2024/05/31

アンナ・カレーニナ(第七編、第八編)

退屈を感じた第六編のあと、また怒涛の展開となって、第八編はエピローグのような感じだった。

リョーヴィン夫妻の子が生まれ、アンナが自殺する。

ヴロンスキーとアンナ、リョーヴィンとキチイの二組のカップルが対照的に描かれる。

タイトルは「アンナ・カレーニナ」であるが、トルストイが描きたかったのは、描きたかったというか、描くべきだと考えたのは、リョーヴィンとキチイ、そしてその子の方だったのだろう。

アンナはなぜ自殺したのか。その心理は詳細に描かれている。まるで、彼女と一緒に自分が死んでいくような気にさせられる。

彼女が死んだのは良心がとがめたのでもなく、不倫を世間に非難されて追い詰められたのでもなく、ヴロンスキーを苦しめるためだった。

もちろん、それだけではないのだろうが、最終的には彼女は愛情の冷めたヴロンスキーに復讐するようなつもりで死んだ。

アンナとヴロンスキーのエピソードだけでも一つの小説になりそうであるが、本作はそのエピソードと同じくらいリョーヴィンとキチイのエピソード、特にリョーヴィンの心理や思索が描かれている。

それによってこの小説は救いようのない悲劇とならず、衝撃や悲しみを感じつつも生に対して肯定的な考えを持つことのできる作品となっている。

アンナ・カレーニナ(第六編)

第六編は、正直言って退屈で読むのが苦痛にさえなった。

それまでは「やはりアンナ・カレーニナは素晴らしい小説だ、トルストイは世界一の、歴史上もっとも偉大な作家だ」くらいに思っていたが、第六編は退屈で何のためにこんな話をだらだらと書いているのか、と疑問に思うほどであった。

リョーヴィンが結婚し、アンナとヴロンスキーには子が生まれてカレーニンとの離婚は成立しないものの事実上彼らは夫婦のように暮らす。

二つのカップルの間には小さな嫉妬、喧嘩が起こる。リョーヴィンとキチイの間にはないが、アンナとヴロンスキーの間には愛情が冷める兆しがみられる。

狩りの話、選挙の話、などが続き、アンナはとにかく離婚を成立させたいと強く思うようになる。

約8割読み終わった。いよいよ第七編。

2024/05/30

アンナ・カレーニナ(第五編)

Kindleアプリで、人名とか、気になったフレーズとか、誤植というか誤字というか、そういうところに色やメモを付けながら読んでいる。

iPhoneで読んだりPCで読んだりしているが、PCつまりWindows用kindleアプリは出来がだいぶ悪い。検索を何度かするとクラッシュしたり、行をまたいで選択すると余計な文字列が選択されたりする。

わざわざ端末を買うほどのことはないだろうと思っていたが、kindle端末を買おうかなと思い始めた。そこで、Windowsアプリの出来が悪いのも、端末を買ってもらいたいからおろそかにしているのかなと思った。


アンナ・カレーニナを第五編まで読んだ。(編でいうと8分の5、新潮文庫でいうと中巻まで、kindleのパーセンテージ表示だと67%)

ここまで読んでくると文体のクセ、訳文のクセ、登場人物の把握などができてスイスイ読めるようになる。最初は1章ずつ読むくらいだったのだが、今はどんどん読む速度が上がっている。

ロシア人の人名は呼び方がいくつかある。「アンナ・カレーニナ」と言ったり「アンナ・アルカージエヴナ」と言ったり、「カレーニン」と言ったり「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」と言ったり。「オブロンスキー」とか「スチーヴァ」とか。

アンナがカレーニンを呼ぶときは「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」となる。アレクサンドロヴィチは父称と言って、苗字ではない。

「アンナ・カレーニナ」は、「カレーニンの夫人であるアンナ」ということになり、「アンナ・アルカージエヴナ」は「アルカージイの娘であるアンナ」ということになる。

米川訳では父称を付けて呼ぶところをそのままカタカナで書いているが、木村訳は「主人」とか「あなた」としたりしている。父称は日本人にはなじみがないので、その方がわかりやすいだろう。

ただ、カタカナで書かれていると、その人を呼ぶときのその人の心情とか心理が少しわかるような気がする。


トルストイの描いている社会は貴族社会である。裕福な人々で、知事だったり、召使や家庭教師をやとっている。私の生活とは縁遠い。しかし、読んでいてそんなに違和感を感じることはない。芝居やオペラか何かを観に行くとか、みんなで集まって話をするとか、「社交界」とかいうものにも縁はないが、まあ、飲み会に毛が生えたようなものだと思いながら読んでいる。

しかしあらためて違和感を覚えるのは、アンナは不倫相手を家に入れ、その子を自分の家で産み、それをカレーニンも快く思わないながらも容認しているところである。現代の日本では考えられないことだろう。

そしてアンナとヴロンスキーは産んだ娘と一緒にイタリアへ行ったりする。そしてロシアに帰ってきたかと思えばこっそりというか無理やりというか家に帰って息子にあったりする。そのときも夫とすれ違ったりする。

