踏みとどまった

・当時の日記に「自分に正直に生きれば良かった」と書き記している


相当のショックを受ける出来事があったようで、性的な暴行を受けたことが真っ先に想像されるが、一人の男に性的な暴行を受けたというような単純なことではないようだ。

ただ、何かに逆らえずに本当は嫌なのに我慢して受け入れて傷つくようなことをされてしまった、警察には言えなかった、となるとやはり性的なこと以外に思いつかない。

しかし、そうだとしたら「人たち」とか「会社にも関係する」というのはどういうことなのか。会社ぐるみの性的な接待の強要なのか?

でも、2023年と言えばNもWもテレビ番組に常時出演していて、今さら接待をするような関係ではないと思うのだが....

そして、結局退社はしたものの、復帰して働き続けようという意思もあったようだ。もし会社ぐるみの性的接待を強要されたというようなことであれば、即退社して戻ることなど考えられないだろう。

会社としても、彼女が嫌がるとか拒否するとかいうことは容易に想像できるはずだ。会社としての命令だからあのタレントに抱かれろ、で何事もなく終わると考えていたとも思えない。

それとも、テレビ局のアナウンサーになるような女はそういうことにハイハイと従うような女ばかりで彼女が異例だったのだろうか...






2024/12/15

砂の器(1974)

朝倉海の試合を観るためにU-Nextのお試し契約をした。すぐに解約する予定だがどんなものが観れるのかなと映画のラインナップを見るとほとんど興味がわかないが、「砂の器」があった。

何度かドラマ化もされているが、映画が強烈すぎてどれも観ていない。観ようという気にもならなかった。あの作品がテレビにおさまることなど想像もできなかった。

原作は映画を観た後に当然読んだが、予想はしていたが映画のような劇的なドラマではなく最後まで読んでいない。

私が初めて見たのは、VHSテープで、1988年頃である。その時、私はその映画のことを知らなかった。ある人にすすめられて観た。

殺人事件が描かれているのだが、映画は犯人探しというより、人を殺すということに至った背景や動機(それも心情的な)などが描かれ、「犯人」を犯罪者とし悪人としてとらえそれを憎むなどという感情は観た人は抱かないだろう。

「砂の器」という題名は、殺人を犯した男の人生がそれのようにもろくはかないものであったというような、ある意味男の人生を批判するような意味があるように思う。しかし映画では先ほど言ったように男を殺人者として裁くような描き方はまったくされていない。


圧巻なのは、男の犯行であることが刑事によってつきとめられて、逮捕状を請求するために説明する場面とそこに重なるコンサートと男の人生の回想シーンである。

男の戸籍が偽装されていること、そして男の本当の生い立ちが説明される。しかし「想像するしかない」というセリフがあるが緻密な論理による推理よりもその「想像」で描かれるなんの証拠もない回想シーンこそがこの映画のクライマックスでありテーマとなっている。

何度か観ているが、今回は初めて見たときの自分の人生のことを思い出すなどしたこともあって今まで見た中で一番泣けた。

そして、あまりに心を打つストーリーなので作り話ではなく実際にこういう事件があったのではないか?と思ったがどうやら実話ではないようである。

この映画は音楽や推理小説という原作をドラマに大胆に再構成しているところなどに感心するのだが、各シーンの撮り方もとても丁寧で出演者も豪華でどうしてこんなに気合を入れて撮ったのだろうと思った。

2024/12/06

ソナチネ

1993年

公開されたとき私はまだ中学生だった。武がラジオでソナチネが全然客が入らなくて打ち切りになった、と言っていたのを聞いた覚えがある。

私がソナチネを観たのはいつだったかよく覚えていないが、「その男」よりは先に観た。HANA-BIが公開される前だったかな。キッズリターンを観た後くらいだろうか。

ソナチネは武の映画の中でも評価が高く、武自身も思い入れがあるらしい。


映像は美しく、静かな雰囲気の中で淡々と描かれるショッキングなシーンも印象的ではあるが、私はこの映画があまり好きではない。

武の映画について「暴力」とか「バイオレンス」とか言われるのだが、それはほとんどが拳銃によるものである。

私は拳銃を打ち合ったり拳銃で自殺したりするシーンが好きではない。

実感がないし、一般の人間はまず拳銃を使用することはないし使用されているのを観ることすらまずない。

それこそ映画やドラマ、せいぜいがニュース映像くらいである。

映画なので、好きな世界を描き好き放題なストーリーにして、現実にはありえない世界をつくりあげてよく、そうすることが映画の醍醐味なのかもしれないが、やはりあまりに非現実的すぎるとついていけなくなる。


観るのは3回目か4回目かくらいだと思うが、今回一つ気になったことがあった。クレーンに吊るされた男を海に沈めたり引き上げたりするシーンがあるが、ロープでしばってクレーンに吊るした人間をあのように海中に下ろそうとしても、あんな風にずっぽりとは沈まないのではないか?

調べると「肺に空気をいっぱいに吸った状態なら浮く」ようだ。いっぱいに吸ってはいなくても生きている人間の肺には空気が入っているから、たぶん浮くか沈むかぎりぎりのところだと思う。

男の体重が70kgくらいだとして、70kgの肉の塊をクレーンで吊るして沈めたらどっぷり沈むだろうが、人間の体はそうならないと思う....


