梶芽衣子がよかった。
2012/01/04
2011/12/17
キェルケゴール 「死に至る病」
キェルケゴールの「死に至る病」というのは、この自己について書かれた本である。
テーマである「死に至る病」というのは「絶望」のことである。
この本は聖書をある程度読んでいないと理解不能である。少なくとも福音書を読んで、『なんだかよくわからないな』くらいの感想を持っていないと読めないだろう。この書物を難解だという人をよくみかけるのだが、難解なのではない。キリスト教や聖書を除外して哲学書として読むから読めないのである。キェルケゴール自身、これが哲学でも説教でもない中途半端なものであると断り書きをしている。
さて、「絶望」であるが、キェルケゴールのいう絶望とは、「自己が自己であろうとしないこと」である。自分が自分自身でないものになろうとすること。そして、キリスト教でいう「罪」とはそれだと言うのである。
さらに絶望にも段階があって、自己嫌悪のような簡単なものに始まって「悪魔の強情」ともいえるような「高度」なものであり、絶望できることはある意味優れた人間であるとも言えるなどと言っている。
だがやはり絶望は絶望であり、それを解決できるのは信仰しかない、というのである。
要するに「死に至る病」は「哲学を捨てて信仰しましょう」という話である。
優れた哲学者は、みんなこう言う。ソクラテスしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。「哲学によって真理を明らかにすることは不可能である」ということを理解するのが哲学のゴールである。
私が初めて「死に至る病」を読んだのは高校3年生の春である。みんながいよいよ本格的に受験勉強を始める頃である。私はどうしてもその気になれず、というか大学に行く理由も見つからず行きたい学部もなくぼーっとしていた時にこれを読み、2回ほど読み、何か悟ったような気になった。
「自己を見つめすぎてはいけない」というのとほとんど同じようなのだが、安易に自己から目をそらすのではないということ、わたしはこの頃にほとんど信仰を持ったと言ってもよい。
テーマである「死に至る病」というのは「絶望」のことである。
この本は聖書をある程度読んでいないと理解不能である。少なくとも福音書を読んで、『なんだかよくわからないな』くらいの感想を持っていないと読めないだろう。この書物を難解だという人をよくみかけるのだが、難解なのではない。キリスト教や聖書を除外して哲学書として読むから読めないのである。キェルケゴール自身、これが哲学でも説教でもない中途半端なものであると断り書きをしている。
さて、「絶望」であるが、キェルケゴールのいう絶望とは、「自己が自己であろうとしないこと」である。自分が自分自身でないものになろうとすること。そして、キリスト教でいう「罪」とはそれだと言うのである。
さらに絶望にも段階があって、自己嫌悪のような簡単なものに始まって「悪魔の強情」ともいえるような「高度」なものであり、絶望できることはある意味優れた人間であるとも言えるなどと言っている。
だがやはり絶望は絶望であり、それを解決できるのは信仰しかない、というのである。
要するに「死に至る病」は「哲学を捨てて信仰しましょう」という話である。
優れた哲学者は、みんなこう言う。ソクラテスしかり、カントしかり、ヘーゲルしかり。「哲学によって真理を明らかにすることは不可能である」ということを理解するのが哲学のゴールである。
私が初めて「死に至る病」を読んだのは高校3年生の春である。みんながいよいよ本格的に受験勉強を始める頃である。私はどうしてもその気になれず、というか大学に行く理由も見つからず行きたい学部もなくぼーっとしていた時にこれを読み、2回ほど読み、何か悟ったような気になった。
「自己を見つめすぎてはいけない」というのとほとんど同じようなのだが、安易に自己から目をそらすのではないということ、わたしはこの頃にほとんど信仰を持ったと言ってもよい。
2011/12/13
ポール・ヴァレリー 「ムッシュー・テスト」
「ムッシュー・テスト」
ポール・ヴァレリー 清水徹訳 岩波文庫
twitterでヴァレリーのbotをfollowしたら面白いので、ヴァレリーのものを何か読んでみようとジュンク堂へ行ったが、詩集と「・・・の危機」とかいうのしかなく、いまいち読む気がしなかった。
ある日新宿の紀伊国屋に行って(ハンズの横にあるやつ)、洋書コーナーのヴァレリーのところを探したら手ごろな厚さのものだったので選んだのが Monsieur Teste であった。
ポール・ヴァレリー 清水徹訳 岩波文庫
twitterでヴァレリーのbotをfollowしたら面白いので、ヴァレリーのものを何か読んでみようとジュンク堂へ行ったが、詩集と「・・・の危機」とかいうのしかなく、いまいち読む気がしなかった。
ある日新宿の紀伊国屋に行って(ハンズの横にあるやつ)、洋書コーナーのヴァレリーのところを探したら手ごろな厚さのものだったので選んだのが Monsieur Teste であった。
もちろん、歯がたたない。フランス語なんか、フランスギャルの歌詞くらいしか読んだことがない。
Monsieur Testeは邦題でなんというのか調べると、岩波文庫にあることがわかったのでジュンク堂で買ってきた。
朝、喫茶店で2回、家で寝る前に一回、そして今日電車の中で読んだら読み終えた。
量としてはとても短い。
量としてはとても短い。
だが、久しぶりに読むに値する本を読んだと感じた。
これはエッセイと小節と詩の要素を持ったもので、それらのどれとも限定できない。
キーワードは、自己と支離滅裂。
透明というか、無意味というか、ストーリーのない、感情も意志もない、とらえどころのない文章である。
しかし、難解だとか、お高く止まってるとか、安易な権威批判とか感傷でもなく、非常に誠実な印象を受けた。
そう、誠実。
私が読書をするときに最も重視するもの。誠実さ。
それが、この作品にはある。
何を言わんとしているかは掴みきれてはいない。
