「詳説 世界史 B」とZ会問題集アプリで結構勉強したので力試しにセンター試験をやってみた。世界史Bは64点だった。7割はいける、あわよくば8割くらい、それくらいだったら大学受験してみようかと思っていたがそう甘くはなかった。でも代ゼミの予想平均点は61点なので、まあよしとしよう。確か現役のときは平均を下回っていた。
ついでに他の科目もやってみた(カッコ内は代ゼミの予想平均点)。
英語 180 (122)、国語 113 (107)、数学(数I・数A) 22 (57)、生物 37 (66)、世界史 64 (61)
英語と国語は10分くらい時間をオーバーしている。理科社会は2科目ずつやるのか?今日はつかれたのであしたにする。英語はすばらしい。TOEICよりやや易しいくらいの難度か。国語は得意科目だったのにショックだ。古文がほとんどチンプンカンプン、漢文もすっと読めない。数学、生物がひどいがまあ仕方ないか。生物は現役のとき選択した科目で8割はとれたのだが、これもほとんどチンプンカンプンだった。
2013/01/21
2013/01/17
詳説 世界史 B
高校の世界史の教科書である。私は高校時代受験科目に世界史を選択したが成績はよくなかった。しばらく前に買ってあった山川出版の「詳説 世界史B」を、iPhoneアプリのZ会問題集をときながらとりあえず全部読んだ。アンリ4世とかジェームズ1世とかシャルル何世とか、こんなこと覚えてどうするんだ、というのは受験生だったときと同じ感想である。
あらためて感じたことは「朝(王朝)」というものの重要性である。要は、血統のことである。それが、ほとんど国名と同様の意味を持っていた。ただそれは昔の話で、次第に王というものは廃されていき、多くの国は「共和国」となっていった。「教科書史観」では、それが当然の流れ、王政というのは古い制度とみなしているところがあり、また歴史を専門としていない一般の人にもそういう認識があるだろう。イギリスやフランスで起こった革命はすばらしいことである、という。
私はフランス革命とかナポレオンとかアメリカ独立というところではあまり心が躍らない。私は西アジアとかモンゴルあたりのそれほど大きくない得体の知れない国々の興亡のあたりがわくわくする。勉強のために覚えるには厄介なところだが。
アメリカと日本は普通「共和制」とはいわないが、広義には共和制と言ってもいいのではないだろうか。要するに「王様のいない国」である。日本の天皇はもはや王様ではない。
こないだ読んだ聖書に関する記述は、モーセ、ダヴィデ、イエス、パウロ、ペテロくらい、合計で10行くらいだろうか。
「戦争と平和」に関連するのはアウステルリッツの戦い、三帝同盟、アレクサンドル1世など、5行くらいかな。
1、2週間くらいしか読んでないのにボロボロになった。
情報量はどれくらいなのか。字はけっこう大きい。
1ページ26行x33文字、355ページ、30万4590字だが、図や写真などが多いので8割くらいとして約24万字。
私の持っている文庫本で同じくらいの字数のものを探してみたら、三島由紀夫の「春の雪」が概算で31万字だった。「世界史の教科書なんか読んでらんない」と思っている人も、文庫本1冊程度の情報量であると考えると、たいしたことはないと思えるのではないか?
あらためて感じたことは「朝(王朝)」というものの重要性である。要は、血統のことである。それが、ほとんど国名と同様の意味を持っていた。ただそれは昔の話で、次第に王というものは廃されていき、多くの国は「共和国」となっていった。「教科書史観」では、それが当然の流れ、王政というのは古い制度とみなしているところがあり、また歴史を専門としていない一般の人にもそういう認識があるだろう。イギリスやフランスで起こった革命はすばらしいことである、という。
私はフランス革命とかナポレオンとかアメリカ独立というところではあまり心が躍らない。私は西アジアとかモンゴルあたりのそれほど大きくない得体の知れない国々の興亡のあたりがわくわくする。勉強のために覚えるには厄介なところだが。
アメリカと日本は普通「共和制」とはいわないが、広義には共和制と言ってもいいのではないだろうか。要するに「王様のいない国」である。日本の天皇はもはや王様ではない。
こないだ読んだ聖書に関する記述は、モーセ、ダヴィデ、イエス、パウロ、ペテロくらい、合計で10行くらいだろうか。
「戦争と平和」に関連するのはアウステルリッツの戦い、三帝同盟、アレクサンドル1世など、5行くらいかな。
1、2週間くらいしか読んでないのにボロボロになった。
情報量はどれくらいなのか。字はけっこう大きい。
1ページ26行x33文字、355ページ、30万4590字だが、図や写真などが多いので8割くらいとして約24万字。
私の持っている文庫本で同じくらいの字数のものを探してみたら、三島由紀夫の「春の雪」が概算で31万字だった。「世界史の教科書なんか読んでらんない」と思っている人も、文庫本1冊程度の情報量であると考えると、たいしたことはないと思えるのではないか?
