2024/05/30

アンナ・カレーニナ(第五編)

Kindleアプリで、人名とか、気になったフレーズとか、誤植というか誤字というか、そういうところに色やメモを付けながら読んでいる。

iPhoneで読んだりPCで読んだりしているが、PCつまりWindows用kindleアプリは出来がだいぶ悪い。検索を何度かするとクラッシュしたり、行をまたいで選択すると余計な文字列が選択されたりする。

わざわざ端末を買うほどのことはないだろうと思っていたが、kindle端末を買おうかなと思い始めた。そこで、Windowsアプリの出来が悪いのも、端末を買ってもらいたいからおろそかにしているのかなと思った。


アンナ・カレーニナを第五編まで読んだ。(編でいうと8分の5、新潮文庫でいうと中巻まで、kindleのパーセンテージ表示だと67%)

ここまで読んでくると文体のクセ、訳文のクセ、登場人物の把握などができてスイスイ読めるようになる。最初は1章ずつ読むくらいだったのだが、今はどんどん読む速度が上がっている。

ロシア人の人名は呼び方がいくつかある。「アンナ・カレーニナ」と言ったり「アンナ・アルカージエヴナ」と言ったり、「カレーニン」と言ったり「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」と言ったり。「オブロンスキー」とか「スチーヴァ」とか。

アンナがカレーニンを呼ぶときは「アレクセイ・アレクサンドロヴィチ」となる。アレクサンドロヴィチは父称と言って、苗字ではない。

「アンナ・カレーニナ」は、「カレーニンの夫人であるアンナ」ということになり、「アンナ・アルカージエヴナ」は「アルカージイの娘であるアンナ」ということになる。

米川訳では父称を付けて呼ぶところをそのままカタカナで書いているが、木村訳は「主人」とか「あなた」としたりしている。父称は日本人にはなじみがないので、その方がわかりやすいだろう。

ただ、カタカナで書かれていると、その人を呼ぶときのその人の心情とか心理が少しわかるような気がする。


トルストイの描いている社会は貴族社会である。裕福な人々で、知事だったり、召使や家庭教師をやとっている。私の生活とは縁遠い。しかし、読んでいてそんなに違和感を感じることはない。芝居やオペラか何かを観に行くとか、みんなで集まって話をするとか、「社交界」とかいうものにも縁はないが、まあ、飲み会に毛が生えたようなものだと思いながら読んでいる。

しかしあらためて違和感を覚えるのは、アンナは不倫相手を家に入れ、その子を自分の家で産み、それをカレーニンも快く思わないながらも容認しているところである。現代の日本では考えられないことだろう。

そしてアンナとヴロンスキーは産んだ娘と一緒にイタリアへ行ったりする。そしてロシアに帰ってきたかと思えばこっそりというか無理やりというか家に帰って息子にあったりする。そのときも夫とすれ違ったりする。

貴族社会というのは、こういうことがある社会だったのだろうか。

リョーヴィンの幸福な結婚生活が描かれていたと思っていたら、兄の悲惨な死のエピソードが出てきたりする。

結婚、死、出産等は誰もが経験すると言ってもいい出来事ではある。不倫は誰でもとは言えないがそんなに珍しいことではなく、ちょっとした浮気程度であればしない人の方が少ないかもしれない。

それらのエピソードはほぼ客観的に描写されている。

トルストイの小説を「貴族社会を描いたもの」として読む必要はないと思う。トルストイ自身にも、貴族社会を描こうとしたつもりはなかったと思う。登場人物たちの生活は外国でもあり時代も違うから多少違和感や疑問を感じることはあるが、感情とか心理とかいうものは私でも十分理解できる。