そして多分、これは掴んだと感じたら読めていないという類のものだと思う。
「テスト」というのは、英語の testify にあたるもののようだ。試験のtestではなくて。
「安易なもの、簡単なものが嫌いで、難解なものを求めた」というようなことを言っているのだが、それは「そんなに簡単に言い切れない」という意味であって、決してよくあるような小難しい理屈を述べたり人と違うことだけを競うようなものではない。
ニーチェ、カフカ、村上春樹、太宰治、トーマスマン、などには誠実さを感じない。三島には感じる。誠実さとはバカらしさとほとんど同じである。こいつバカじゃないの、と言わせるような、滑稽とほとんど区別のつかないものである。
それが honnêt homme か。
2011/12/01
お気に入りの映画
2011/11/11
アナログレコードとCDの比較
結論を言おう。アナログレコードの方が優れている。私は今日、レコードとCDの違いについてWEBで検索してみたところ、「CDの方が音質がよい」という意見が多数を占めていた。私には意外な結果であった。「CDは特定の周波数をカットしているので音に深みがない」というような事を複数の人から聞いていたからだ。それを語っていたのはミュージシャンや音楽愛好家の人達で、一人については直接話を聞いて、CDとレコードなんか比較にならない、聴けばすぐわかる、ということであった。私は毎日暇さえあれば音楽を聴いているが、音源はCDもしくはMP3である。MP3についてはCDよりさらに音質は低いと聞く。
CDとレコードの「音質」について語られることは主に二つあって、「情報量の多さ」と「雑音のなさ」である。レコードは磨り減って劣化するというのはまた別のハナシなのでそれは除外する。どちらが情報量が多いのか、ということについてはわたしはずっとレコードだと思っていたのだがそう簡単に言い切れないようである。いろんな話をきいていると、どうやら情報量の多さではCDの方が優れているという印象を持った。しかし、私はミュージシャンや音楽愛好家が「レコードの方がいい」と語る口調の強さの方がどうしても信用できる。「温かみがある」「深みがある」などというあいまいな表現をされていて、CD派の人々は思い込みにすぎないと批判するところである。少し理屈をつけると「CDは人間の可聴範囲を超える音をカットしているがそれが味わいや深みを消す」などということになるようだが、これも真実かどうか怪しい。実際CDとレコードの音を聴かせて区別できない人も多いそうである。
しかし、私は1時間程の通勤時間内でレコードの方が優れているという結論の根拠を見出した。これは、以前別の話で述べた「形式と内容」に関わることである。周波数とかサンプリングとかいうのは形式の話である。おそらく形式ですぐれるのはCDなのであろう。しかし、この形式上の優位が、音楽を録音・再生するということにはマイナスに作用するのである。形式上優位であり、生音の成分を忠実に保存・再生できるということは、演奏者にとって楽であるが、形式上不利な録音システムを利用する場合、録音によって失われることを考慮して、演奏者や録音技師達が工夫する。たとえばボーカルと演奏の音量の比率とか、ボーカルの声の出し方そのものとか、マイクの位置とか、演奏する場所が室内なのか屋外なのか演奏に適した音響設備の整ったホールなのか・・・そのように録音のために工夫し調整することがたくさんあるのがレコードすなわちアナログ録音である。一方CDすなわちデジタル録音はそのような工夫の必要はなく、スタジオで気軽に録音できる。多少ノイズが入っても機械的に処理して消すことができる。これである。私はデジタルとアナログの一番決定的な違いは、音の加工が可能であることではないかと思う。それは、「微妙な音が消える」「自然な音でなくなる」ということもあるが、それにもまして「演奏者の工夫と緊張を奪う」ということが重要ではないかと思うのだ。
その貴重な証人の一人がレス・ポール氏である。これはデジタルとアナログの違いではないのだが、演奏家でありエンジニアでもあったレス・ポール氏は多重録音装置を発明した。それ以前の録音で多重録音をするには、たとえば最初にバッキングを録音したら、そのテープを再生しながらボーカルが歌ったものを録音していた。だから、ボーカルが失敗したり、飛行機が飛んできたりしたらバッキングからやり直していたのである。レスポール氏は複数の録音を「トラック」に分けて、ボーカルが失敗したらボーカルだけ取り直せばすむようにした。ところが、この画期的なシステムを発明してからヒット曲が出なくなったそうなのである。私はこれも、便利な多重録音システムが演奏者の緊張を奪った結果だと思う。アナログレコードの録音から感じる「味わい」「深み」とかいうものは聴き手の思い込みなどよりも、録音技術が演奏家に与えた影響による気合の変化の結果なのである。これは録音装置の技術とは無関係のようであるが、これほど確実に与える影響もない。こう考えると、すべてに説明がつく。CDが含む周波数帯域の方が広いのにレコードの方がよく聴こえる理由、CDとレコードの音を聴き比べても区別できない理由。昔レコードで発売された古いアルバムがCD化されてそれを聴き比べたらおそらく区別は難しいだろう。演奏家に与える影響が変わらないからである。
私自身も、音楽を作ったことがある。最初に使用したのはカセットテープを使用する4トラックのアナログMTRである。音量は針が動くメーターで表示され、ボリュームやパンの調整は丸いツマミを回すことでおこなう。このときに作ったものは傑作が多い。ところが、その後MTRも高機能小型化がすすみ、カセットテープは使用せずにSDカードなどに録音するようになった。表示や操作は針やつまみではなく数値とボタンでおこなう。またギターのエフェクタやドラムマシンなどが内臓され、録音可能なトラック数も32だとか、飛躍的に増加した。私はいい時代になったものだと感心して新しいMTRを買ってみたのだが、どうもいいモノができない。カセットMTRの場合、録音した後再生するには当然巻き戻しが必要である。演奏が終わって録音を止めてテープを巻き戻す時間。これはメンドクサイことではあるが、「今の演奏はよかったんじゃないかな・・・あそこが失敗だったかな・・・」などと反省する時間でもあったしワクワクする時間でもあった。だがデジタル録音の場合は巻き戻しなどせずに録音が終わったらすぐ再生できるし、消すのも一瞬である。カットアンドペーストのような操作も簡単にできる。だが、そのような便利さは作品の本質には関係ないどころか悪影響を与えるのである。