2013/01/09
Bob Dylan "Idiot Wind"
Someone’s got it in for me, they’re planting stories in the press
Whoever it is I wish they’d cut it out but when they will I can only guess
They say I shot a man named Gray and took his wife to Italy
She inherited a million bucks and when she died it came to me
I can’t help it if I’m lucky
People see me all the time and they just can’t remember how to act
Their minds are filled with big ideas, images and distorted facts
Even you, yesterday you had to ask me where it was at
I couldn’t believe after all these years, you didn’t know me better than that
Sweet lady
Idiot wind, blowing every time you move your mouth
Blowing down the backroads headin’ south
Idiot wind, blowing every time you move your teeth
You’re an idiot, babe
It’s a wonder that you still know how to breathe
ボブ・ディランの曲です。
BLOOD ON THE TRACKS に入っています。
このアルバムは傑作とされていて、最高傑作とする声も多いです。
私も傑作とは思いますが、最高傑作には絶対に選ばないですね。
ただ、ブートレッグシリーズという、3枚組みのCDが発売されて、そこにこのアルバムの発売直前に差し替えられたという別テイクの曲がいくつか入っていたのですがそれがすばらしく、もし差し替えられていなかったら最高傑作になっていたかもしれません。
Idiot Windの別テイクもありました。聴いてない方はぜひ聴いてください。
さて、この Idiot Windという曲ですが、あらためて歌詞を読んでみると不可解な詩です。
まず、"Idiot Wind" という言い方を、この曲以外に聴いたことがありません。
でも、ディランは女に対して冷たく突っぱねるような曲をよく書いています。
It Ain't Me, Babe
I don't Believe in You
Like a Rolling Stone
など。
Idiot Windも、この手の曲か、と聴いていたのですが、それにしても、
"Idiot wind, blowing every time you move your mouth"
"Idot wind, blowing every time you move your teeth"
というと、私は「口臭」を連想してしまいます。
ディランは、"Idiot Wind"という言葉をどういう時に思いついたのか。
私は女がくだらない事、知性のかけらもないことをしゃべったときに、口臭を嗅いだのではないか?
と思いました。
もちろん、歌詞に「臭い」とは書いていませんが、
mouth, teeth, breath ときて、idiot wind と来たら、これは「口臭」のことだ、と考えるのは至極当然のことではないでしょうか?
2013/01/07
泉鏡花 「義血侠血」
泉鏡花は夏目漱石より後に生まれているが、その文章を読むと漱石より古い世代の人かと思ってしまう。私にとって漱石の世界は「現代」に含まれている。それを現代と呼ぶのか近代と呼ぶのかはともかくとして、漱石以前の作家は「昔の作家」だ。
泉鏡花の作品は短編で、ストーリーの起伏が大きく、劇的である。夏目漱石の作品のように、主人公があれこれ考えるが結局何もしないのとは対照的である。
漱石はおそらくあまりに作り話っぽい書き方がイヤだったのだろう。
泉鏡花の作品の特徴が彼の特徴なのか、それともこの時代は多かれ少なかれそうだったのかは他の作品を読んでいないのでよくわからない。
登場人物が江戸弁で会話するのが心地よい。
「虚言(うそ)と坊主の髪(あたま)はいツた事はありません。」
「吉公、手前(てめえ)また腕車(くるま)より疾(はえ)えといつたな。」
「応(ああ)、言った。でもさう言はねえと乗らねえもの。」
とか。
泉鏡花の文体は古臭く文語体に近いのだが、内容が過激で陰惨さや不気味さをもっているところは現代的といえるかもしれない。
「義血侠血」は、ある男が偶然であった女にあることがきっかけで金を援助してもらって学校へ行って出世する話かと思ったら予想外の事態となって最後は悲劇的な結末を迎える。
同じ本に収められている「夜行巡査」「外科室」という作品も、血や死が描かれる、強烈な作品である。
しかし主人公の行動原理は高潔であり、卑怯ではないので、暗い気持ちにはならない。
泉鏡花の作品は短編で、ストーリーの起伏が大きく、劇的である。夏目漱石の作品のように、主人公があれこれ考えるが結局何もしないのとは対照的である。
漱石はおそらくあまりに作り話っぽい書き方がイヤだったのだろう。
泉鏡花の作品の特徴が彼の特徴なのか、それともこの時代は多かれ少なかれそうだったのかは他の作品を読んでいないのでよくわからない。
登場人物が江戸弁で会話するのが心地よい。
「虚言(うそ)と坊主の髪(あたま)はいツた事はありません。」
「吉公、手前(てめえ)また腕車(くるま)より疾(はえ)えといつたな。」
「応(ああ)、言った。でもさう言はねえと乗らねえもの。」
とか。
泉鏡花の文体は古臭く文語体に近いのだが、内容が過激で陰惨さや不気味さをもっているところは現代的といえるかもしれない。
「義血侠血」は、ある男が偶然であった女にあることがきっかけで金を援助してもらって学校へ行って出世する話かと思ったら予想外の事態となって最後は悲劇的な結末を迎える。
