2012/10/29

旧約聖書を読む (8) ルツ記

非常に短い書である。4章しかない。

ルツというのは女性、モアブの女である。
夫に先立たれ、同じように夫に先立たれたしゅうとめと一緒にベツレヘムへ行き、
ボアズという親戚の妻となり、オベデという子を産む。
オベデはダビデの祖父にあたる。

聖書では女は現代から見ると差別としか言えない扱いをされているが、
この書では女しかも外国人が主人公になっていてしかも非常に立派な人だと書いてある。

ルツの夫とその兄弟とその夫の父が死んだため、「死んだ者の名が・・・断絶しないようにするためです」とある。

ボアズはルツをめとると同時にエリメレク(しゅうとの夫にあたる)の「地所をあがなう」。このことを「嗣業を伝える」と言っている。

ただ、ルツはボアズに嫁ぐのだからエリメレクの土地はボアズに引き継がれて残るのはボアズの嗣業であり、ボアズの子孫だから「死んだ者の名」どうこうはあまり意味がないように思うのだが・・・


話は変わるが、ルツが「落穂を拾う」場面がある。私は「落穂拾い」というのは、農家が収穫時にこぼした穂を回収する行為で、ルツは収穫を手伝っていると思ったのだがそうではなく、それは拾った物は自分の物にすることができる、ということなのだった。

ボアズは収穫のさいにわざと落としてルツに拾わせまでする。

落穂のことについてはモーセの律法でも言及されていた。
これが外国では義務のようになっているチップの起源だろうか?


私はチップをあげるのも、もらうのもなんだか嫌なのだが・・・。

旧約聖書を読む (7) 士師記

「士師記」は「ししき」と読む。英語だと Judges 。

約束の地に入ったイスラエル民族は案の定主を離れて偶像崇拝を始める。
ただ主は見捨てることなく、「さばきづかさ」を起こして治めさせる。

さばきづかさというのは、モーセやヨシュアほどの権力というかカリスマ性はなかったようである。

彼らが治めて落ち着き、死ぬとまた偶像に走るということが繰り返される。
そのひとりが有名なサムソンである。

「サムソンとデリラ」という映画がある・・・と思ったら映画ではなくてオペラのようだ。
どっちにしても見ていない。

サムソンは人間離れした力持ちだったが、妻であるデリラはペリシテびとに利用されてサムソンの力の秘密が髪の毛にあることを聞き出し、サムソンは髪を剃られ捕らえられ両目をえぐられる。しかし再び髪の毛が生え始めて、ある日ペリシテびとたちの前で「戯れ事」をさせられることになったときに、その家の中柱を倒して自分とともに3千人程のペリシテびとを殺す。


最後の方で、ベニヤミンびとの住むギベアで彼らが起こしたみだらな事から猟奇的な殺人事件が起こり、それをきっかけに内紛となってベニヤミン族が滅びそうになるがなんとか持ちこたえる。



旧約聖書のヘブライ語と英語の対訳が読めるサイトを見つけた。
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt0.htm
朗読も聞ける。


例の出エジプトの6:2-3 の箇所を引用する。
ב  וַיְדַבֵּר אֱלֹהִים, אֶל-מֹשֶׁה; וַיֹּאמֶר אֵלָיו, אֲנִי יְהוָה.2 And God spoke unto Moses, and said unto him: 'I am the LORD;
ג  וָאֵרָא, אֶל-אַבְרָהָם אֶל-יִצְחָק וְאֶל-יַעֲקֹב--בְּאֵל שַׁדָּי; וּשְׁמִי יְהוָה, לֹא נוֹדַעְתִּי לָהֶם.3 and I appeared unto Abraham, unto Isaac, and unto Jacob, as God Almighty, but by My name YHWH I made Me not known to them.


יְהוָה が YHWH である。


下記は創世記の冒頭。

אֱלֹהִים が「神」である。

א  בְּרֵאשִׁית, בָּרָא אֱלֹהִים, אֵת הַשָּׁמַיִם, וְאֵת הָאָרֶץ.1 In the beginning God created the
heaven and the earth.