以上述べてきたことは、アナログレコードとCDの過渡期の人間ならではの事である。最初からデジタル録音しかしたことのない演奏家には影響のないことだ。むしろ、録音のために余計な苦労をしなくてすむことで、演奏に専念ができるようになる。私は新しい技術を否定するのではない。不毛な努力はことごとく廃することに大賛成である。しかし、技術はあくまでも技術、形式であって、それにおぼれると本質が失われるのである。技術は簡単に進歩するが本質の進歩に近道はない。だから優れた芸術家は新しい技術を軽蔑するのであり、それが正しいのである。
CDとレコードの「音質」について語られることは主に二つあって、「情報量の多さ」と「雑音のなさ」である。レコードは磨り減って劣化するというのはまた別のハナシなのでそれは除外する。どちらが情報量が多いのか、ということについてはわたしはずっとレコードだと思っていたのだがそう簡単に言い切れないようである。いろんな話をきいていると、どうやら情報量の多さではCDの方が優れているという印象を持った。しかし、私はミュージシャンや音楽愛好家が「レコードの方がいい」と語る口調の強さの方がどうしても信用できる。「温かみがある」「深みがある」などというあいまいな表現をされていて、CD派の人々は思い込みにすぎないと批判するところである。少し理屈をつけると「CDは人間の可聴範囲を超える音をカットしているがそれが味わいや深みを消す」などということになるようだが、これも真実かどうか怪しい。実際CDとレコードの音を聴かせて区別できない人も多いそうである。
しかし、私は1時間程の通勤時間内でレコードの方が優れているという結論の根拠を見出した。これは、以前別の話で述べた「形式と内容」に関わることである。周波数とかサンプリングとかいうのは形式の話である。おそらく形式ですぐれるのはCDなのであろう。しかし、この形式上の優位が、音楽を録音・再生するということにはマイナスに作用するのである。形式上優位であり、生音の成分を忠実に保存・再生できるということは、演奏者にとって楽であるが、形式上不利な録音システムを利用する場合、録音によって失われることを考慮して、演奏者や録音技師達が工夫する。たとえばボーカルと演奏の音量の比率とか、ボーカルの声の出し方そのものとか、マイクの位置とか、演奏する場所が室内なのか屋外なのか演奏に適した音響設備の整ったホールなのか・・・そのように録音のために工夫し調整することがたくさんあるのがレコードすなわちアナログ録音である。一方CDすなわちデジタル録音はそのような工夫の必要はなく、スタジオで気軽に録音できる。多少ノイズが入っても機械的に処理して消すことができる。これである。私はデジタルとアナログの一番決定的な違いは、音の加工が可能であることではないかと思う。それは、「微妙な音が消える」「自然な音でなくなる」ということもあるが、それにもまして「演奏者の工夫と緊張を奪う」ということが重要ではないかと思うのだ。
その貴重な証人の一人がレス・ポール氏である。これはデジタルとアナログの違いではないのだが、演奏家でありエンジニアでもあったレス・ポール氏は多重録音装置を発明した。それ以前の録音で多重録音をするには、たとえば最初にバッキングを録音したら、そのテープを再生しながらボーカルが歌ったものを録音していた。だから、ボーカルが失敗したり、飛行機が飛んできたりしたらバッキングからやり直していたのである。レスポール氏は複数の録音を「トラック」に分けて、ボーカルが失敗したらボーカルだけ取り直せばすむようにした。ところが、この画期的なシステムを発明してからヒット曲が出なくなったそうなのである。私はこれも、便利な多重録音システムが演奏者の緊張を奪った結果だと思う。アナログレコードの録音から感じる「味わい」「深み」とかいうものは聴き手の思い込みなどよりも、録音技術が演奏家に与えた影響による気合の変化の結果なのである。これは録音装置の技術とは無関係のようであるが、これほど確実に与える影響もない。こう考えると、すべてに説明がつく。CDが含む周波数帯域の方が広いのにレコードの方がよく聴こえる理由、CDとレコードの音を聴き比べても区別できない理由。昔レコードで発売された古いアルバムがCD化されてそれを聴き比べたらおそらく区別は難しいだろう。演奏家に与える影響が変わらないからである。
私自身も、音楽を作ったことがある。最初に使用したのはカセットテープを使用する4トラックのアナログMTRである。音量は針が動くメーターで表示され、ボリュームやパンの調整は丸いツマミを回すことでおこなう。このときに作ったものは傑作が多い。ところが、その後MTRも高機能小型化がすすみ、カセットテープは使用せずにSDカードなどに録音するようになった。表示や操作は針やつまみではなく数値とボタンでおこなう。またギターのエフェクタやドラムマシンなどが内臓され、録音可能なトラック数も32だとか、飛躍的に増加した。私はいい時代になったものだと感心して新しいMTRを買ってみたのだが、どうもいいモノができない。カセットMTRの場合、録音した後再生するには当然巻き戻しが必要である。演奏が終わって録音を止めてテープを巻き戻す時間。これはメンドクサイことではあるが、「今の演奏はよかったんじゃないかな・・・あそこが失敗だったかな・・・」などと反省する時間でもあったしワクワクする時間でもあった。だがデジタル録音の場合は巻き戻しなどせずに録音が終わったらすぐ再生できるし、消すのも一瞬である。カットアンドペーストのような操作も簡単にできる。だが、そのような便利さは作品の本質には関係ないどころか悪影響を与えるのである。
