2007/04/12

素晴らしき哉、人生!

このタイトルは皮肉でもなんでもなく、そのまんま人生って素晴らしいですね、という意味である。
わたしはこの映画を20歳のころ、ある人にすすめられて見た。
その人との関係は単なる友人よりは少し公的な関係だったのだが、
わたしは素直に感動はできない、というような感想を述べた。
と言いながら実は涙まで流していたのであるが。

しかし、涙を流しながらも、何か違うという感じがあった。
今回再度見てみて、やっぱりおかしいと感じた。

この映画はおそらく、クリスマスキャロルにヒントを得ていると思う。
そして私はクリスマスキャロルにも、この映画と同様の批判的な気持ちがある。

この映画には天使がでてきて人生に絶望した主人公が自殺しないように導いていくのであるが、
それは自分が翼を得るためなのである。
もしかしたら天使は無償の行為でおこなっているが照れ隠しあるいは気を使わせないためにそう言っただけかもしれないからそれはよしとしようか。

天使は主人公が存在しなくなった世界を見せ、人生を取り消す事は苦しみと同時に喜びも消す事になる事を思い知らせる。
そして主人公は生きてるだけで丸儲け的な心境になる。
そこへ、主人公がカネに困っていることを知った人々がカンパをしに集まってくる。めでたしめでたし。


この映画の根底には、人は正しく生きていれば必ず幸せになれる、神様が天使が見ている、だから人のために誠実に生きましょう、という思想が流れている。クリスマスキャロルもしかり。

そういう考えは素晴らしいことのようだが、実は間違っている。
それは、現実はそんなに甘くないなどという意味ではない。

そうとは明言されていないが、この主人公が天使に助けられると言う特別扱いを受けたのは、それまでの人生で自分を犠牲にしておおぜいの人を助けてきたからであろう。
もちろんそのことは素晴らしいことだ。私もそれには感動を覚える。

しかし、だからと言って自分が窮境に陥った時にその見返りに助けてもらえはしないのである。もしそれを期待するのだったら、もしくは自分は今までみんなのために尽くしてきたのにこんな不幸な目にあうなんて神様は不公平だ、と呪おうものならその人の善行はすべて無に帰する。

この映画と対照的なのがヨブ記である。
ヨブも主人公と同様正しき人であるにもかかわらず疫病に打たれた。
しかもこれはサタンが神に断りをいれて打っているのである。
この時ヨブは自分は悪い事は何もしていないと譲らなかった。
しかし、これも神のみこころです、と受け入れる事もせず、
生まれてこなければよかった的な発言をする。

結局ヨブはその後神に祝福されるのであるが、
それはそれまでの正しい行いに対してではなく、病気になっても失わなかった信仰に対してなのである。

信じるものは救われる、という言葉は無神論者やアンチキリスト者にそんなうまい話があるかとか信じないものは救わないのかと言う批判の的になる。
じゃあ殺人鬼が信じたら救われるのか、と。