2012/10/28

旧約聖書を読む (6) ヨシュア記

ヨシュアと言えば、U2の Joshua Tree である。

私が初めて聖書を読んだ頃に大ヒットしていたアルバムだ。
Joshua Treeは植物の名前であることはわかったが、どうしてJoshuaの名がついているのかはわからない。また、U2の曲も歌詞をちゃんと知らない。

モーセの死後、ヨシュアがイスラエル民族を率いてヨルダン川を渡り、約束の地で異民族を撃破して約束の地を得る。

十二部族で土地をわけるのだが、その領土が言葉で説明されているが地名を知らないからさっぱり意味がわからない。インターネットで、"12 tribes"でイメージ検索するとたくさん地図が出てきた。

ついでにこの「約束の地」がどういう場所か、googleマップとか地図帳とかで見てみた。

ナイル川の流域および河口付近が緑色になっていて、その西のシナイ半島はほとんど茶色くて町もなにもない。ここが荒野と呼ばれる地域だろうか。シナイ半島の南端近くにシナイ山がある。

そしてその東に今のイスラエルがある場所があり、ここも緑色である。その東に南北に流れるヨルダン川があり、塩の海(死海)に注いでいる。ヨルダン川の東側が今のヨルダンであるがここも大部分は「荒野」のようだ。イスラエル民族はシナイ半島の南の方を通って、死海を東側から周ってヨルダン川を渡って「約束の地」に入った。その入ったところにあるのが、エリコという町である。

この町を攻め落とすときにイスラエル軍は町の周囲を1周することを六日繰り返し、七日目には7周した後にラッパを鳴らして叫んだら、石垣がくずれ落ち、町を攻め落とした。

Joshua Fit The Battle Of Jericho」という黒人霊歌に walls come tumblin' down という歌詞がある。

ヨシュアが110歳で死んだところで、ヨシュア記は終わる。

旧約聖書を読む (5) 申命記

モーセが120歳で死ぬ。

その前に、今までのことと、律法を語る。民法のようなものだ。
やや「人間的」に、穏健になったように感じる。

「パンのみにて生きるにあらず」という、もはや陳腐とさえ感じる言葉はイエスのものとされているが、原典は申命記8章ではないだろうか?(私の見落としでなければ)
8:3
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
ただ、この「マナ」は確かに天から降ってきたものであるがパンのようなおいしい食物である。単なるパンの代用品としか思えない。このことから、「人は食うだけのために生きているのではない」というような「高尚な」思想は出てこない。「やっぱり人は食べないと生きていけない悲しい生き物だ」となってしまわないか。それともこの「マナ」に関するエピソードは象徴であって文字通りに解釈してはいけないところなのか?


その他にも、「新約」っぽい言葉が見られる。
「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」
とか(今までにもあったかもしれないが)

エジプトを出て戦いもひと段落して落ち着いたのだろうか。


申命記を読みながら、私は「神は人間の作り出したものだ」説を吟味していた。

仮に、「神」が、それをエホバと呼ぶのかヤハウェなのかヤーヴェなのか知らないが、それが仮に、モーセの発明だったとしよう。一体何の為だろうか?なぜ血を食べることをそんなに禁じたのか?健康に悪かったからか?血をたべて病んだものがいて、厳禁としたのか?なぜ割礼をするのか?それも健康のためか?でも、「心の割礼」とまで言っている。わたしはこれについては自分なりに痛感できる解釈があるのだがここでは伏せよう。また、主の律法には、努力とか根拠とかいう考えがない。「がんばった人には報いる」ということがないのはもちろん、「功績をあげた人には報いる」という考えすらない。やるべきことをやらなかったら死ぬ、禁じられたことをやったら死ぬ、ということはある。

モーセが一民族あるいは部族を支配し教育していくために「神を造り」、本当は存在しない神を祭る祭壇を作り、それにささげ物をさせ、箱を作ってそこに律法を刻んだ石をいれて運ばせることの目的が見えない。あるいはモーセは狂人で、今で言う「統合失調症」か何かで、妄想を抱いていたというのだろうか。あるいは、後世の人がモーセと彼が率いる人々の快進撃について、「こういうことだとしたらおもしろいな」と、事実を脚色したのだろうか?