貴族社会というのは、こういうことがある社会だったのだろうか。

リョーヴィンの幸福な結婚生活が描かれていたと思っていたら、兄の悲惨な死のエピソードが出てきたりする。

結婚、死、出産等は誰もが経験すると言ってもいい出来事ではある。不倫は誰でもとは言えないがそんなに珍しいことではなく、ちょっとした浮気程度であればしない人の方が少ないかもしれない。

それらのエピソードはほぼ客観的に描写されている。

トルストイの小説を「貴族社会を描いたもの」として読む必要はないと思う。トルストイ自身にも、貴族社会を描こうとしたつもりはなかったと思う。登場人物たちの生活は外国でもあり時代も違うから多少違和感や疑問を感じることはあるが、感情とか心理とかいうものは私でも十分理解できる。



2024/05/29

アンナ・カレーニナ(第三篇、第四編)

第四編まで読み終わった。話が劇的に進んだ。

リョーヴィンが社会改革のようなことを考えている。これは共産主義と似ているがそれとは異なるものだと本人が言っている。

アンナの不倫はどうにもならず、カレーニンは離婚を考え弁護士に相談するがどうしても踏み切れない。

リョーヴィンはキチイと結婚することになる。

アンナが子を産み、体調を崩して死にそうになる。ヴロンスキーがピストル自殺を図るが一命はとりとめ、その後アンナとヴロンスキーはイタリアへ立つ。

この小説の中心となっている二組の男女の関係が、対照的に不幸と幸福に向かって進んでいく。

描かれ方が非常にリアルで、人間関係も多様に多方向から描かれているのであたかも現実を見ているかのようだ。

「戦争と平和」に描かれた会話はすべてトルストイ自身が見聞きしたものであって自分で「創作」したものはひとつもない、という話を聞いて感心したのだが、「アンナ・カレーニナ」もそうなのだろうか?「アンナ」は起こる出来事が個人的なことではあるが深刻である意味戦争などよりも重いことかもしれない。こんな出来事に関わる男女の心理など、自分が経験しなければ知ることはできないだろう。

リョーヴィンがトルストイ自身をモデルとしているとよく言われるが、彼もいろんな経験をしていてそんなに純朴で清廉潔白な人間ではない。多分、オブロンスキー、ヴロンスキー、カレーニンすべてにトルストイ自身が投影されているだろう。

アンナについては、プーシキンの娘がモデルだとかいう話もあるがどこまで本当かわからない。今まで読んだ感じだと、アンナという女性はトルストイの創作である部分が大きいように思う。

トルストイ自身がそして読んでいる私が男性だからそうならざるを得ないのかもしれないが本作を読んでいて感情移入するのはアンナではなくヴロンスキーやカレーニンの方だ。リョーヴィンについてはニュートラルな存在なので感情移入するということもない。

kndleで米川正夫訳を読んでいるのだが、ちょくちょく疑問を感じる表現が目に付く。脱字もある。日本語としてこなれていないところがある。そういう個所を新潮文庫の木村浩訳で見てみると「こなれた」日本語で書いてある。

kindle版を読み始めてから少し内容が把握しにくくなったような気がしていたのだが、読み進めてきて、明らかに木村訳の方が読みやすい。

ただ、あくまでも私が読んでいるのはロシア語の翻訳である。微妙なニュアンスは翻訳ではわからないだろう。むしろ、こなれた日本語にしてしまうと原文の微妙なニュアンスが訳者の意図で消されてしまうようなこともあるかもしれない。


2024/05/16

アンナ・カレーニナ(第二編)

第二編まで読み終わった。

iPhoneのkindleアプリで米川正夫訳を読んでいるが、文庫本で持っているのは新潮文庫の木村浩訳の上中下巻である。

第二編までが上巻に収められているが、分量的には第二編までで31%である。kindleだとページの下にパーセンテージが表示される。

アンナの「不倫」が進行し、夫にも知られる状況となった。この「不倫」は夫の目を盗んでこっそりおこなわれたようなものではなく、心から夫に愛を感じなくなり、別の男を心から愛してしまった本気の恋愛である。

私はこの作品においてアンナは清純でむしろ兄の不倫を憎む聖母のような存在なのかと思っていたのだがそうではなく、むしろアンナこそが不倫に溺れてしまうのだった。

そして私はこの作品を読んでいて、だんだん、トルストイの女性嫌悪、特に性欲に対する嫌悪というものが感じられてきた。もっというとミソジニーである。

アンナの不倫は事情があって仕方のないことだというようなものではない。夫に魅力がなくなり愛情も感じなくなったとは言っても他の男を愛することが許されるようなことは何もない。単なる浮気でしかない。

トルストイはなぜこのような不倫に落ちる女性を主人公とした作品を書こうと思ったのだろうか。そこに何を感じたのだろうか。モデルはプーシキンの娘だとかいう話も読んだが、ここまでではアンナは魅力的な女性ではあるが高潔で立派な人物としては描かれていない。

むしろ、その周囲にいる素朴な人々をそれと対比させて、それらの人をたたえているように感じる。