同じ本に収められている「夜行巡査」「外科室」という作品も、血や死が描かれる、強烈な作品である。
しかし主人公の行動原理は高潔であり、卑怯ではないので、暗い気持ちにはならない。
2013/01/03
ヨイトマケの唄
今年は紅白歌合戦をラジオで聴いた。最初から最後まで。紅白を全部通したのはおそらく生まれて初めてである。今回私が注目したのは、矢沢永吉、三輪明宏、斉藤和義などである。注目はしていなかったが気になったのはきゃりーぱみゅぱみゅと、途中で西田敏行らが歌った歌、あとはYUIかな。それから、赤組司会の堀北真希の声がよかった。
三輪明宏は「ヨイトマケの唄」を歌った。この唄に感動したという声をインターネットの諸サイトでちらほら見たが、私はこの唄のよさがわからない。
いいと言う人は歌詞の内容に感動するようである。歌詞の内容は一言で言うと「労働賛歌」である。しかもこの唄は「土方」という言葉により差別問題も扱っており、さらに、その「土方」仕事をしていたのは父ではなく母である。母子家庭だったのだろうか。
バカにされながらも母の働く姿に感動した子は、「勉強しよう」と決意し、大学を出てエンジニアとなる。彼は自分の人生を「成功」だと考えているようである。
そのことはもちろん悪いことではない。しかし、私には少し引っかかるものがある。
この男は、「俺は土方仕事なんか嫌だ、バカにされたくないから一生懸命勉強して大学を出てエンジニアになるんだ」という気持ちがあったのではないか。
私は「土方」が差別される理由がよくわからない。私に言わせれば机に座って汗ひとつかかず不毛な会議や書類のやりとりをしている「ホワイトカラー」とか「管理職」と呼ばれる人々の方がよっぽど卑しいと思う。
「土方はイヤだから勉強してホワイトカラーになる」というのは賢明な考えではあろうが、美しく感動的なものではなく、私から見れば卑しいとさえ感じる。
この男が母に感じているのは、「土方のようなみっともない仕事をして、バカにされながら私を育ててくれてありがとう、僕はあなたみたいな人間にならずに済むように大学へ行って出世します」ということだ。
私はその学問観にも疑問を感じる。
学問というものは、各個人の生活の糧を得るためのものではない。学問の目的はそんなことではなくて、人類全体への貢献を目指すものである。「土方にならないように大学へ行く」などという動機は卑小極まりない。
私は努力や自己研鑽を否定するのではない。
だが、それらの目的が単に「グレずにまともな人間になって安楽な生活をする」という、ごく個人的な利己的なものであることに幻滅を感じるのである。
三輪明宏は「ヨイトマケの唄」を歌った。この唄に感動したという声をインターネットの諸サイトでちらほら見たが、私はこの唄のよさがわからない。
いいと言う人は歌詞の内容に感動するようである。歌詞の内容は一言で言うと「労働賛歌」である。しかもこの唄は「土方」という言葉により差別問題も扱っており、さらに、その「土方」仕事をしていたのは父ではなく母である。母子家庭だったのだろうか。
バカにされながらも母の働く姿に感動した子は、「勉強しよう」と決意し、大学を出てエンジニアとなる。彼は自分の人生を「成功」だと考えているようである。
そのことはもちろん悪いことではない。しかし、私には少し引っかかるものがある。
この男は、「俺は土方仕事なんか嫌だ、バカにされたくないから一生懸命勉強して大学を出てエンジニアになるんだ」という気持ちがあったのではないか。
私は「土方」が差別される理由がよくわからない。私に言わせれば机に座って汗ひとつかかず不毛な会議や書類のやりとりをしている「ホワイトカラー」とか「管理職」と呼ばれる人々の方がよっぽど卑しいと思う。
「土方はイヤだから勉強してホワイトカラーになる」というのは賢明な考えではあろうが、美しく感動的なものではなく、私から見れば卑しいとさえ感じる。
この男が母に感じているのは、「土方のようなみっともない仕事をして、バカにされながら私を育ててくれてありがとう、僕はあなたみたいな人間にならずに済むように大学へ行って出世します」ということだ。
私はその学問観にも疑問を感じる。
学問というものは、各個人の生活の糧を得るためのものではない。学問の目的はそんなことではなくて、人類全体への貢献を目指すものである。「土方にならないように大学へ行く」などという動機は卑小極まりない。
私は努力や自己研鑽を否定するのではない。
だが、それらの目的が単に「グレずにまともな人間になって安楽な生活をする」という、ごく個人的な利己的なものであることに幻滅を感じるのである。
007 スカイフォール
新宿ミラノ3にて。007シリーズを見るのは初めてである。
監督のサム・メンデスは名前はどっかで聞いたことがあるなというくらいで他の作品を見たことはない。出演者も誰も知らない。
なんで007が戦っているのかよくわからない。
登場人物の年齢層が高い。
ただ、画面はどぎつくなく、CGは使われていたかもしれないがそんなに大仰なものはなく、登場人物達が大声で怒鳴りあったりすることもなく、比較的淡々とした映画なので落ち着いて見ていられた。
主要キャラクターの一人、いってみれば「悪役」「敵役」ということになる男の不気味さ、醜さが少し後を引く。
スカイフォールというのは実在する地名なのか?
荒野の中の大きな屋敷というのは、先日半分くらい読んだ「嵐が丘」を思い出させた。
この映画もやや暗い映画だ。
「ボンドガール」が出てきても全然ときめかない。
でも、その淡々とした感じがよかった。
敵役をもっと凡庸な悪人にしてしまい、上司?の女性も死なないようにして欲しかったくらいだ。
そうしてしまったら退屈すぎるか。
監督のサム・メンデスは名前はどっかで聞いたことがあるなというくらいで他の作品を見たことはない。出演者も誰も知らない。
なんで007が戦っているのかよくわからない。
登場人物の年齢層が高い。
ただ、画面はどぎつくなく、CGは使われていたかもしれないがそんなに大仰なものはなく、登場人物達が大声で怒鳴りあったりすることもなく、比較的淡々とした映画なので落ち着いて見ていられた。
主要キャラクターの一人、いってみれば「悪役」「敵役」ということになる男の不気味さ、醜さが少し後を引く。
スカイフォールというのは実在する地名なのか?
