2010/02/21

ラブリーボーン

テレビのCMで、中に船の模型がある瓶を叩き割ると霊界でもそれに対応して船が壊れるシーンと、主人公の女の子のかわいさにひかれてみてきた。

ゴーストとか、奇跡のなんとかとかいう映画でも、
死後の世界を描いたものはあったが、
地上の行為が霊界に反映するのは、どちらも描いていなかったのではないか?

そして、死者が地上に働きかけるのは非常にささやかで、
ほとんど「気のせい」レベルにとどまっている。

私は、この描き方に非常に感心した。

映画自体の評判はいまいちのようである。

観に行ったシネコンでも、チケットはあまり売れていなかったようだ。
題材が題材だけに、日曜日に家族やカップルで観るような映画ではないし。

観る前から、泣くのはわかっていた。

ストーリーも、演技も、節度があるというか、抑制されていたというか、
露骨でなく、感情をぶちまけたようなものでもないのが、よかった。

観る人によっては、それが「中途半端」と感じるかもしれないが。

私はこの映画の監督のことも役者のことも原作のことも何もしらない。

でも、CMで見たほんの少しのシーンで、観るべき映画だと思った。

そしてその勘は間違っていなかった。


鎮魂とは、成仏とは何か。
被害者の無残な遺体が発見されて両親がそれを確認する、
犯人が捕まって罵倒されて、
こんな残酷なマネをした男がいると大々的に報道する、
そんな様子を、もしこの映画のように死者が見ていたとしたら、
どうだろうか?

「私の遺体がパパとママに会えてよかった」
「悪いことをした犯人はその報いを受けるのよ」
なんて思うだろうか?
私は、自分が死んだら遺体なんかとっとと焼いて欲しいと思うが、
みんなはそうじゃないのだろうか?

遺体なんて、金庫にはいったまま、誰も見つけることのできない
穴の底に捨てて埋め立ててしまったほうがいいんだとさえ思った。
あれは、犯人が自分の犯罪を隠蔽するための行為だったが、
それがはからずもスージーを「葬る」ことにもなっていた。

性犯罪に限らず、「悪」というものは絶えることがない。
絶えてしまえばいい、と思う気持ちは正しいものだろうが、
それは極めて困難で誰にも成し遂げられていない。

また、「悪」は決して他人事ではなく、
誰もが自身の中に持っているものである。
全くの善人も全くの悪人もいない。

犯人役は普通の紳士である。
それは、「紳士を装った鬼畜」ととらえることもできるが、
「紳士も鬼畜の所業をなす」と言うこともできる。
そして実際、犯罪というのは多くの場合そういうものだろう。

自分の利己心や信念に基づいて理性的に遂行するというよりも、
感情や肉体に振り回されて「我を忘れて」しでかすのが多くの犯罪である。
だから、更生施設というものが存在するのである。


私が子供の頃見ていたマンガやヒーローものの番組では、
悪の親玉みたいなのがいて、それが怪獣やら何やらを送りだすのだが、
親玉は常に生き延びる。

この世の悪の親玉も、そのようにしぶとく生き続けている。
そして、われわれが忘れてはいけないことは、
私達もその親玉の子分かもしれない、ということである。

悪を憎むことと同じくらい、自分の中の悪を自覚することが必要である。