それでは、「神」は統治のためのものだろうか?人心を支配するための重しのようなものだろうか?神に逆らうと死ぬ、俺は神の代弁者だから俺にしたがわないと死ぬ、ということであろうか?牛や羊を捧げさせ、その血を抜き脂肪をや腎臓などを取り除くのは、モーセの嗜好によるものだったのだろうか?彼はイスラエルの民が貢ぐ牛肉や羊肉をこっそりおいしいおいしいと言って食べていたのだろうか?無神論者とはそういう想像をする人々である。


そして、イエスについても考えた。イエスは結局神を僭称するものとして死刑になった。それは確信犯だったのか。私はイエスは律法の形式主義を批判したために殺されたという、ごく穏当な見方をしていたが、もしかして彼は本当に単なる律法に違反して自分を神とした不届き物だったのではないだろうか。そして、これまた後世の誰かが「その不届き物を救世主ということにしたらおもしろい」と考えた創作物であると仮定してみたりもした。

でもやはり、そんな創作をする目的がわからないし、そんな創作物に2000年間も人々がだまされ続けるとも思えない。創作物だから本気にせず遊びで祈ったり懺悔したりしていたとも考えられない。

そんな考えを認めるくらいなら、「神は宇宙人だった」という説のほうがまだ信じられる。

私は宇宙人は存在しないと考えている。宇宙は人間、地球上に存在するわれわれ人類のために存在し、地球は人間のために存在している。だから、地球以外に人間(のようなもの)が存在する場所はない。そんなものを存在させる理由もない、と。


ボブ・ディランが、誰かに「聖書のどの書が好きですか」と聞かれて「レビ記と申命記」と答えた、というのをどこかで読んだことがある。Jokermanの歌詞にもそういうところがあって、私はそれを皮肉だと思っていたのだが、今回読み直してみて、レビ記と申命記は皮肉ではなく聖書の核心と言ってもよいし、おもしろいところでもあると感じた。


旧約聖書を読む (4) 民数記

モーセの率いるイスラエルの人々のうち、二十歳以上の男子の数が約60万人であった。

今回初めて、その多さを意識した。

成人男子だけで60万人であるから、その他を含めたら100万人を超えるか?
100万人というと仙台市くらいである。

仙台市民くらいの人々がエジプトからヨルダン川まで移動したのである。
現在のエジプトからエルサレムまでの距離は400kmくらいか。

少なくとも40年かかっている。

移動したのは人間だけではない。牛、羊、やぎなどもつれている。

2012/10/27

旧約聖書を読む (3) レビ記


Well, the Book of Leviticus and Deuteronomy
The law of the jungle and the sea are your only teachers 
Bob Dylan "Jokerman"

レビ記は、法律の条文みたいなものである。
ささげもののささげ方、食べてよいもの悪いもの、汚れたものとそうでないものの区別などが書いてある。ここでもやはり同じようなことが繰り返されていると思うと微妙に違っていたりする。
レビ記は「聖句」として引用されることもまずなく、とても退屈なようだが、そうでもない。以前読んだときにもレビ記はおもしろく読んだ記憶がある。



ささげ物については、燔祭、火祭、素祭、酬恩祭、揺祭、挙祭、愆祭など種類がありその手順が書かれている。これらが何であるかはその名前や前後の内容からだいた想像がつくが、英語でどういうのかを確認してみた。

英語の聖書は、iPadでYouVersionのBible Appを使った。このアプリは素晴らしくて、各国語のさまざまなバージョンの聖書が読める。今回参照したのはKing James Versionである。

燔祭 burnt offering
火祭 an offering made by fire
素祭 meat offering
酬恩祭 peace offering
揺祭 wave offering
挙祭 heave offering
愆祭 trespass offering
罪祭 sin offering

羊などのささげもののしかたは、それをほふり、血を塗り、脂肪と内臓(どこかも指定されている)を取ってそれは焼く。
何度も強調されるのは、「血を抜く」ということである。
血については、食べてよいものを記したところでも「食べてはいけない」と強く禁じられている。
その理由として、「肉の命は血にあるからである」「血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」「すべて肉の命はその血と一つだからである」とされている(17章)。

「畑のすみずみまで刈りつくすな」「刈り入れの落穂を拾うな」というところで、その理由が「貧しいものと寄留者とのために残しておけ」というところなども印象に残った。

子供の頃、「エンガチョ」というのがあった。犬の糞を踏んだとか、おしっこが手についたと人は「汚れたもの」とされ、指である形をつくるとその「汚れ」から身を守ることができるが、それをしていない人は汚れた人に触れるとその人も汚れてしまう、という「風習」である(そんなおおげさなものとは考えていなかったが)。

レビ記に書いてあるのも、それと似たようなものである。

「ささげ物」について、現代にもあると思ったのは、「始末書」である。始末書などというものは全く形式的なもので、ほとんど宗教的な儀式だ。不祥事を起こして謹慎するとか、減俸になるとか。