荒野の中の大きな屋敷というのは、先日半分くらい読んだ「嵐が丘」を思い出させた。
この映画もやや暗い映画だ。
「ボンドガール」が出てきても全然ときめかない。
でも、その淡々とした感じがよかった。
敵役をもっと凡庸な悪人にしてしまい、上司?の女性も死なないようにして欲しかったくらいだ。
そうしてしまったら退屈すぎるか。
2012/12/26
イマヌエル・スエデンボルグ 「結婚愛」
やっと読み終わった。なかなかの難物だった。もちろん結婚について書かれているのであるが、それがあまりにキリスト教にとって重要なものであるため、単に結婚とはこういうものだ、こうあるべきだ、という話にはとどまらない。「真の結婚愛とは何か」ということなら、多くの人がだいたい理想は描けるのではないだろうか。一人の相手を一生愛しぬき浮気をしない。スエデンボルグの言っていることも、それと大差はない。彼は特にひどく厳しいことを言っているわけではない。ただし、男と女の本性のような話については、もしそれを現在の日本で出版あるいは放送したらクレームが殺到するだろう。
この書は、哲学書ではない。物語でもない。なんというジャンルなのか、選別に困るが、報告書のようなものだ。彼は生きながらにして霊界に行った男である。それも、行ったことがある、などというものではなく、確か何十年間もの間、霊界とこの世を行ったり来たりして、霊界で見聞きしたことを書物に記録したのである。
そんな話は彼以外に聞いたことがない。丹波哲郎くらいか。でも丹波氏の言っていることはスウェーデンボルグとそっくりだし、名前も引用しているのでおそらく彼の影響を受けているのだろう。
イマヌエル・カントは、スウェーデンボルグの「霊界日記」を読んで、「こんなのデタラメだ。でもいちおうスジは通ってるね」という旨のことを述べたらしい。
私も同様である。彼のいう霊界のありよう、そこにあらわれる様々な人々、天使、信じられないほど美しいという男女など、そして彼がスパスパと結婚の状態や妾のこと愛人のこと娼婦のことなどを「こうだ!」と断定していくところにも、同意しかねるところがたくさんある。だが、おおむね言っていることにはスジが通っている。なんとなく、自分でも抱いている『人はこうあるべきだ』というもの、「常識」とかいうものに極めて近い。ただ、非常に倫理的に厳格であって、ここに書かれていることを読んで、「私の生き方、結婚のあり方は正しい」と喜べる人がどれ程いるだろうか?ほとんどの人が途中で怒り出すか、恥ずかしくなって読むに耐えないのではないだろうか?
私が本書を読むのに3週間もかかってしまったのも、そのように読むに耐えなくなってしまったからである。少しずつ、読んでいった。
先日読んだ「不安の概念」で期待したのはいわゆる「失楽園」というのがどういうことなのかということだったのだが、それに触れられてはいたが、結局聖書に書かれていること以上のことは何も言われていなかったが、スウェーデンボルグは「真相」を書いている。
引用しよう。
ただ、私はこの説にも満足はしていない。もっともらしいが、本当にそれだけだろうか?と思う。
私がこの本を買った時は確か20代だった。買った当時はパラパラと読んだだけではあったが、なんとなく脅威というか敬意のようなものを抱いていた。
その後、私はあまり人には自慢できないような生活を送ってきた。くわしくは書けないが「私は天国へ行ける!」と胸を張って言えるような生活ではなかった。
若い頃は、私は世の中を憎んでいた。自然を美しいと思わなかった。食事も空腹だから食べるだけで、微妙な味わいなどを気にしなかった。
歳をとるにつれて、花がきれいだなとか、夕焼けがきれいだなとか思うようになった。食べ物も、食べることそのものが楽しいというか、おいしいものを食べることが快感であると感じるようになった。それは別に悪いことではないが、私は「堕落」のように思えてならない。
先日聖書を通読したときも、「黙示録」を読んでも何も感じなかった。腹立たしささえ感じるほどであった。初めて読んだころは、よくわからないなりに何かを感じていた。それが、今ではまったく反応しない。平たく言えば、「霊的な感覚がわからなくなった」という感じだ。本書にも、古代の人々は表象を何かの表象として理解していたがその能力が失われて表象そのものを崇拝するようになり偶像崇拝が生まれたということが書かれている。
でも、そんなのは私だけではないだろう。今まで生きてきて、「霊界」などというものを信じている人なんかほとんどいなかった。そんなことは話題にすらならない。「神」も同様で、否定する人はたくさんいたが、「俺は神を信じている」と言った人は一人か二人くらいしかいない。
この書は、哲学書ではない。物語でもない。なんというジャンルなのか、選別に困るが、報告書のようなものだ。彼は生きながらにして霊界に行った男である。それも、行ったことがある、などというものではなく、確か何十年間もの間、霊界とこの世を行ったり来たりして、霊界で見聞きしたことを書物に記録したのである。
そんな話は彼以外に聞いたことがない。丹波哲郎くらいか。でも丹波氏の言っていることはスウェーデンボルグとそっくりだし、名前も引用しているのでおそらく彼の影響を受けているのだろう。
イマヌエル・カントは、スウェーデンボルグの「霊界日記」を読んで、「こんなのデタラメだ。でもいちおうスジは通ってるね」という旨のことを述べたらしい。
私も同様である。彼のいう霊界のありよう、そこにあらわれる様々な人々、天使、信じられないほど美しいという男女など、そして彼がスパスパと結婚の状態や妾のこと愛人のこと娼婦のことなどを「こうだ!」と断定していくところにも、同意しかねるところがたくさんある。だが、おおむね言っていることにはスジが通っている。なんとなく、自分でも抱いている『人はこうあるべきだ』というもの、「常識」とかいうものに極めて近い。ただ、非常に倫理的に厳格であって、ここに書かれていることを読んで、「私の生き方、結婚のあり方は正しい」と喜べる人がどれ程いるだろうか?ほとんどの人が途中で怒り出すか、恥ずかしくなって読むに耐えないのではないだろうか?