以上述べてきたことは、アナログレコードとCDの過渡期の人間ならではの事である。最初からデジタル録音しかしたことのない演奏家には影響のないことだ。むしろ、録音のために余計な苦労をしなくてすむことで、演奏に専念ができるようになる。私は新しい技術を否定するのではない。不毛な努力はことごとく廃することに大賛成である。しかし、技術はあくまでも技術、形式であって、それにおぼれると本質が失われるのである。技術は簡単に進歩するが本質の進歩に近道はない。だから優れた芸術家は新しい技術を軽蔑するのであり、それが正しいのである。
2011/10/29
仁義なき戦い
初めて見る。もちろんこの映画のことは知っていたけど、あまり見る気になれなかった。
10人くらいいる部屋で話し合いのようなことをしているシーンがちょくちょくあるが、このときにそれぞれ好き勝手な方を向いていたり話を聞いているのかいないのかわからないような感じはよかった。
クロサワ映画だと全員が話し手の方をみていちいちうなずいたり反応するところである。
まずは、ビールを注がれて飲んだときに「これは馬のションベンか?ビールならもっと冷やいのもってこい」
というシーン。
これは「リングにかけろ」で剣崎が、菊がもってきたアイスティーを飲んで言うセリフとほぼ同じである。
もう一つは、主人公が死んだ兄貴分の住まいを訪れ、女がいるところに別の知っている男がやってきて鉢合わせるという、竜二と直であったようなシーン。
セリフは広島弁なので、何を言っているのかよくわからないところがある。
主人公の能美(だっけ?)は、透明な性格である。熱すぎず、賢すぎず、馬鹿でもなく、非人間的でもない。
ごく常識人だと言っても過言ではない。
それを取り巻く変わり者達。
これはいい小説や映画ができやすいパターンである。
ヤクザ映画は嫌いではないのだけど、それはあくまでもちょっと破綻しているような、支離滅裂なモノに限る。
ツタヤに行くと、10本くらいかな、たくさんある。
このようにシリーズ化されていることも敬遠していた理由の一つである。
当然、一番最初のを見た。
いきなり原爆投下のきのこ雲がスチールで映され、赤い字でデカデカと「仁義なき戦い」のタイトルが出て、
もう陳腐にさえなってしまったあの「テレレーテレレー」の音楽がかかるところは、カッコよかった。
最初のシーンは終戦直後、米兵に女が強姦されそうになって主人公が助け、MPが来る、などというシーンから始まるのだがうるさいし動きが激しすぎるしこれは誰だとか字幕がバンバンでるのが忙しくて見る気をなくしかける。
そして竜二に出ていた岩尾正隆が殺されるシーンで一段落する。
この殺人で主人公は刑務所に入るのである。
ツタヤに行くと、10本くらいかな、たくさんある。
このようにシリーズ化されていることも敬遠していた理由の一つである。
当然、一番最初のを見た。
いきなり原爆投下のきのこ雲がスチールで映され、赤い字でデカデカと「仁義なき戦い」のタイトルが出て、
もう陳腐にさえなってしまったあの「テレレーテレレー」の音楽がかかるところは、カッコよかった。
最初のシーンは終戦直後、米兵に女が強姦されそうになって主人公が助け、MPが来る、などというシーンから始まるのだがうるさいし動きが激しすぎるしこれは誰だとか字幕がバンバンでるのが忙しくて見る気をなくしかける。
そして竜二に出ていた岩尾正隆が殺されるシーンで一段落する。
この殺人で主人公は刑務所に入るのである。
基本的に画面はきれいで、変に気取ってもいず、かといって退屈だったりすることもない。
10人くらいいる部屋で話し合いのようなことをしているシーンがちょくちょくあるが、このときにそれぞれ好き勝手な方を向いていたり話を聞いているのかいないのかわからないような感じはよかった。
クロサワ映画だと全員が話し手の方をみていちいちうなずいたり反応するところである。
この映画から借用したと思われるシーンがいくつかあった。
まずは、ビールを注がれて飲んだときに「これは馬のションベンか?ビールならもっと冷やいのもってこい」
というシーン。
これは「リングにかけろ」で剣崎が、菊がもってきたアイスティーを飲んで言うセリフとほぼ同じである。
もう一つは、主人公が死んだ兄貴分の住まいを訪れ、女がいるところに別の知っている男がやってきて鉢合わせるという、竜二と直であったようなシーン。
セリフは広島弁なので、何を言っているのかよくわからないところがある。
が、好きな人はこの広島弁のセリフがいいらしい。
見ながらwikipediaなどでこの映画のことを調べた。
誤解していたことが一つある。
これは飯干晃一が書いた本が原作になっている。
私はこの本を、よくわからない作家がカネのために部外者のくせに極道について適当なことを書いたもので、ロクなもんじゃないだろうと思っていたのだが、
主人公が獄中でつづった手記があって、それが週刊誌に掲載され、その解説をする形で飯干晃一がかかわったようである。
だから、この話はホンモノの極道の話なのである。
見ながらwikipediaなどでこの映画のことを調べた。
誤解していたことが一つある。
これは飯干晃一が書いた本が原作になっている。
私はこの本を、よくわからない作家がカネのために部外者のくせに極道について適当なことを書いたもので、ロクなもんじゃないだろうと思っていたのだが、
主人公が獄中でつづった手記があって、それが週刊誌に掲載され、その解説をする形で飯干晃一がかかわったようである。
だから、この話はホンモノの極道の話なのである。
しかし、けっこうヤクザ達は弱虫だったり卑怯だったりする。
「仁義がない」というのは無慈悲であるというよりも、卑怯である、という意味のようだ。
・・・というようなことを、調べたり考えたりしながら見たので、
まだちゃんと見れていない。
菅原文太、梅宮辰夫、松形弘樹など、「若いなー」と思ったりするのが先にきてしまい、
映画そのものを見ることができなかった。