もっと言うと、トイレに行った後に「手を洗う」ということさえ、「儀式」にすぎないのではないだろうか。「パソコンのキーボードは便座と同じくらい汚い」というのが話題になったことがあるが、それはキーボードが思っている以上に汚いのではなく、トイレがそれほど汚くないとも言える。ただ水道の水でジャーっと流してタオルで拭く程度では、別にたいしてきれいになどはならない。


なぜささげ物のようなことが必要なのか。そしてその方法が細かく規定されているのか。
神(主)と何の関係があるのか。あらためて疑問に思ったが、それは言うまでもないことかもしれないが「罪」のためである。イスラエルの人々が主を、主でなければ小牛の偶像でも作って拝もうとするのは、否定しようのない「罪」の意識があるからである。「罪」については、もはや説明すらされない。それは、アダムとエバが「裸であることを恥ずかしい」と思ったように、否定するまでもなく、ありありと感じているものなのである。

誰が言ったというわけでもないが、レビ記にかかれているような戒律、何が汚れているとか、食べてはよいものと悪いものの区別とかについて、「科学が未発達だった時代に人々が経験などから戒律としてまとめた」と考える人がいる。「神」とか「宗教」そのものがそうだという人もいる。多分たくさん、特に日本人には、いるだろう。私はそうだとは思わない。通常の状態があり、何かをすると汚れたり悪くなったりするのではない。通常の状態がすでに汚れて悪く、そこから正常な状態にもどろうという考え方というか意識である。

ちなみにJBS(日本聖書協会)の聖書では「神」という言葉はあまり使われない。基本的に「主」である。「みだりに神の名を唱えるな」ということからそうしているのだろうか?ちなみに私はエホバの証人の聖書も持っているが、そこでは「主」はほぼ全部「エホバ」となっている。エホバの証人の人と話したことがあるが、彼らは神には固有の、アブラハムとかモーセとかと同じように名前があり、それが「エホバ」だと考えており、だからその名をきちんと呼ぼう、ということだそうである。

(追記)
ある本を読んで知ったのだが、「エホバ(YHWH)」という名はモーセに対して初めて明かされたそうだ。「ヤハウェ」などとも呼ばれる。
出エジプト記3章と6章にそのことが書いてある。

JBS聖書

3:13-14
モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですが』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

6:2-3
神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。


新世界訳(エホバの証人)聖書

3:13-14
それでもモーセは[まことの]神に言った、「わたしが今イスラエルの子らのもとに行って、『あなた方の父祖の神がわたしをあなた方のもとに遣わした』と言うとしても、『その方の名は何というのか』と彼らが言うとすれば、わたしはこれに何と言えばよいでしょうか」。すると神はモーセに言われた、「わたしは自分がなるところのものとなる」。そしてさらに言われた、「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『わたしはなるという方がわたしをあなた方のもとに遣わされた』」。

6:2-3
そして神はモーセにさらに話してこう言われた。「わたしはエホバである。そしてわたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに対し常に全能の神として現れたが、わたしの名エホバに関しては自分を知らせなかった。

ここはエホバの証人聖書でないと意味がわからない箇所である。

私はエホバの証人の変わった信仰に興味を持っている。それは、輸血の拒否、誕生日を祝わない、乾杯をしない、人は本来不死であった、霊界は存在しない、などというものである。「興味を持っている」というのは、肯定的な意味である。つまり、彼らの言い分はもっともだ、と思っている。

旧約聖書を読む (2) 出エジプト記

Exodusである。

イスラエル民族が、ヘブルびとが、エジプトで過酷な労働を強いられ、モーセが彼らを率いてエジプトから逃げ出す。
どこへ?「カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所、乳と蜜の流れる地」である。
モーセは、「神が『わたしの民を去らせなさい、さもなくば・・・』と仰せられる」と、エジプトのパロに言った。
パロはなかなか聞き入れず、杖を蛇に変える、川の水を血に変える、疫病、イナゴの大群、暗闇などの「奇跡」を次々に見せられ、最終的には聞き入れる。
ただし、このときパロを「かたくなに」させていたのも主だったのである。
決定打は、「ういご殺し」だった。イスラエルの民とエジプトの民を区別するために、ほふった子羊の血を入り口の柱に塗らせた。
しかしパロはすぐに考えを変えて、イスラエルの民を追いかける。
そしてあの有名な紅海が割れるシーンである。(14章)
これは「強い東風によって海を退かせ」ている。
エジプトの民は海に飲み込まれる。