私が本書を読むのに3週間もかかってしまったのも、そのように読むに耐えなくなってしまったからである。少しずつ、読んでいった。
先日読んだ「不安の概念」で期待したのはいわゆる「失楽園」というのがどういうことなのかということだったのだが、それに触れられてはいたが、結局聖書に書かれていること以上のことは何も言われていなかったが、スウェーデンボルグは「真相」を書いている。
引用しよう。
「楽園は、霊的には、理知であり、生命の木の実を食うことは、霊的には、主から理解し、知恵を得ることであり、善悪を知る知識の木の実を食うことは自己から理解し、賢明になることである。(353)」
ただ、私はこの説にも満足はしていない。もっともらしいが、本当にそれだけだろうか?と思う。
私がこの本を買った時は確か20代だった。買った当時はパラパラと読んだだけではあったが、なんとなく脅威というか敬意のようなものを抱いていた。
その後、私はあまり人には自慢できないような生活を送ってきた。くわしくは書けないが「私は天国へ行ける!」と胸を張って言えるような生活ではなかった。
若い頃は、私は世の中を憎んでいた。自然を美しいと思わなかった。食事も空腹だから食べるだけで、微妙な味わいなどを気にしなかった。
歳をとるにつれて、花がきれいだなとか、夕焼けがきれいだなとか思うようになった。食べ物も、食べることそのものが楽しいというか、おいしいものを食べることが快感であると感じるようになった。それは別に悪いことではないが、私は「堕落」のように思えてならない。
先日聖書を通読したときも、「黙示録」を読んでも何も感じなかった。腹立たしささえ感じるほどであった。初めて読んだころは、よくわからないなりに何かを感じていた。それが、今ではまったく反応しない。平たく言えば、「霊的な感覚がわからなくなった」という感じだ。本書にも、古代の人々は表象を何かの表象として理解していたがその能力が失われて表象そのものを崇拝するようになり偶像崇拝が生まれたということが書かれている。
でも、そんなのは私だけではないだろう。今まで生きてきて、「霊界」などというものを信じている人なんかほとんどいなかった。そんなことは話題にすらならない。「神」も同様で、否定する人はたくさんいたが、「俺は神を信じている」と言った人は一人か二人くらいしかいない。
2012/12/19
森鴎外 「阿部一族」
「結婚愛」が難航している。
合間に読んだ。
これも殉死の話である。ある大名が死に、その家臣たちが殉死する。鷹まで井戸に飛び込む。「阿部」というのは、殉死を許されなかった男であるが、許されていないにもかかわらず殉死する。
言うまでもないことかもしれないが、殉死とは切腹である。これまた言うまでもないことかもしれないが、切腹とは腹を切り、その後介錯人によって刀で首を落とすことを言う。
ある人によると、江戸時代の切腹はほとんど形骸化していて、腹を切るのはほんのちょっと或いはあてるフリをするのみで事実上刀で首をはねることになっていたらしい。
想像するだけで身震いするようなことであるが、本作品ではどうしても殉死したい人たちが登場する。『死ぬのは嫌だがそういう風習があるから仕方なく死ぬ』というものではない。皆、『お願いですから死なせてください』と、生前に殿様にお願いする程である。
許可されなかったのに、いわば勝手に殉死した阿部については、やはり正当な殉死とみなされず、家督相続で差別的な待遇をうける。そして殿様の一周忌で阿部の息子が抗議と受け取れる「髻を切って供える」という事をし、後日縛り首にされる。残った阿部一族は篭城するが、討手が来て滅ぼされる。
この作品には、死ぬことの葛藤がほとんど見られない。みな、死を恐れないことを競い合うようにしている。殉死の場面もあっさりと描かれている。
現代の我々には、まったく理解できない世界である。わたしは時代劇とか時代小説というものをほとんど見たり読んだりしない。「殉死」など正気の沙汰ではないと思う。だが、現代でも日本では1年に3万人もの自殺者がいるという。走っている電車に飛び込んで死ぬ者さえいる。その死は「殉死」ではなく、自分で勝手に死んだ、いわゆる「犬死」がほとんどであろう。そもそも現代で「殉死」が讃えられることがない。
しかし、命こそ捨てないまでも、人生を会社にささげているような人はいる。身も心もぼろぼろにして会社に忠誠を誓っている人たちを、私はたくさん見てきた。そんなことは馬鹿げている、ただの金儲けじゃないか、と思っていた。その考えは今でも同じだ。
でも、人は自分自身が幸福であれば、衣食住が満たされていれば幸福なのか、と言われるとそうではないだろう。人間には「意地」というものがある。最近すっかりきかなくなった言葉であるが。「意地」のためには寝食も忘れるどころか、その欲望が消え去る。食べなくてもいいのではなく、食べたくなくなる。「意地でも食べない」と思う。そういう経験なら現代の我々にもあるだろう。
私は自殺者に対して、安易に弱虫だとか卑怯だとか、迷惑をかけるなどということはできない。彼らも恐怖や自分の幸福を捨てて、意地を貫いたのかもしれないからだ。
合間に読んだ。