また落ち着いたら見直してみたい。
「仁義がない」というのは無慈悲であるというよりも、卑怯である、という意味のようだ。
・・・というようなことを、調べたり考えたりしながら見たので、
まだちゃんと見れていない。
菅原文太、梅宮辰夫、松形弘樹など、「若いなー」と思ったりするのが先にきてしまい、
映画そのものを見ることができなかった。
また落ち着いたら見直してみたい。
そうそう、ひとつだけ。
主人公の能美(だっけ?)は、透明な性格である。熱すぎず、賢すぎず、馬鹿でもなく、非人間的でもない。
ごく常識人だと言っても過言ではない。
それを取り巻く変わり者達。
これはいい小説や映画ができやすいパターンである。
2011/10/28
チ・ン・ピ・ラ
これは高校生のときにテレビで見て感心した記憶があって、
ずっとまた見たいと思っていた作品である。
これは竜二の金子正次が残した脚本によるもので、竜二の監督(途中から交代して)をした川島透が監督した作品である。
私は竜二のすばらしさは脚本もそうだけど川島透の手腕によるものだとずっと思っていたのだが、
本作には竜二ほどの味がなかった。
この話は最後にどんでん返しというか、オチがある。
銃で撃たれて死んだと思わせて実は演技だったというものである。
これにはちゃんと伏線があって、オープニングもそれから始まり、途中にももう一回、撃たれる演技のシーンがある。
私は最初に観たときは最後のは演技ではなくて、今までふざけてやっていたことが現実になってしまった、ということじゃないかと思った。実はこんなことだったらよかったのにね、という、観る者がどちらともとれるシーンじゃないかと。
今回観直してみたら、やっぱりこれは二人がまんまと出し抜いたという話だったのだと思う。
しかし、そうだとすると、少し後味の悪さが残る。
ヤクザ映画っていうのは悲劇でないと。
クスリにはまってしまい逃げてしまった女はどうなるんだ。
実際、誰だか忘れたけど映画評論家が監督か役者にこのラストシーンについて、「なくてよかったんじゃないか」といっているのを見た記憶がある。
私もそう思う。
最後、港で「死んだフリなんかするなよ」と泣きながらみっちゃんをひきずっと行くシーンは感動的だったから。
これは竜二の金子正次が残した脚本によるもので、竜二の監督(途中から交代して)をした川島透が監督した作品である。
私は竜二のすばらしさは脚本もそうだけど川島透の手腕によるものだとずっと思っていたのだが、
本作には竜二ほどの味がなかった。
この話は最後にどんでん返しというか、オチがある。
銃で撃たれて死んだと思わせて実は演技だったというものである。
これにはちゃんと伏線があって、オープニングもそれから始まり、途中にももう一回、撃たれる演技のシーンがある。
私は最初に観たときは最後のは演技ではなくて、今までふざけてやっていたことが現実になってしまった、ということじゃないかと思った。実はこんなことだったらよかったのにね、という、観る者がどちらともとれるシーンじゃないかと。
今回観直してみたら、やっぱりこれは二人がまんまと出し抜いたという話だったのだと思う。
しかし、そうだとすると、少し後味の悪さが残る。
ヤクザ映画っていうのは悲劇でないと。
クスリにはまってしまい逃げてしまった女はどうなるんだ。
実際、誰だか忘れたけど映画評論家が監督か役者にこのラストシーンについて、「なくてよかったんじゃないか」といっているのを見た記憶がある。
私もそう思う。
最後、港で「死んだフリなんかするなよ」と泣きながらみっちゃんをひきずっと行くシーンは感動的だったから。
柴田恭平を見ていたら、尾崎豊を思い出した。
似てないけど、尾崎ってああいうちゃらちゃらしたところもあるんだよね。
ジョニー大倉がよかった。
ちょっと太ってかわいい竜二みたいで。
やっぱり金子正次も韓国人の血が流れてるのかな。
そういう情報はないけど、顔とか名前からして。
やっぱり金子正次も韓国人の血が流れてるのかな。
そういう情報はないけど、顔とか名前からして。
2011/10/16
Epiphone Casino
ギターを買った。
Ephiphone Casino
59000円くらいだった。
数年もっていたFender Japanのストラトを手放して数ヶ月、やっぱり淋しくなった。
アンプにつなぐことはあまりないし、つないでもひずませて爆音を出すこともないので、
セミアコがいいなと思っていた。
Gibsonが欲しかったけどやっぱり高いからEpiphoneで妥協した。
帰って弾いてみると、イマイチなかんじだった。
ボリュームなどを調節するつまみをまわすとヨレる。
こんなギターは初めてだ。
まあ音には直接関係ないからそれはいいけど。
ネックの裏に「HAND-CRAFTED IN CHINA」というシールが貼ってある。
中国製だ。日本製だと値段が倍以上になるらしい。
まあしょせんは暇つぶしに爪弾くものなのでそんなにイイモノでなくてもいい。
モノは店頭に展示してあったもので弦がさびていたので張替え、
しばらくアンプなしで弾いてみるがやはりイマイチである。
ストラトやレスポールはアンプなしでもそれなりによかったのだが・・・
zoomのアンプシミュレータを買ってきてしばらく遊ぶ。
シミュレータもリズムがついてたり録音ができてたりと機能が多彩になった。
ギターなんてものは、手にしてみないと良さも悪さもわからないものである。
私は結婚のようなものだと思っている。
見た目はいいね。サンバーストで、お尻の大きい豊満なホローボディーで、f穴(正式名称は知らず)が開いている。
よろしくお願いしますね。
F-hole, 日本語だと F字孔と呼ぶそうだ。この穴は何のためにあるのかふと疑問に思ったが、当たり前すぎるのかあまり情報がない。共鳴した音の出口(サウンドホール)であることはわかるのだが、音を出す目的である。胴が共鳴すればその振動は外に伝わる。ソリッドギターは空洞でもなければサウンドホールもないが、やはり胴が共鳴するし、それだから木材の質などにこだわるのである。ピックアップで増幅するといってもやはりソリッドギターも弦の振動だけを拾うのではなく胴を共鳴させるのである。