イスラエルの民はシナイの荒野に宿営する。
そしてモーセはシナイ山に登る。
そこで神がモーセに「おきて」を示す。いわゆる「十誡」である。
だが、その後細かいおきて、いわば「細則」が延々と語られる。

聖所、幕屋、祭壇の作り方、ささげ物(罪祭、火祭、灌祭など)に関するきまりで、なんだかさっき聞いたようなことだなと思うと微妙に違っていたりする。
やっと終わって、モーセが山を降りると、民は小牛の偶像を作ってそれを拝んでいた。
主が怒る。モーセはそれをなだめてなんとかおさまる。
が、モーセが怒ってその偶像を壊し、せっかく授かった板も割って、民同士で殺し合いまでさせる。
モーセは再度山に登り板をさずかる。また細則が延々と語られる。
とうとう幕屋が完成する。
ここまでで「出エジプト記」は終わり。


なにを持ってこいとか、血をどうしろとか、腎臓や脂肪はとりのぞけとか、色とりどりの糸がどうしたとか、うんざりするほど細かいことが延々と語られる。私はそれをいちおう読みながら、「いったいこれは何なのだろう」と考えていた。
どうしてこんなことが必要だったのだろう?こんなことは禁じている偶像と同じことではないのか?
なんのためにこんなことが必要だったのか?
「こんなことは意味のないことだ、くだらない」と言ってしまえばそれまでだが、いまだにそれが聖書として読み継がれているのだ(誰が出エジプト記を読んでいるか知らないが)。
箱舟のサイズ指定どころの話ではない。完全に圧倒されてしまった。
出エジプト記など二度と読みたくない、という気になる。

このようないけにえとか細かい戒律は、イエスが来たことによって(そして死んだことによって)われわれは「卒業」したことになっている。

でも、イエスは、パウロは、「モーセは間違っていた。彼のしたことは過ちである」とは言っていない。

確かパウロは「養育係」と言っていた。

それにしても、どういうことなのか、どういう意義が、意味があったのかがさっぱりわからない。

もっとも私はイエスが十字架について2000年程たってこの世に生まれた人間である。

すでに人類は救済されているらしいのだから、わからなくて当然かもしれない・・・





2012/10/26

旧約聖書を読む (1) 創世記

まず創世記を読んだ。

創世記は何回か、けっこう熟読して読んでいる。
ただしいつもそうなのだが、どうしても系図を書かずにはいられず、時間がかかる。
5時間半くらいかかった。

だが、創世記は読み物としてとてもおもしろい。
いろいろな小説や映画などの題材となったエピソードもたくさん出てくる。

天地創造(1章)
私がもっとも印象に残っているのは車田正美の「リングにかけろ」で、この部分を朗読しながらジーザス・クライストという名の世界チャンピオンに剣崎がメッタ打ちにされるシーンだ。

失楽園(2章)
これはあまりに有名であるが、もっとも身近なところでは郷ひろみ&樹木希林の「林檎殺人事件」がある。「アダムとイブが林檎を食べてから・・・・」というフレーズがあるが、アダムとエバ(日本聖書協会の1955年版ではこう表記される)が食べたのは「善悪を知る木の実」である。

このことにより、「裸が恥ずかしくなり」、「蛇が腹で這い歩くようになり(ということは足があったのか)」、「女の産みの苦しみが増し」、「(男は)額に汗してパンを食べる」ようになった。

カインとアベル(3章)
なぜカインがアベルを殺すほど憎んだのかはいまひとつよくわからない。「弟の番人でしょうか」というセリフはたしか、映画「エデンの東」でジェームスディーンが言っていた。

ノアの箱舟(6章~)
箱舟(と思われる痕跡)が見つかった、ということは過去に何度かあったようだ。何かの象徴のようにも思える話であるがリアリティを感じさせるのは箱舟のサイズまで指定されているところである。「箱舟の長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キュビトにそれを仕上げ、・・・」。とりあえず30mm, 5mm, 3mmの直方体を描いてみるととても細長くて「船」という感じではない。「キュビト」を調べると50センチ前後ということで、換算してみると全長150メートル、幅25メートル、高さ15メートルくらいということになる。
このときにノアの家族以外の人類が滅び去ったとすると、「カインの末裔」は存在しないことになる。

