しかし、私は彼の小説に、面白さ以外の、人間とか神とか罪とか信仰とかに対する、特に深い洞察があるとは感じられなかった。私は基本的に不可知論者で、お人よしで、世間知らずで、常識人である。アタマもよくないし、金儲けもヘタな、つまらない凡人である。正直と謙虚さと素直さが大切だと思っている。熱心な信仰も持たないが、神なんかいないさと真剣に考えたり、信仰を持つ人を侮蔑したりもしない。むしろ、そういうものに大しては興味があるというか、親しみを覚える。そういう人間には、ドストエフスキーの作品はあまり感動できないと思う。そして、それでいいと思う。ドストエフスキーの作品に夢中になって、主人公に感情移入してしまうような人はちょっと危険で、多分嫌われ者だと思う。
さて、私が必読だとする世界的古典は、2冊ある。他人にすすめるのだから、当然自分が読んで感動したものでなければならない。そんな書物は数えるほどしかない。1冊目は、プラトンの「国家」である。もう1冊は、カントの「純粋理性批判」である。そして、この2冊の内容は非常に似ているとも思っている。両者ともに、人間理性と認識の限界を主張しているのである。だから、結局誰も真理なんかに到達できない、という主張である。そして、正義とか善というものを肯定しているのも、珍しい書物である。小難しいことを言う人は、たいてい誰もが漠然と認めているぜそれらの価値観の根底を揺るがすようなことを言うものであるが、プラトン(ソクラテス)やカントは違う。そして、その正義や善を肯定しようとすると、それらの正当性がとても人間に定義や証明をすることができないものであるということに気づくのである。それを説いた書物なのである。人間は、そのことだけは忘れてはならないと思う。家庭においても、仕事においても、芸術、科学、スポーツなんでも、その姿勢がないと、何もできないと思う。
ただ、そういう境地に達するのは、「国家」や「純粋理性批判」を読むことによって成し遂げられるのではない。この2冊の書物はあくまでも確認である。その境地に至らしめることのできるおそらく唯一の書物は、聖書である。私も、先に聖書を読んでから、「国家」や「純粋理性批判」を読んだのである。聖書から受ける漠然とした、しかし確実な何かを、これらの書物によってよりよく認識させられたのである。一見荒唐無稽で非科学的、非論理的に思える聖書の記述が、屁理屈よりは全然説得力があるということを、思い知ったのである。