サウンドホールは音を出すというよりも「逃がす」役割をもっているようだ。密閉された箱だと、共鳴が乱反射のような状態になり、せっかく振動したものが打ち消されたりするのだろうか。
アコースティックギターやクラシックギターは真ん中に丸い穴で、バイオリンやセミアコギターはF字孔なのはボディの形状によるのだろう。アコースティックギターなどはボディの表面が平らだが、バイオリンやセミアコは丸みを帯びている。この形状からセミアコギターなどははアーチドトップギター、アコースティックギターなどはフラットトップギターと呼ばれる。丸みを帯びているので丸い穴があけられない。そのため横のほうに細長くF字型に穴をあけた。F字である理由は諸説あるがアーチドトップのボディに開けるからというのがいちばん根本の理由であろう。
アーチドトップにすることで、音色がまろやかであたたかみのあるものになるとのことである。だが当然製作は難しく高度な技術を必要とするため高価なのだろう。
casinoにも目立たないが丸みがある。そういえばレスポールはソリッドギターですが丸みがあり、ストラトは平らだった。その辺も両者の音色の違いに影響しているのだろう。
こんなことも、実際お金を払って手にしてみて、ようやくわかったことである。
私はいままでトーンコントロールなど一切やったことがなかった。10と0で音が変わったりまったく出なくなるのはわかったが、それを調整して音色を調整する必要は感じなかった。ボリュームもトーンも常に全開にしていた。
今回あらためて疑問に思ったので説明書を読んでみた。
「全モデルのトーン・コントロールは、トレブル・カット・コントロールです。ノブを逆時計回りに回すとピックアップのトレブル出力がカットされて、ダークなサウンドが得られます。時計回りに全開に回すと、ブライトなサウンドが得られます。」
その前に二つのピックアップについてであるが、二つまたは三つついていて、ネックに近いほうを「リズム」「フロント」ピックアップ、遠い方を「トレブル」「リヤ」「リード」ピックアップと呼ぶが、違いはピックアップの位置だけである。もちろんピックアップそのものを違うものにすることはできるが、販売されているものは大体同じピックアップが二つついている。位置が違うだけで、そのPUが拾う音色が異なり、フロントはマイルドで暗めの重いトーン、リヤはシャープで明るめの軽いトーンとなる。
音色を「マイルド・シャープ」「硬い・柔らかい」「明るい・暗い」「軽い・重い」などと表現することがよくあるが、
これは基音と倍音の比率を言っている。倍音とはある周波数の整数倍の周波数の音のことで、たとえばギターのA弦をはじいた時に440Hzの振動と同時に880Hzとか3倍とかの振動が同時に発生する。基本が強ければ「マイルド」「柔らかい」「重い」「暗い」感じに、倍音が強ければ「シャープ」「硬い」「明るい」「軽い」感じになる。
フロントPUは振動する弦の中心よりにあるので基音を強く拾い、中心から遠いリヤPUは倍音を多く拾うのである。
そしてピックアップセレクタのスイッチにより、どちらか一方だけをオンにするか、両方オンにするかの3通りの選択ができる。ストラトのようにPUが3つある場合は、「フロントのみ」「フロント+ミドル」「ミドルのみ」「ミドル+リヤ」「リヤのみ」の5通りが選択できる。
私の場合、ひずませてリズムギターとしてバッキングする場合は「軽め」、クリーントーンのときは「重め」にする程度である。あとは使用するエフェクトによって適当にいじって気持ちいい感じの場所を探す程度だ。
私もギターマガジンをよんだり、いろんな人がトーンについて語るのを見聞きしていたが、あまりこの手のことにこだわりすぎると演奏家でなくエンジニアになってしまうので深入りしないようにしている。
2011/09/18
Come to mama (Pete Townshend)
私の敬愛するミュージシャン、Pete Townshendのソロアルバム White Cityの最後に収録されている曲。
私はThe Whoを聴くよりも前に、このアルバムによって初めてPete Townshendの作品とその演奏に触れた。
1曲目のGive bloodのイントロの衝撃は今でも忘れられない。
このアルバムにはこれまた当時聴いたことがなかったPink FloydのDavid Gilmourも参加していて、The Whoとはもちろん、Peteのソロアルバムの中でも雰囲気の違うアルバムとなっている。
Come to mamaは長いイントロの後、簡潔なメロディーの簡潔な詩が激しくシャウト気味に歌われ、これまた激しい「何を怒ってるの?」というくらいのギターのカッティングソロが繰り出される。
何度も聴いた曲だが、ふと歌詞の意味を吟味したくなった。
His pride is like a bandage
He's wrapped in a warm cocoon
His pride is just like Heroin
He's back inside the womb
His pride is like an Ocean
Encircled by a reef
His pride's an hypnotic potion
His memory is a leaf
Her pride is like an armour
Flaming ring of fire
Her pride is like a blindness
An ever tightening wire
Her pride is like a razor
A Surgeon's purging knife
Her pride is like a censor
She's slashed out half her life
タイトルの come to mama というフレーズは、母親が子供に「ママのところへおいで」というときに使うようだ。
「ママのところへ帰れ」というような侮辱の意味もあるのだろうか?