バベルの塔(11章)
人が天に到達するような塔を建てようとしたのを見て、「主」が言葉を乱した。人間の言葉が多様なのは、それぞれ独自の発展をしたためだからではなく、通じないように乱されたのである。外国語の学習が困難なのも無理はない。

イシマエル(16章)
メルヴィルの「白鯨」の主人公というか語り手の名前がイシマエルである。私が読んだ翻訳では確か「イシュメイル」となっていた。

ソドムとゴモラ(18章)
この地でどんなことがおこなわれていたかという記述はほとんどないが、「み使い」がソドムを訪れたときに町の人々が「彼らを出しなさい」とロトに言い、ロトが「まだ男を知らない娘を差し出すから」というところで、なんとなく想像がつく。

イサク献祭(22章)
アブラハムの息子イサクを供え物として捧げよという神の試み」にアブラハムは従う。イサクを殺そうとしたその瞬間に神にとめられ、彼は祝福される。

「ジェイコブズ・ラダー」(28章)
「ジェイコブ」というのは「ヤコブ」のことである。「時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は点に達し、神の使いたちがそれを上り下りしているのを見た。」とある。私はこの映画は見ていない。

イスラエル(32章)
イスラエルというのはヤコブの後の名前である。彼が旅路で神のみ使い(?)と「夜明けまで組打ち」してヤコブに勝てなかったということがあり、そのみ使いに「イスラエル」と名のるように言われる。「神と戦う」という意味である。ただ、戦うといっても戦争とか殺すとかいうことではなく、「組打ち」である。

「ヨセフとその兄弟」(37章~)
トーマスマンの小説。これも読んでいないが、ヨセフのエピソードは波乱万丈かつ感動的である。ヨセフが死んだところで創世記が終わる。ただし、いかにもヨセフが主流の人物のように見えるが、イエス・キリストに連なるのはヨセフではなく、ユダの血統である。

オナニー(38章)
オナンという人がいた。兄が死に、子を残すために兄の妻と寝るのだが自分の子にならないという理由で「地に漏らし」、それにより「主」に殺される。これが「オナニー」の語源だそうだ。


・・・という感じでおもしろく読めるのが創世記だが、不可解なところもたくさんある。

たとえば「長男の不遇」である。カインの供え物が顧みられないのを始めとして、双子のエサウとヤコブでヤコブがほとんど詐欺みたいなやり方で長子権や父からの祝福を奪うところ、双子のペレヅとゼラで弟のペレヅが先に出てくるところ、ヤコブ(イスラエル)の12人の息子達で末っ子のヨセフが愛され祝福されるところなど。


エジプト人がまるで異民族のように書かれているが、彼らも大洪水を経たあと再スタートしたノアの家族の子孫のはずだ。やはり「のろわれよ」と言われたハムの子孫なのだろうか?
そもそも「カナンはのろわれよ」という理由もよくわからないが。ハムの子孫にはペリシテびとがいる。カナンびとは滅ぼされるソドムとゴモラに住んでいた。





旧約聖書を読む (0)

旧約聖書。

私が持っているのは日本聖書協会の1955年改訳版である。
1989年発行のもののようだ。


旧約聖書は折にふれてペラペラ読むのではなく集中的に読んだことが今までに3回くらいあるのだが、その時にとったメモを見ると列王記下で終わっている。

ヨブ、詩篇、箴言、伝道の書、イザヤ、エレミヤなどは有名なので先に読んだ。
あとの短いところが読んだか読んでないかあいまいである。

「聖書は全部読んだ」とは言えない。
「だいたい読んだ」というのと、「全部読んだ」というのでは大きく違う。

「全部通して読んだ」
と言いたい。

なので、読む。
「はじめに神は天と地とを創造された。」から始まって、
「彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」まで。


1行25文字、1ページ二段組で、1段24行だから、1ページ1200文字として、
全部で159万1200字、原稿用紙3978枚相当だ。
魔の山の1.5倍くらいある。

魔の山は丸四日くらいだったので、1週間だな。

魔の山 (完)

読み終わった。

7章では、ペーペルコルンという男が登場する。
彼はショーシャとともにベルクホーフに現れる。

ハンスは彼が立派な人物であるというのだが、何が立派なのかよくわからない。
そして彼は自殺し、ショーシャは再び去る。

この後は少し緊張感が失われているように感じる。

ヨーアヒムが死に、ショーシャも去った。

あとはセテムブリーニとナフタの論争くらいしか語るべきものはない・・・・
と思ったら、この二人の論争は決闘にまで発展してしまい、
セテムブリーニは虚空を撃ち、ナフタは自分の頭を撃ち抜く。