これも殉死の話である。ある大名が死に、その家臣たちが殉死する。鷹まで井戸に飛び込む。「阿部」というのは、殉死を許されなかった男であるが、許されていないにもかかわらず殉死する。
言うまでもないことかもしれないが、殉死とは切腹である。これまた言うまでもないことかもしれないが、切腹とは腹を切り、その後介錯人によって刀で首を落とすことを言う。
ある人によると、江戸時代の切腹はほとんど形骸化していて、腹を切るのはほんのちょっと或いはあてるフリをするのみで事実上刀で首をはねることになっていたらしい。
想像するだけで身震いするようなことであるが、本作品ではどうしても殉死したい人たちが登場する。『死ぬのは嫌だがそういう風習があるから仕方なく死ぬ』というものではない。皆、『お願いですから死なせてください』と、生前に殿様にお願いする程である。
許可されなかったのに、いわば勝手に殉死した阿部については、やはり正当な殉死とみなされず、家督相続で差別的な待遇をうける。そして殿様の一周忌で阿部の息子が抗議と受け取れる「髻を切って供える」という事をし、後日縛り首にされる。残った阿部一族は篭城するが、討手が来て滅ぼされる。
この作品には、死ぬことの葛藤がほとんど見られない。みな、死を恐れないことを競い合うようにしている。殉死の場面もあっさりと描かれている。
現代の我々には、まったく理解できない世界である。わたしは時代劇とか時代小説というものをほとんど見たり読んだりしない。「殉死」など正気の沙汰ではないと思う。だが、現代でも日本では1年に3万人もの自殺者がいるという。走っている電車に飛び込んで死ぬ者さえいる。その死は「殉死」ではなく、自分で勝手に死んだ、いわゆる「犬死」がほとんどであろう。そもそも現代で「殉死」が讃えられることがない。
しかし、命こそ捨てないまでも、人生を会社にささげているような人はいる。身も心もぼろぼろにして会社に忠誠を誓っている人たちを、私はたくさん見てきた。そんなことは馬鹿げている、ただの金儲けじゃないか、と思っていた。その考えは今でも同じだ。
でも、人は自分自身が幸福であれば、衣食住が満たされていれば幸福なのか、と言われるとそうではないだろう。人間には「意地」というものがある。最近すっかりきかなくなった言葉であるが。「意地」のためには寝食も忘れるどころか、その欲望が消え去る。食べなくてもいいのではなく、食べたくなくなる。「意地でも食べない」と思う。そういう経験なら現代の我々にもあるだろう。
私は自殺者に対して、安易に弱虫だとか卑怯だとか、迷惑をかけるなどということはできない。彼らも恐怖や自分の幸福を捨てて、意地を貫いたのかもしれないからだ。
2012/12/17
Deep Purple "Perfect Strangers"
このアルバムは私が高校生の頃再結成したDeep Purpleのアルバムで、周囲の友人達が騒いでいたような記憶があるが、私はこのアルバムの記憶がほとんどない。
Deep Purple自体は、その頃友人達が絶賛していたので Machine Headは聴いていたが、フーンという程度であまり良さはわからなかった。
ただ、同じく絶賛されていた Led Zeppelinよりは親しみやすかった。
その後 Deep PurpleもLed Zeppelinもめぼしいアルバムはほとんど聴いた。
Deep PurpleはⅠ期が好きだ。特に無題の3rdアルバムが。
iPodでシャッフルにしていて、たまにDeep Purpleがかかって、お、いいな、と思うことはあるが、そんなに聴きこむようなことはなかった。
ところが最近、やはりiPodのシャッフル演奏で聴いた「Knocking at your back door」がすごくいいなと思えて何度か聴いているうちに、この曲が入っている「Perfect Strangers」を聴いてみたくなった。
そして何度か聴くうちに、「これは傑作じゃないか?」と思い始めた。
amazonのレビューなどを見るとやはり傑作とされているようだ。
やっぱり、Ⅱ期のメンバー、リッチー、イアン・ギラン、イアン・ペイス、ジョン・ロード、ロジャー・グローバーが一番いいのかな。

Deep Purple自体は、その頃友人達が絶賛していたので Machine Headは聴いていたが、フーンという程度であまり良さはわからなかった。
ただ、同じく絶賛されていた Led Zeppelinよりは親しみやすかった。
その後 Deep PurpleもLed Zeppelinもめぼしいアルバムはほとんど聴いた。
Deep PurpleはⅠ期が好きだ。特に無題の3rdアルバムが。
iPodでシャッフルにしていて、たまにDeep Purpleがかかって、お、いいな、と思うことはあるが、そんなに聴きこむようなことはなかった。
ところが最近、やはりiPodのシャッフル演奏で聴いた「Knocking at your back door」がすごくいいなと思えて何度か聴いているうちに、この曲が入っている「Perfect Strangers」を聴いてみたくなった。
そして何度か聴くうちに、「これは傑作じゃないか?」と思い始めた。
amazonのレビューなどを見るとやはり傑作とされているようだ。