4節あって、前半二節は男性の、後半は女性のPrideを、1節で2回ずつ、合計4つずつ何かに喩えている。
男性 (his pride)
a bandage 包帯
Heroin 麻薬のヘロイン
an Ocean 海
a hypnotic potion 催眠剤
女性 (her pride)
an armour 鎧
a blindness 盲目さ
razor 剃刀
censor 検閲(官)
prideは日本語になっているが、自尊心という意味でよいだろう。Pete Townshendの歌詞は自己批判的であると同時にちょっと他責的だったり被害妄想的なところがある。また女性についての表現も少し屈折したところがある。喩えられたものをざっと見ると、男性のほうが弱くてもろいイメージのものが多い一方、女性のほうは堅固で攻撃的なイメージである。しかし単純に男女のプライドの対比を描いただけでもないと思う。
ちょっとわかりにくいのが、hypnotic potion, blindness, censorのあたりだ。hypnotic potionはヘロインと同じようなもので、どちらも自分の弱さやおろかさをごまかしているというような意味だろうか。それに対して女性は鎧ですべてをはねつけ、自分に不都合なものは一切目を閉じ、あるいは切り捨て、検閲官のように削除する、という感じだろうか。男と女はプライドの性質こそ違えどちらも自己自身を見つめて反省しないという意味ではどっちもどっちという判定だ。
he, sheと三人称になっているが、この男はpete自身、そして女は特定の彼の身近な(妻とか)女性のことではないだろうか。私はこの曲はpeteが女と喧嘩したか、昔にした喧嘩のことを思い出して落ち込むとどうじに怒りがこみ上げてきたのをなんとか抑えて第三者のことを客観的に描写した詩に創りあげたのではないかと思う。
私はbob dylanの詩はよく意味を考えて、なんとなく意図は読めるのだが、peteの詩はよくわからないものが多い。だがこの曲の詩はなんとなくわかったような気がする。
2011/09/12
トルストイ 「クロイツェル・ソナタ/悪魔」
「クロイツェルソナタ 」
二十歳の頃、トルストイを読んでみようと「復活」とかいろいろトライしたがドストエフスキーのようにはのめりこめず読めずにいた。「クロイツェルソナタ」も裏表紙にある概要からしても興味をそそられたのだが読めなかったのだが、古本屋で久しぶりに見つけて、最初に読んだ時はうっとうしかった導入部の車内の様子とかが逆に新鮮で、またタイトルの「クロイツェルソナタ」が話とどう関係があるのかも知りたくて読んだ。
ツルゲーネフの「初恋」のような独白形式である。小説としては作者が旅行中に列車のなかで出会った男が語るという形式になっているが、結婚、性欲、嫉妬、そして音楽についての過激な思想がぶちまけられている。
クロイツェルソナタといわれてもピンと来ないが、聴けばあああれか、とわかる有名な曲である。
だが私は彼らを見て思うのは、単に若い頃思う存分やりたいことをやって気が済んだだけだろう、ということである。ドストエフスキーがいい例である。彼は根本は無神論者だ。彼の小説を読んで感動する人たちは、アリョーシャやゾシマ長老に感動するのではない。ミーチャとかイワンの無頼っぷりや懐疑っぷりに共感するのだ。
トルストイについてはまだ判断できる程読んでいないのだが、彼はもっと素直で、馬鹿正直で、情や欲望に流されやすい人で、それが読者に共感されるのではないだろうか。
「悪魔 」
20年前には読めなかった。経験がたりなかったのか。しかし、経験していないと読めないような話は、二流の作品ではないか?
二十歳の頃、トルストイを読んでみようと「復活」とかいろいろトライしたがドストエフスキーのようにはのめりこめず読めずにいた。「クロイツェルソナタ」も裏表紙にある概要からしても興味をそそられたのだが読めなかったのだが、古本屋で久しぶりに見つけて、最初に読んだ時はうっとうしかった導入部の車内の様子とかが逆に新鮮で、またタイトルの「クロイツェルソナタ」が話とどう関係があるのかも知りたくて読んだ。
ツルゲーネフの「初恋」のような独白形式である。小説としては作者が旅行中に列車のなかで出会った男が語るという形式になっているが、結婚、性欲、嫉妬、そして音楽についての過激な思想がぶちまけられている。
クロイツェルソナタといわれてもピンと来ないが、聴けばあああれか、とわかる有名な曲である。
トルストイという人は若い頃放蕩をしたがその後は厳しい倫理家になったそうだ。
しかし、私は今回「ソナタ」を読んで改めて思ったのだが、若い頃の放蕩は人を取り返しのつかないくらいにダメにする。妻を殺した男が前半に語る性欲の罪についての話は、ほとんどトルストイ本人の本音ではないだろうか。性欲をあそこまで罪であると憎んだのは放蕩の反動だろう。
若い頃左翼運動に傾倒したとか、ヤクザだったとか、とんでもない不良だったとか、それがある日改心して宗教家になった、などという話はたまに聞く。そういう人が書いた本がベストセラーになったりした。
ドストエフスキー、太宰からはじまってアウグスチヌスとかもそうだ。
パウロはどうだろう?パウロも改心した男であるが、彼はイエスを迫害していたとはいえ熱心なユダヤ教徒であり放蕩家ではなかったのではないか?だからイエスに選ばれたのではないか?後で調べてみる。
そういう、「改心者」の話を聞くと、結局その人の人間を作ったのは過去の悪行のほうで、語る時にもその悪行についてのほうを生き生きと自慢げに語りさえする。「あの時代があったから今の自分がある」などと。
若い頃左翼運動に傾倒したとか、ヤクザだったとか、とんでもない不良だったとか、それがある日改心して宗教家になった、などという話はたまに聞く。そういう人が書いた本がベストセラーになったりした。
ドストエフスキー、太宰からはじまってアウグスチヌスとかもそうだ。
パウロはどうだろう?パウロも改心した男であるが、彼はイエスを迫害していたとはいえ熱心なユダヤ教徒であり放蕩家ではなかったのではないか?だからイエスに選ばれたのではないか?後で調べてみる。
そういう、「改心者」の話を聞くと、結局その人の人間を作ったのは過去の悪行のほうで、語る時にもその悪行についてのほうを生き生きと自慢げに語りさえする。「あの時代があったから今の自分がある」などと。
だが私は彼らを見て思うのは、単に若い頃思う存分やりたいことをやって気が済んだだけだろう、ということである。ドストエフスキーがいい例である。彼は根本は無神論者だ。彼の小説を読んで感動する人たちは、アリョーシャやゾシマ長老に感動するのではない。ミーチャとかイワンの無頼っぷりや懐疑っぷりに共感するのだ。
トルストイについてはまだ判断できる程読んでいないのだが、彼はもっと素直で、馬鹿正直で、情や欲望に流されやすい人で、それが読者に共感されるのではないだろうか。
あと、医者否定もキツいね。
俺みたい。
「悪魔 」
20年前には読めなかった。経験がたりなかったのか。しかし、経験していないと読めないような話は、二流の作品ではないか?