ナフタとセテムブリーニの論争は、よくわからないところもあったが一番興奮した場面だった。

終盤はなんだかどたばたして、音楽についての章やオカルト的な章などは、
無理やり突っ込んだ観がある。
三島由紀夫の豊穣の海の第四巻のような、「マンガみたい」な感じだ。

この作品は第一次大戦の勃発によって執筆が中断し、戦後完成させたものだそうだ。
そのせいもあるだろう。
前半の緊張感、抑制された雰囲気がだんだんなくなっていくのが少し興ざめした。

トーマス・マンは、ハンス・カストルプのような、悪い人間ではないが八方美人なお坊ちゃんなのではないかと思う。でも、誠実で、いい奴だ。

そしてこの小説を「教養小説」などと呼ぶことはやっぱりできない。
岩波文庫の解説にも、「アイロニーをもってその形式を踏襲した」などと書いてあった。

文学、政治、宗教、医学、生物学、数学、音楽、体育、オカルト・・・
たいした教養である・・・。

登山のような読書体験であった。

2012/10/25

魔の山 (6)

6章まで読んだ。

6章は半分に切った下巻の前半である。

6章の最後で、ヨーアヒムが死ぬ。
彼が死ぬことは5章の最後から、ちょくちょくほのめかされていた。

6章ではナフタという人物が登場し、セテムブリーニと論戦を繰り広げる。

ヨーアヒムはいったん退院していてほとんど出番がない。

本を読んで泣いたのは、小学生のとき以来である。

2012/10/24

サミュエル・ハンチントン 「文明の衝突と21世紀の日本」

「文明の衝突と21世紀の日本」
集英社新書

サミュエル・ハンチントン、鈴木主税訳


魔の山で使った読書法で、小説以外にもつかえるかなと思い、しばらく前に古本屋で買って読まずにいたこの本を読んだ。
「ハンチントン」という変わった名前と「文明の衝突」というわかりやすい言葉に興味を持って、「後でちょっと読んでみよう」と思いメモした記憶があるが、それから10年以上が過ぎていた。
ただしこの本は「文明の衝突」と、講演などからのいわばダイジェスト版である。
「魔の山」にくらべればこの本を読むのはハイキングのようなものだ。



この本では、「文明」という、歴史の教科書で最初の方にしか出てこない概念が国家間の対立や協調で重要になっているということを主張している。
それは、イデオロギーの対立であった冷戦の終結によって現れた現象であるという。
私は「国」というものを考えるときに、「政治体制」と「民族」くらいしか考えない。
日本は民主主義の単一民族、アメリカは民主主義の多民族、中国は共産主義の多民族、とか。
「宗教」というものは、社会に影響をあたえてはいるだろうがそれほど決定的ではないと考えていた。
ハンチントンは、「文明」というくくりをもってきた。「文明」というのは文化でも宗教でもないが、それらを含む。
私は共産主義はまだ死んでいないと思うのだが、ハンチントンはもう滅んだとみなしている。



彼の言う文明とは、「西欧、東方正教会、中華、日本、イスラム、ヒンドゥー、ラテンアメリカ」である。

意外というか新鮮だと感じたのは、「東方正教会」というくくりと、「日本」というくくりである。
東方正教会に含まれる主な国はロシアとギリシア(?)である。日本人からすると同じ「キリスト教」にくくられるように思うが、ルネサンスや宗教改革などの影響がない点で大きく違うそうだ。「プロテスタントとカトリック」というくくりでもない。それが、「宗教」「民族」というくくりでなく、「文明」というくくりの新しさである。

「日本」を、独自の文明としている。「儒教文明」「仏教文明」「東アジア」などのいずれのくくりでもなく、「日本文明」という独自の文明で、日本は孤立した国であるというのである。「ガラパゴス」のような揶揄された区別ではなく、むしろひとつの独立した文明として敬意をもって見られている。

西欧文明の中核国はもちろんアメリカである。「アメリカが冷戦後世界を一極支配している」という見方は誤りであると言う。アメリカは超大国ではあるが世界を支配などしておらず、他国からは脅威とともに敵意を持たれている。