やっぱり、Ⅱ期のメンバー、リッチー、イアン・ギラン、イアン・ペイス、ジョン・ロード、ロジャー・グローバーが一番いいのかな。
2012/12/05
イマヌエル・スエデンボルグ 「結婚愛」を読む
The Delights of Wisdom pertaining to Conjugial Love の翻訳
638ページ、1行48文字、1頁19行、58万1856字、原稿用紙にして1455枚
「戦争と平和」の1/3くらいである。かなり昔に買ったものである。10年以上前であるのは間違いない。「天界と地獄」も買ってあるが、両方、ほとんど読んでいない。「結婚愛」は、「天界と地獄」よりも厚い。知名度は低い。というか、この本について言及されているのを、読んだことも聞いたことも一度たりともない。
静思社 昭和41年初版、昭和56年四版 柳瀬芳意 訳
原文はラテン語 Delicioe Sapientioe de Amore Conjugiali 1768年にアムステルダムで出版638ページ、1行48文字、1頁19行、58万1856字、原稿用紙にして1455枚
「戦争と平和」の1/3くらいである。かなり昔に買ったものである。10年以上前であるのは間違いない。「天界と地獄」も買ってあるが、両方、ほとんど読んでいない。「結婚愛」は、「天界と地獄」よりも厚い。知名度は低い。というか、この本について言及されているのを、読んだことも聞いたことも一度たりともない。
次に読むもの
「戦争と平和」は、読んでおきたいとは思ったが多分読めないだろうと思っていた本だった。よくおぼえているのは、浪人して予備校に通っていたとき、世界史の講師が「『戦争と平和』は読んでない、だって西村京太郎の方がおもしろいんだもん」と言っていたことだ。世界史を教える人ですら読んでいないものだから、読めなくても仕方がないか、と思っていた。
「魔の山」を読み、聖書を読んだ勢いで、もう読めないものなどない、と思って「戦争と平和」を読んだ。
長編とか、膨大な量のものを読むコツは、細部にこだわらないことだ。一行や二行、意味のわからない箇所があってもとまらずに読み進む。
さて、次は何を読もうか。
ずっと翻訳ものばかり読んできたので、純粋な日本語が読みたくなっている。「細雪」「暗夜行路」も、いつかは読まねばなるまいと思っている。
その前に、「阿部一族」を読んでおこうかと思っている。
でも、「戦争と平和」を読んでしまうと、「アンナ・カレーニナ」をどうしても読みたくなる。
想像だが、「アンナ・カレーニナ」は、おそらく公爵令嬢マリヤのような女性を主人公とした悲劇ではないだろうか。
ただトルストイの長編を続けるのはアレなので、やっぱり日本語の長編を読みたい。
「魔の山」を読み、聖書を読んだ勢いで、もう読めないものなどない、と思って「戦争と平和」を読んだ。
長編とか、膨大な量のものを読むコツは、細部にこだわらないことだ。一行や二行、意味のわからない箇所があってもとまらずに読み進む。
さて、次は何を読もうか。
ずっと翻訳ものばかり読んできたので、純粋な日本語が読みたくなっている。「細雪」「暗夜行路」も、いつかは読まねばなるまいと思っている。
その前に、「阿部一族」を読んでおこうかと思っている。
でも、「戦争と平和」を読んでしまうと、「アンナ・カレーニナ」をどうしても読みたくなる。
想像だが、「アンナ・カレーニナ」は、おそらく公爵令嬢マリヤのような女性を主人公とした悲劇ではないだろうか。
ただトルストイの長編を続けるのはアレなので、やっぱり日本語の長編を読みたい。
2012/12/04
「戦争と平和」 (17) エピローグ 第二編
エピローグの第二編はすべて、トルストイの演説というか論説というか、歴史についてのムズカシイ話である。エピローグ第一編で「物語」は終わっていた。
このようなトルストイの論説文のようなものは、第三巻あたりからちょくちょくはさまれ、四巻ではだいぶ量が増えていたのだがいい足りなかったらしく、エピローグの一編を使って語られている。
彼は歴史の描き方に疑問を呈する。ほとんど、今まで書かれた歴史というものを全否定するかのような言い分である。特に、「偉人」とか「英雄」と呼ばれる人が歴史を先導して人々を動かしていったかのような歴史の叙述法を否定している。
それが、ナポレオンの描き方に現れている。ただ、彼はロシア人であるからロシア側からの視点で描かれているし、特に後半ではナポレオンに対する個人的な嫌悪感のようなものも混ざっているように感じた。
私は学校の授業で習うような歴史も、NHKの大河ドラマのようなものも、司馬遼太郎の小説などの「歴史もの」も、興味がなく、反感すら覚える。それはトルストイが言うような「いわゆる偉人に大きな意義を認めない」という立場に似ている。明治維新でも、秀吉の天下統一でも、第二次大戦でもなんでも、坂本竜馬だとか、ヒトラーだとか、スターリンだとか、チャーチル、ルーズベルトなどの一部の人間が将棋でもさす様に人々を動かし、大衆は何も知らずそれらのリーダーに導かれるままに生きていた、というような歴史の描写には疑問を抱く。