どうでもいいことだが、そんなことを考えてしまう。

ただ、武はそれをわかった上であえて撮ったのではないか、とも考えた。それどころか、本当はこんな風にならないけどそうなっても違和感がないような映像にして客をある意味「欺く」ような意図があったのかもしれないとさえ思った。


途中でいったん止めて、翌日残りを観たのだが、「あれ、武の役ってどういう役だっけ?やくざ?元やくざ?一般人?」とわからなくなった。

この映画はクールでうっとりするようなシーンはあるのだが、感動ということになるとほとんどない。芸術に道徳や善悪は関係ない、というのはわかる。私もそういうものを主張するものは嫌いである。

しかし、やはり映画というものには人間のドラマというか、人情というか、そういうものが欲しい。


先日Brotherを観て「なんでおもしろいと思ったのかわからない」みたいなことを書いたが、今回5本ほど武の映画を観て、涙が出たのはBrotherだけだった。

Brotherは多分技術的には他の作品に劣るものなのかもしれないが、私の心には響く何かがあった。だから、映画館で観たときに「最高傑作だ」とまで思ったのではないかと、「その男」やソナチネなどを見た後に、気づいた。



2024/12/04

その男、凶暴につき

1989年の作品

当時話題になったがそれは「あのビートたけしが映画を撮った」ということからであって、映画そのものがどうこうという話題になり方ではなかった。少なくとも私はそうとらえていた。

興味は湧かず、劇場に行くこともレンタル(当時はまだVHSだったと思う)することもなかった。

その後武は映画を撮り続け、次第に評価が上がっていき、いつの間にか巨匠と呼ばれるような存在になっていった。私がこの映画をようやく観たのはその頃だ。

今回Bluerayディスクを買ってみたが、見るのはその時以来2回目だと思う。断片的にはどこかにアップロードされていたものを時々観ていて、あるいはこの映画に関するコメントだとか誰かが語って(ほめて)いるのを何度も観ている。

武は1947年生まれなのでこの時42歳くらいである。

当時の武をテレビで見ていた私からするともうオジサンであったが、今見ると脂が乗りきっているというか、若いなぁとすら思う。


この映画は武のフライデー襲撃事件があったせいで監督やら脚本やらいろいろ変更されたものだったらしく、純粋な北野映画ではない。

残酷さ、クールさ、説明的な場面やセリフの少なさなどは武らしさもあるのだろうが、初めての映画だから、たぶん誰かしらからかの影響を受けてはいるのではないだろうか。

最近武の映画を続けて観ているのだが、武はどうやって映画の撮り方、演じ方などを学んだのだろうと考えた。

武がどういう人生を送ってきたのかはいろんなところで語られているが映画というものにそれほど熱中していたというようでもなさそうだ。多才でいろんなことに才能がある人ではあるようで、映画もなんでもできてしまったうちの一つなのかもしれないが、それにしては飛びぬけているように思う。


2024/12/01

キッズ・リターン

1996年バイク事故から復帰したころに作られた映画である。

新聞の夕刊に載っていたレビューで絶賛されていたのを覚えている。

公開時に新宿の映画館で観た。今回はBluerayディスクを買ってパソコンで観た。

安藤政信の演技の評価が高く賞もたくさん獲ったようだが、私はマーチャンを演じた金子賢もいい演技をしていると思う。

この映画はサクセスストーリーの逆のようなエピソードが並んでいる。挫折とか不運とかいうようりも、自ら失敗するような道を選ぶような、自滅するようなエピソードである。

ボクシング、タクシー運転手、お笑い芸人と、武自身が経験したことが描かれていることもあって、そのエピソードもリアリティというか説得力がある。

また、バイク事故の経験も投影されているだろう。


この映画で失敗に終わらないのは、お笑い芸人を目指す若者たちと、最後にジムに入った3人組のリーダーのような男(花山?)のエピソードである。

花山はシンジやマサルが挫折した後、ボクサーとして成長し成功しているように描かれるのだが、あのシーンの意味が当時はよくわからなかった。

今回観て感じたのは、このボクサーもきっと自滅するように挫折するのだろうな、ということなのだが、もしかしたら、こういうお調子者みたいな奴の方が成功するということなのかなとも思った。

そしてお笑い芸人を目指すもの達は、派手な成功をおさめている様子はないが地道に努力してこれから花開いていくのではと思わせる。

彼らは武のお笑い芸人としての成功を表現しているのだろうか。自分の周りで破滅していった者たちとそれを見ながら成功していったという。


この映画は青春を描いているが甘酸っぱいとかほろ苦いというものではなく、もっと辛く苦しすぎるものだ。

マサルとシンジという「失敗した」二人が、「まだ始まってもいない」というのは、挫折してもくじけないという希望や不屈の心というよりは、もっとむなしい虚勢であり、あんなにいろんなことがあったけど何も残っていないという絶望にすら感じる。

いい映画だとは思うが、この映画に表現されていること、武が表現しようと思ったことはそんなに簡単に理解できるものではないと思う。もしかして、武自身も各シーンがどういう意味なのかはわかっていないのではないだろうか?