ハンチントンが強調したもうひとつの点は、イスラムの復活である。イスラムが好戦的なのは人口爆発により若者の比率が高くなっていることが理由のひとつであるという。

日本はこれまで、日英同盟、三国軍事同盟、日米安保と、つねに当時の強大国に追随(bandwagoning)してきており、中国がさらに力を増せば中国に追従することも考えられるという。


「日本文明」か・・・。

そんなたいそうなものだろうか、日本とは。
日本文明は極めて排他的で宗教やイデオロギーをともなわないため、他の社会に伝達するものもなくしたがって交流も持つことができず孤立しているのだという。

それはいいとか悪いとかではなく、そのような特殊な文明であるとして、ハンチントンは認めているようだ。
私は日本という国に対する誇りはほとんどなく、その独自性はすべて欠点だとみなしてしまうところがあるのだが、本書を読んでもしかして日本は歴史上まれにみる高度な文明をもった国なのかという気にさせられた。


でも、この文明の分類の中でも、「国」として見ても、もっとも進歩し成熟し理想的な社会を築いているのはアメリカと日本だといってもいいのではないだろうか?

「宗教もイデオロギーもない」という、日本文明のとっている立場が、もしかして人間の目指すべき姿なのではないか?と考えたくもなる。

私は日本ではなくアメリカが人類の理想だと思っている。
そして、二つの国には共通点がある。

それは、「神の国」であるということである

これは非常に危険な発言である。大統領や総理大臣が発言したら辞任するか戦争になりかねない。

でも、私はかなり前から、本気でそう思っている。
「神」という概念は古今東西、人々が持っている。その解釈の違いが宗派や文化や文明を生んで対立の火種にもなった。

私は、「神」という概念を肯定している。それは迷信でも民衆支配の道具でもなく、あきらかに存在しており、人はそれなしに生きていけない。多種多様な宗教と宗派における、「神」の解釈の違いというのは、受け入れるべき多様性ではなく、この神が正しくあの神が間違っているということでもなく、この神もあの神も尊いということでもなく、神は唯一であり、神の認識の正しさ、そして神に対する態度のとり方がもっとも適切なのが、アメリカと日本である、と考えているのだ。

日本には、「天皇」という存在がある。これはかつては「神」であったし、今でもほとんど「神」に近いのだが、建前はそうでなくなった。そしてそのことによって、日本はアメリカと同盟した。これは、実質上同じ神を共有したのである。一般的にはそこまでは認められていない。アメリカ人はキリスト教を信仰しており、聖書を読み、イエスを神あるいは神の子と信じている。日本人は聖書を読まない。イエスは一人の人間であると考え、その実在を疑う人さえいる。

だが、「神」という概念はイスラム教とキリスト教で違うのはもちろん、同じ宗派でも、同じ教会で並んで祈っている人でさえ異なるだろう。日本人は仏教徒だとか無宗教だとか多神教だとかいうが、その生活態度はある絶対的な善を信仰しているとしか思えないものがある。


本書を読んで、その考えを新たにした。
まあ、極論というか、妄想みたいなものである。
もちろん公に発言できることではない・・・。

2012/10/23

魔の山 (5)

五章まで、つまり上巻を、つまり、半分まで読み終わった。

五章は長く、ちょっと退屈しかけたが、最後の「ワルプルギスの夜」は圧巻だった。

ここが名場面であることは、前回読んだときにどこかで読んでいて、
楽しみにしていたのだが結局そこまでたどり着けなかった。

それまであいさつをするだけで有頂天になっていたくらいだったショーシャに、
愛の告白をしてしまう場面である。
その日はカーニヴァルで、ハンスは酒も飲んでいて、セテムブリーニを「君」呼ばわりし、
気が大きくなっていた。
さらに、彼女とやっと会話ができたと思ったら彼女は明日には去ることを告げられて、
大変な口説き文句を、フランス語でやってのける。


ただ、私が読んだ岩波文庫の翻訳では、フランス語の部分がカタカナになっていて、
それまでは徹底的に感情が抑制されていたのに、なんだか安っぽいといってもいい、
ロマンチックなやり取りになって、読んでいてちょっと恥ずかしくなり、
最後のセリフでは思わず笑ってしまった。

カタカナなのがなんだか滑稽で「キモい」感じになってしまっている。

ここを含めて、あちこち、原文はどうなっているのだろう?と思うところがある。
全部ドイツ語で読むのは無理だが、一応原文を入手しておきたいな・・・。


今ちょっと検索したらショーシャが戻ってくることを知ってしまった。
なかなかやるな、トーマス・マン・・・。