2011/08/15
野坂昭如 「火垂の墓」
終戦記念日だからというわけではないが、いらない本を片付けようとしてそういえば読んでなかったなと、読んだ。ちょっと独特の文体が読みにくくて何度か読もうとしてやめていたものだ。
かわいそうな話ではあるが、わたしは終始この作品に感情移入できなかった。経験がないせいもあるが、それだけではない。結局、こんな話を聞かされたら、「戦争は残酷だ、二度と戦争を起こしてはならない」としか言いようがなくなってしまう。
テレビなどでしゃべっている野坂さんは大好きだけど。
テレビなどでしゃべっている野坂さんは大好きだけど。
2011/06/12
さや侍
初日に新宿で見る。5時半頃からの回を見ようと1時間くらい前に行ったら売り切れでその次の回にするが、
それでも最前列2列の席しか残っていなかった。
客の反応はよくて、後ろから笑い声やすすり泣きも聞こえた。
今までの2作と違ってはぐらかすようなところがほとんどなかった。
映画としては成功だったのではないだろうか。
しかしそれはあくまでも商売としての話で、私はあまり松本らしくない映画だと感じた。
エンドロールにも脚本は松本とクレジットされているがそこに高須氏初め何人かが案を出しているようだった。
始まってしばらくは、説明的だなと感じることが多かった。
そんなことはどうでもいいのだが主人公が逃げて、さらに捕まり、さらに笑わせることになる理由が今ひとつよくわからず、感情移入できない。
単におもろいおっさんにアレコレやらせて笑いものにしているだけのように感じなくもなかった。
客の反応はよくて、後ろから笑い声やすすり泣きも聞こえた。
今までの2作と違ってはぐらかすようなところがほとんどなかった。
映画としては成功だったのではないだろうか。
しかしそれはあくまでも商売としての話で、私はあまり松本らしくない映画だと感じた。
エンドロールにも脚本は松本とクレジットされているがそこに高須氏初め何人かが案を出しているようだった。
始まってしばらくは、説明的だなと感じることが多かった。
そんなことはどうでもいいのだが主人公が逃げて、さらに捕まり、さらに笑わせることになる理由が今ひとつよくわからず、感情移入できない。
単におもろいおっさんにアレコレやらせて笑いものにしているだけのように感じなくもなかった。
笑わせるゲームの結末については、全く予想外ということでもなかったがまさか、という感じだった。
しかし主人公が死ぬソーンはやや冗長でその後はちょっと蛇足に感じた。
あそこはもう少し暗示的にやってほしかった。
あそこはもう少し暗示的にやってほしかった。
本作はおそらく、松本が最初に意図していたものとは大きく違ったものになったのではないだろうか。
今までの2作が今ひとつ評価が低かったため、「売れさせよう」という、周囲のスタッフの力みが感じられた。
大日本人もしんぼるも3回くらい見たが、さや侍は多分もう見ない。
大日本人もしんぼるも3回くらい見たが、さや侍は多分もう見ない。
野見さんは、「働くおっさん劇場」に出演していた当時、たまたま勤務時間が遅くて帰って寝る頃にやっていたので見ていて、強烈な印象を持っている。
テレビでさえないおっさんやじいさんが言うどうでもいいことを笑いものにするというのはよくあるが、彼はただのおもしろいおっさんではなかった。
いくら素人でも、テレビに出るようになると自分がどんなことを言い、どんな反応をすればいいかわかってきて、客が求めることをするようになる。
しかし野見さんを初めとする「働くおっさん劇場」の出演者にはそういうことがほとんどなかった。
どうしてそういうことができたのか。後から知ったのだが、おっさん劇場では松本は野見さんと対面すらしていないそうだ。もし松本の目の前で何かやらせたら、やっぱり一度受けたことを何度も繰り返すようなことをしていたと思う。
しかし松本もいなければ笑う客もいない。声で指示をしたりちょっとした会話をするときにも、松本は頻繁にわらうのだが、その笑い声が野見さんには絶対に伝わらないように配慮されていた。
いくら素人でも、テレビに出るようになると自分がどんなことを言い、どんな反応をすればいいかわかってきて、客が求めることをするようになる。
しかし野見さんを初めとする「働くおっさん劇場」の出演者にはそういうことがほとんどなかった。
どうしてそういうことができたのか。後から知ったのだが、おっさん劇場では松本は野見さんと対面すらしていないそうだ。もし松本の目の前で何かやらせたら、やっぱり一度受けたことを何度も繰り返すようなことをしていたと思う。
しかし松本もいなければ笑う客もいない。声で指示をしたりちょっとした会話をするときにも、松本は頻繁にわらうのだが、その笑い声が野見さんには絶対に伝わらないように配慮されていた。
そしてその方法は今回の映画撮影でも使われたそうで、主役であることも映画を撮っていることすらも、ギリギリまで知らされていなかったという。
あと、番人みたいな役の一人の口をあけた三白眼の男が気になっていたのだが柄本明の息子だった。
彼がよかった。ちょっと甘口になってしまった今回の映画を引き締めていた。
そう、今回の映画は甘口だった。お子様向けだ。松本がもっとも嫌うこと。
子連れ狼の影響が見えた。あと武の影響も。
武っぽさはスタッフが出していたのかもしれない。
彼がよかった。ちょっと甘口になってしまった今回の映画を引き締めていた。
そう、今回の映画は甘口だった。お子様向けだ。松本がもっとも嫌うこと。
子連れ狼の影響が見えた。あと武の影響も。
武っぽさはスタッフが出していたのかもしれない。
2011/05/20
プーシキン 「オネーギン」
久しぶりに本を読んだ。
始めて読んだのは高3のころ、もう20年以上前。
なんで読んだかというと、太宰が触れていたから。
プーシキンは「大尉の娘」がおもしろかったのを覚えている。
「オネーギン」の話の筋はよく覚えていなかったが、
「ふさぎの虫」というキーワードと、放蕩者であること、
楽しい話ではないことなどはおぼえていた。
プーシキンが20代の頃の作品である。
「斜陽」のような雰囲気を感じたがマネしたのは太宰のほうなのだろう。
なんで読んだかというと、太宰が触れていたから。
プーシキンは「大尉の娘」がおもしろかったのを覚えている。
「オネーギン」の話の筋はよく覚えていなかったが、
「ふさぎの虫」というキーワードと、放蕩者であること、
楽しい話ではないことなどはおぼえていた。
プーシキンが20代の頃の作品である。
「斜陽」のような雰囲気を感じたがマネしたのは太宰のほうなのだろう。
「オネーギン」は韻文であるが、翻訳は散文で小説のように書かれている。
これを韻を踏んで書いたらいったいどうなるのか。
読んでみたいが、ロシア語じゃな・・・
読んでみたいが、ロシア語じゃな・・・
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