アンドレイ公爵とかニコライ・ロストフなどは架空の人物であるが、実際にそのような人々は存在しただろう。彼らは貴族で、裕福で教育もあって、優秀な人物も、ナポレオンなどよりよっぽど頭脳明晰で人格者な人間もいたであろう。それはあのときのロシアに限らず、日本だって、北朝鮮だってそうだろう。そういう人々ですら、歴史の記録には名前さえ出てこない。
「戦争と平和」では、一般的な歴史の叙述法をひっくり返したような描き方がされる。つまり、名も無き一兵士、一人の女、少年、などを中心に描かれ、ナポレオンはなんら特別の人間でもなく、噂ばかりが先行しているただの平凡な男にすぎない。
ただ、忘れそうになるがピエールは伯爵、アンドレイは公爵、ニコライ・ロストフも伯爵、現在の日本で4300万円相当の借金を親に肩代わりさせるような生活を送っている人々のことである。当時のロシアの公爵というものがどれほどのものなのかわからないが、「ごく平凡な一人の男」ではないだろう。
ところで、この作品は私が今まで読んだことのない「調和」、「平穏さ」を感じたのだが、それを実現させているのは「数学的」なものではないかと思った。それを思ったのは、「付録」のなかにある「はらの中で、アメリカへ行ったりすきな数学上の問題に移ったりできる」と書いているのを読んだときだ。作中にも、「歴史を微分する」というようなことがしばしば言われたり、父が娘のマリヤに数学の問題を解かせる、などというところもある。トルストイ自身がそういうことをしていたのではないだろうか?彼は数学が好きで得意だったのではないだろうか?それが彼の文体に調和を生み、明晰な印象を与えるのではないだろうか?
大作であったが、意外に読みやすかった。時間を測りながら読んでいたのだが約47.6時間かかった。
この作品中、もっとも魅力のある2人の人物、ニコライ・ロストフとマリヤは、トルストイの両親がモデルだというのを解説で知って、納得した。
このようなトルストイの論説文のようなものは、第三巻あたりからちょくちょくはさまれ、四巻ではだいぶ量が増えていたのだがいい足りなかったらしく、エピローグの一編を使って語られている。
彼は歴史の描き方に疑問を呈する。ほとんど、今まで書かれた歴史というものを全否定するかのような言い分である。特に、「偉人」とか「英雄」と呼ばれる人が歴史を先導して人々を動かしていったかのような歴史の叙述法を否定している。
それが、ナポレオンの描き方に現れている。ただ、彼はロシア人であるからロシア側からの視点で描かれているし、特に後半ではナポレオンに対する個人的な嫌悪感のようなものも混ざっているように感じた。
私は学校の授業で習うような歴史も、NHKの大河ドラマのようなものも、司馬遼太郎の小説などの「歴史もの」も、興味がなく、反感すら覚える。それはトルストイが言うような「いわゆる偉人に大きな意義を認めない」という立場に似ている。明治維新でも、秀吉の天下統一でも、第二次大戦でもなんでも、坂本竜馬だとか、ヒトラーだとか、スターリンだとか、チャーチル、ルーズベルトなどの一部の人間が将棋でもさす様に人々を動かし、大衆は何も知らずそれらのリーダーに導かれるままに生きていた、というような歴史の描写には疑問を抱く。
アンドレイ公爵とかニコライ・ロストフなどは架空の人物であるが、実際にそのような人々は存在しただろう。彼らは貴族で、裕福で教育もあって、優秀な人物も、ナポレオンなどよりよっぽど頭脳明晰で人格者な人間もいたであろう。それはあのときのロシアに限らず、日本だって、北朝鮮だってそうだろう。そういう人々ですら、歴史の記録には名前さえ出てこない。
「戦争と平和」では、一般的な歴史の叙述法をひっくり返したような描き方がされる。つまり、名も無き一兵士、一人の女、少年、などを中心に描かれ、ナポレオンはなんら特別の人間でもなく、噂ばかりが先行しているただの平凡な男にすぎない。
ただ、忘れそうになるがピエールは伯爵、アンドレイは公爵、ニコライ・ロストフも伯爵、現在の日本で4300万円相当の借金を親に肩代わりさせるような生活を送っている人々のことである。当時のロシアの公爵というものがどれほどのものなのかわからないが、「ごく平凡な一人の男」ではないだろう。
ところで、この作品は私が今まで読んだことのない「調和」、「平穏さ」を感じたのだが、それを実現させているのは「数学的」なものではないかと思った。それを思ったのは、「付録」のなかにある「はらの中で、アメリカへ行ったりすきな数学上の問題に移ったりできる」と書いているのを読んだときだ。作中にも、「歴史を微分する」というようなことがしばしば言われたり、父が娘のマリヤに数学の問題を解かせる、などというところもある。トルストイ自身がそういうことをしていたのではないだろうか?彼は数学が好きで得意だったのではないだろうか?それが彼の文体に調和を生み、明晰な印象を与えるのではないだろうか?
大作であったが、意外に読みやすかった。時間を測りながら読んでいたのだが約47.6時間かかった。
この作品中、もっとも魅力のある2人の人物、ニコライ・ロストフとマリヤは、トルストイの両親がモデルだというのを解説で知って、納得した。
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